平成22年度第2回 第1部~あなたならどうする?~

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第2回 第1部:「米と魚と新聞紙で地域を活性化』
~あなたならどうする?~

講師
柳井 雅也 先生(東北学院大学教養学部地域構想学科 教授)
開催日時
平成22年10月20日(水)14:10~15:10
場所
仙台商工会議所 7階大会議室(宮城県仙台市青葉区本町2-16-12)

柳井 雅也(Masaya Yanai)

東北学院大学 教養学部地域構想学科 教授

1958年 宮城県仙台市生まれ。
福島大学経済学部卒業、法政大学大学院人文科学研究科地理学専攻修士課程終了。
岡山大学助教授、富山大学経済学部教授を経て2005年4月より東北学院大学教養学部地域構想学科教授。
「中部地域経済産業の将来展望に関する検討委員会北陸部会長」(経済産業省中部経済産業局)、「国土形成計画北陸圏広域地方計画協議会委員」(国土交通省北陸地方整備局)等を歴任
専門:経済地理学
研究テーマ:先端技術産業の立地、地域経済論
著書:「企業空間とネットワーク」(共著、原書房)、「地域産業の再生と雇用・人材」(共著、日本評論社)等

講義内容

第1部

どうも皆さんこんにちは。本日はお忙しい中お集まりいただきましてどうもありがとうございます。私、東北学院大学教養学部地域構想学科の柳井雅也と申します。今日はひとつよろしくお願いいたします。今日はお題の方は米と魚、そして新聞紙で地方を活性化ということで少しお話をさせていただきます。
昨今の日本経済の状況は2008年のリーマンショック以降非常に悪い状況がございます。ましてや地方は疲弊の度が高く、そしてなかなかその打開策が見つけ出せない、そういった状況に追い込まれております。

なぜそうなのかということなのですが、一般に地方の主要産業といわれているものは3つあります。1つは農業でございます。農業については後で少し詳しくお話をしますが、なかなか後継者が見つからず衰退の一途をたどっているところです。そして2つ目は建設業です。この建設業は公共投資の削減ということで仕事量が大幅に減りまして、地方によっては3割4割のゼネコンや関連産業が廃業に追い込まれていく、あるいは転業の方に追い込まれていくという状況にあります。そして3点目は商業です。商業については今まで地方における文化を担ってきたのですが、ショッピングセンターや最近では通販が進化してまいりまして厳しい場面を迎えております。そのため商業も衰退の一途をたどっています。従って地方においてはこの3つの主要産業というものが軒並み隘路に追い込まれているということがいえるかと思います。

しかしこういった状況下においても一生懸命頑張って自分たちの「なりわい」もしくはビジネスというものをしっかりつくっていこうという動きもあります。今日は閉塞状況を打破して地域の活性化を行っていこうとする2つの企業を皆さんにご紹介をして、今後の地域活性化のご参考になればと考えております。

1つ目は、八戸のダイマルといういわゆる魚の加工販売を行っている会社がございます。そこの子会社でディメールという会社がございますが、ここの事例を1つ挙げようと思っております。ここは冷凍の押し寿司をつくっている会社です。これは40分ぐらい水につけていただくと非常においしい状態でおすしが食べられるものです。通常、会社は取引する原材料を買い叩くというのが普通なのですが、この会社はそれをあえて買い叩かないことにで、地域の活性化というものを目指していく、そういう取り組みをしている会社でございます。

あともう1つは、高知県に四万十町があるのですが、ここの四万十ドラマという会社の事例を挙げたいと思います。この四万十ドラマは何もないところから1つのビジネスをつくり上げている、普段無駄と思われていることをビジネスにつなげていくという非常に面白い取り組みを行っている会社です。ここの場合は地域の環境をいかに守っていくか、その時その地域資源というものをどういうふうに活用していくのかという、そういった視点からお話をさせていただきたいと思っております。今日はこの2つを参考にお話を進めてまいります。

その前に少し日本の農業が追い込まれている状況をお話させていただきます。

はじめに

もともと日本の農業は食管制度に守られながら作物をつくって、それを農協が買い取って市場に出荷していくという、そういう中で生存してきた産業でした。しかし食管制度が崩れる中でだんだんと担い手が高齢化していく一方で、アメリカをはじめとする農産物輸入自由化という外圧は、GATT、あるいはWTOという形で国際社会における「農産物の取引を自由化せよ」という大きな外圧に変化していきました。その中で日本は当初は、「米は聖域である」という形でなかなか外圧の要求を認めていなかったのですが、1990年代に入りますとそれを一部開放という形で認めてしまいます。

しかも90年代に入りますとここの図にありますように、例えば90年プロセスチーズ、あとトマト加工品等、10品目を自由化していきます。91年になりますと牛肉とオレンジの自由化、93年は米の部分自由化を含む農産物の自由化。そしてGATT、ウルグアイ・ラウンドに合意をしていく。95年になりますと小麦、大麦、そして豚肉などが自由化していくという流れをつくりだされていきます。中でも、91年の牛肉自由化が非常に重要な役割を担っておりました。

どういうことかといいますと、日本政府の方針は、米は開放しないが肉はよいということで、アメリカから肉の輸入を91年に認めるのです。そうするとどういうことが起きたかというと、アメリカそしてオーストラリアから安い牛肉がたくさん入ってきます。日本の畜産農家は軒並み経営不振に追い込まれていくわけなのです。畜産関係は大きな投資が伴いますので負債を抱えて倒産をしていくということで、そこにお金を貸していた農協の経営が難しくなってきました。実は広域合併というのはこういったことが引き金になっていたわけでございますが、JAの改革にやがてつながっていくわけなのです。つまりアメリカのロビイストたちは日本の農産物の自由化を進めるに当たって、米の自由化よりはこの牛肉を自由化することによって日本の市場を開放していく、そういった戦略を取っていたわけです。

その結果この農家と農業従事者はどんどん減っていくことになります。1995年段階で日本の農業就業人口というのは414万人ほどおりました。それが2008年になりますと299万人まで減っていくわけです。その差115万人が農業からいなくなっていったということです。これを年に換算しますと8万8千人の方が毎年農業を辞めていくということになります。若い人たちにはこの農業に対しては「夢がない」ということで後継者難になりました。つまり農業を継ぐよりはちゃんとした会社に入って、そしてサラリーをもらって生活する方が安全であると考えるようになりました。また、農協あるいはJAに農産物を出しても形と大きさ、そして色合い、こういったところでしか引き取ってくれない。つくっていく喜びがなかなか感じられないという状況も出てきました。そういった中で農業というのが徐々に魅力を失っていって、言ってみれば衰退産業の道を歩んでいくことになったわけです。実は林業や水産業においても同じような衰退が確認できます。つまり日本の一次産業というのはこの90年代から急速に衰退したわけです。

しかしこのような衰退状況下でも、やはり、こういう状況を「なんとかせねばならない」と考える人たちが出きます。これは自分のビジネスモデルや理想というものを前提に、農業はまだまだ再生が可能であると、農業にはたくさんの魅力があるのだ。あるいは水産業には未来があるのだというふうに考える人たちです。そして頑張っているグループの中には自分たちがつくったものを農協には出さないで直接消費者に届くように運動していく人たちが出てきました。一般にこれは「地産地消」というふうにいわれておりますけれども、生産者と消費者が直接対面をして取引を行っていくことです。

このメリットは何かといいますと、農協を介して売っていた段階では消費者の顔というのがなかなか見えなかったわけです。ところがこの消費者と生産者が出会って、そしてその農産物を売り買いしていく中で、「昨日頂いたジャガイモがおいしかったよ」とか、「ネギがおいしかった」、「米もおいしかったよ」と言っていただけると、これはつくり手が非常に喜ぶのですね。「今度出すときはもっとおいしいものを出してみよう」と。「今回はこういった農産物は出していないけども次回はちょっと変わったネギでも持っていこうか」と、こういうふうに変わってくるわけなのです。つまりつくる喜びというものを得るのです。生産者はこうして努力すれば消費者が喜んでくれることを学ぶわけです。消費者の方も生産者が努力していただける市場価格よりも多少高くても買いたいという気持ちになってきます。そういった中でのやり取りをしていく中でお互いが成長していくわけなのです。つまり消費者の方は商品知識が増していきますので、環境とかあるいは農薬といったもの、そういった、問題に対して敏感になっていきます。もう一方つくる方は、どうしたらこういった人たちが喜んでくれるのか、どういう時期にどういった作物を出すとたくさん人が買ってくれるのか。特に値付けですよね。だんだんと市場の意味が分かってくるのですね。そうなると生産計画、そして経営努力というものが実感できるようになります。
実はその媒介になったのが産地直売所といわれているところなのです。あるいは「道の駅」というようなところが販売額を飛躍的に伸ばしていきます。そして2000年に入って間もなくするとJAつまり農協もそのことに気付いてくるわけなのです。自分たちもそういった産直経営に携わるようになってきます。つまり日本全体が地産地消の運動の渦の中に飛び込んでいくわけなのです。

政府もそれに対して何とかしなくてはいけないということで施策を打って出ます。それが2005年に出された「攻めの農業」といわれているものです。農業が衰退していく中で一生懸命意欲を持っている人たちが取り組んでいる姿、これを受けて政策化してくるわけです。それはやがて、地産地消から農商工連携、6次産業化という形に展開していくわけです。これはどういうことかというと、地産地消でやっていくということはあくまでも地元で取れたものは地元で売って、地元で消費していくという考え方です。逆の言葉は遠産遠消ということで、海外から入ってくる農産物です、ポストハーベストの問題だってあります。CO2をまき散らしながら飛行機や船でやって来ることもあるかもしれません。そういったものに対して地産地消というのは距離を短くして、そして地元で消費して、地域経済循環を活発にしていくという考え方だったのです。

ところがこの農商工連携という新しい概念が2007年になってくると展開されてまいります。この農商工連携というのは地産地消よりはもうちょっと幅のあるもので、生産も販売もより遠くの方と取引を行って、遠くで販売してもよろしいということです。その眼目は農家と商工業者が連携を取ることにあります。それによって新しい商品を生み出していくという、そういった約束のもとに農商工連携という認定を国が行いました。
実は今日取り上げる2つの事例はこの農商工連携の成功例というふうに言われています。さて、この農商工連携なのですけども、事業スキームというのはどういうふうになっているかということですが、関連する2つの法律があります。1つは、「中小企業者と農林漁業者との連携による事業活動の促進に関する法律」(略称:農商工等連携促進法)です。これは2008年に施行されています。それから「企業立地の促進等による地域における産業集積の形成及び活性化に関する法律の一部改正する法律」(略称:企業立地促進法改正法)というふうに言われております。
さらに農商工等連携促進法は、農商工等連携事業計画と農商工等連携支援事業計画という2つのスキームから成り立っています。この中で主なものは事業計画の方です。これは、中小企業者と農林漁業者が連携して行う新しい商品の開発・販売、この取り組みに対して支援を行うものであるということです。つまり中小企業者と農林漁業者が新しいサービスの開発も含めて、新しい商品をつくることです。それで国からこの計画認定を受けた場合は事業資金の貸し付けあるいは設備、機械の取得に対する税制、そういったものを支援するものです。支援事業計画の方は農林水産業と商工業者のマッチングを行っていく。あるいは公益法人あるいはNPO法人までも含めて支援体制を組んでいくという、こういったスキームになっております。2010年6月10日現在374件、そして支援事業は6件ということで合計380件が採択されています。

さて、こういった支援策の中にコーディネーターという方が位置づけられています。彼らは農商工連携の認定を受ける前から、農家や企業に対していろいろな応援をする人たちです。それは銀行であったり、あるいは県の関連する団体であったり、あるいはコンサルタント、会計士、こういった方がいわゆる地域連携の拠点ということでその中のメンバーとしてコーディネートを行っていくわけなのです。これは一般の企業が申請をしようと考えたとき、申請の仕方やどういう連携体を組んだらよいのか、あるいは事業計画をどう立てたらいいのかが、なかなか分かりませんよね。そういったお手伝いをします。その後、国から認定を受けますと、彼らの役割はだんだん減衰していくわけです。今度は代わりに中小企業基盤機構の方たちがハンズオンといいまして経理内容であるとか、あと事業をもっと軌道に乗せていくにはどうしたらいいかという応援に引き継がれていくわけです。実際、これを実行していく中ではいろいろな問題も当然出てまいります。例えば利益配分をどう行うかになると、どうしても農業者は市場というのがあまり良く分からないために利益の大部分が工業者あるいは商業者の方に持っていかれるなど、問題がないとは言えません。しかし、連携体を立ち上げる上では非常に重要な支援策になっているのだということは言えると思います。

さて、こういったことをちょっと頭に入れながら事例に入っていきたいと思います。

第1章 地域活性化 事例1 ~四万十ドラマ~

まず1番目は四万十ドラマという会社についてです。四万十町はどこにあるかということですが、四国の高知市から車で2時間ぐらい西の方に行った所にあります。中山間地域に位置しています。彼らはどうしてそういったところにいて地域活性化に成功しているのでしょうか?ここに1人の重要な人物がおります、それは畦地履正さんという方です。彼はもともと農協職員でした。もともと高校時代は優秀な野球のピッチャーだったそうですが、大学に行ってまで野球をやるのは嫌だということで逃げ出して、それを知った母親が連れ戻して農協職員にしたそうです。最初は「なんでおれはこんな田舎にいて毎日青い空と緑の山を見て暮らさなくちゃいけないのか」と思って暗たんたる気持ちでいたそうです。しかし農協の職員になったということで金融、あるいは簿記の勉強をしていく、あるいは農業の実際の現場を訪ねて行ったりするうちに、いろいろな知識を学んでいったのです。

あるとき、ある人に愚痴を言ったとき、「畦地くん何を考えているのだと、もう少し足元を見なさい」というふうに諭されました。それから彼は四万十川のほとりに立って、そして毎日のように「この地元四万十に何があるのか?」と考え続けたそうです。実はこの考え続けた時間というのが後の彼にとっては非常に重要な時間になっていくわけなのです。一見無駄に見える時間が意味を持つ時間に変わっていった瞬間でもあったわけです。彼はある時、「ハッ」と気付きました。この美しい自然というのは実は単なる風景として理解するのではなくて重要な地域資源ではないだろうか、そういうことに気付いたのです。そう考えると、実はこの美しい川そして山そして空といったようなものがいろいろなふうに活用できるということに気付いたのです。それから彼は面白い商売の仕掛けやビジネスモデルを次々とつくり始めていきました。

彼が考えたのは3つの輪(ベン図)です。自分は地域に対してこの美しい風景を自分たちの孫子に残していかなければならない、しかしビジネスはやらなくてはいけないのだと考えたのです。まず1つ目の輪はネットワーク、つまり人と人とがつながるということをまずやろうと考えたのです。これはどういうことかというと、自分たちが「ハッ」と気が付いたこの資源は自分が気付くだけじゃ駄目だ、ここに暮らしている人全員が気付けるような、つまり「価値観の共有」というものを図っていかなければだめだと考えたのです。そのために一生懸命ネットワークづくりをやっていったのです。2つ目の輪は、産業を起こさなくてはいけないと。つまり地域の人たちが次の世代にバトンタッチしていくためには雇用の場というものをつくっていかなければならないと考えたのです。人口が減ったのは雇用の場がなかったからなのです。そのためにはいろいろな企業あるいは農業といったものが関係あるいは関連していく必要があるのだと気付いたのです。そのため手法は、農業と簡単な加工による、いわゆるローテクでいこうと考えたのです。ハイテクをやると地域資源の価値を収奪する可能性があります。場合によっては人体に影響もあります。たとえば廃液が流れ出すかもしれません。そういったことは避けようと考えたのです。3つ目の輪は環境です。この風景を守っていかなければいけないということでローインパクトということを考えたのです。例えば木を切ってものをつくったら、必ずその分の木を植えようというふうに考えていったわけです。こういった考え方の中でビジネスモデルを組上げていきました。

通常は、環境を何とかしたい、産業を何とかしたい、そしてこのネットワークを何とかしたい、ばらばらに考える人はたくさんいると思います。ところが畦地さんが素晴らしかったのはこれを一緒に考えたのです。そして、この図を仕上げて、その中心に四万十という地元を置いたのです。従って、彼がつくり出すビジネスは、このベン図の重なり合った部分に起きてきます。具体的には四万十の栗です。非常に有名でございます。赤ちゃんの拳よりはちょっと小さいぐらいですけども、栗の世界で言うと非常に品質が良くて大きいものです。これをどういうふうにしたかというと、ただ栗を売ってしまっただけでは全然価値が付きません。そこで彼は一生懸命頑張って栗の工場を誘致するのです。そこで栗のペーストをつくっていきます。このペーストをつくればお菓子屋さんが使ってくれる。あるいは和菓子屋さんが使ってくれる。ましてや栗のタルトをつくれば大きな百貨店がやってきてそれを売ってくれるというふうに考えたわけです。そして売るときも四万十の栗はおいしい、品質がいいということに自分たちは自信を持っていたわけですから、どういうことをやったかというとその栗を1つ500円ぐらいの値段ではなくてその倍以上の1,200円で百貨店やスーパーで売りに出していくわけです。当然、生産者には栗の選定などをきちんとやっていただく。あるいは下草をきちんと刈り取っていただいて、その養分がきちんと栗に伝わっていくような、そういった品質管理もきちんと行っていきます。一定程度を越えて消費が増えてくると休耕地だった場所に栗をもう一度復活させていくことが可能になってきます。そういうふうにしていくわけです。

この畦地さんは出口戦略を持っていました。誰に対してどういうふうに売っていくかということを実は一生懸命研究していました。彼はもともと持っている素材、四万十栗は「いい」というのは分かっていましたので、出口戦略は「絶対に安くしない」、「付加価値の高い」、そして併せて「四万十という名前が売れるような」栗の売り方をしていこうと考えた。彼は「商品は情報を運搬してくれる」と考えていたのです。つまりそのおいしい栗タルトを食べた人が、「あら、こんなおいしい栗をつくっている場所に行きたいわ」というふうに思わせるような、そういう仕掛けづくりを行っていくわけです。果たして栗を食べておいしいと思った方が四万十に訪問するようになります。実はこの畦地さんのところは道の駅を経営しております、ここで、栗を売るのです。当然併せていろいろなものを売り込んでいくわけです。カニを売ったり、レストランも経営していますから今度は天然のアユを食べさせたりするわけです。そういうふうにしてさらにその四万十栗を深く知りたい人には栗の学校ということでいろいろな栗に関するお勉強ができるようにしたり、あるいはついでに来たということで四万十川でカヌーをやりたいといったらカヌーをさせるなど。そのとき地元の人たち、おじいちゃん、おばあちゃんは先生というふうにして全部こういったところに仕掛けをつくって参加させていくのです。

この写真のように四万十にはお茶もあります。今まで四万十でつくられたお茶はほとんどが静岡に持っていかれたのです。つまり加工しないで持っていくと地元にその儲けが落ちないということに気付いているのですね。これはたとえ話ですが、白菜1個を売れば100円で、これを漬物にすれば約3倍の値段で売れる。さらにこれからエッセンスを取り出して化粧品の原料に使えば10倍以上で売れるわけです。つまり安く売るということをしたくなければ必ず地元で加工を行って、そしてそこに自分たちのブランド名を付けて売り込んでいく、そして人を呼び込むという戦略を取るということになります。こうして四万十茶が誕生しました。

じゃあ畦地さんは平成8年に、「自然の学校」を開設しました。例えば、薪を割って五右衛門風呂に入る学校ということです。私の知り合いが四万十に行ってこれをやったのです。どうでしたかと聞いたら、「いや、すごかった」というのですね。「何がすごいのですか」といったら、自分で山に行って木を切ってきて、そして薪の割り方だけ地元のおじいちゃんに教えてもらったというのです。薪を割るとき、なたで上から振り下ろすのですけれど、間違ってしまうと自分の足を割ってしまうそうです。だからそれだけをちゃんと教えてもらう。あとはといったら何も教えてくれなかった、あとはひたすら自分で薪をつくって、四万十川の畔に行って薪を組んで、その上にドラム缶を乗せて、そして自分で火を起こして、「ああ良かった」といって自分が入って終わりだというのです。どうですかといったら、いやこのコース1万円以上するというのですね。よく考えてみたらその間に畦地さんは何もやってないのですよ、おじいちゃんにお願いするだけです。おじいちゃんも何をやったかというと薪の割り方、普段やってきたことをただ教えるだけです。
四万十で出している情報誌は面白いですよね、人をどんどん紹介していくのです。そうなると、みんな先生であったりその道の達人になったりしていくわけです。そういった形で仕掛けを入れて付加価値をつけていくと、五右衛門風呂の先生も1万円以上とれるようになるのです。利益率が高いですよね。そういうふうにしてエビを取る学校、あるいは森を見る学校とか、あとは手づくり味噌をつくる学校、自分の机をつくる学校などもやっていくわけです。こういうふうにして自分たちのメニューを増やしていったのです。

道の駅で物を売ったとき最初はビニール袋に詰めておりました。でもビニール袋というのは燃やすとCO2をたくさん出しますよね、そして再利用も難しいということで、「じゃあ新聞紙にしよう。でも新聞紙は使ってしまったらそのまま燃やされるだけだ。」ということで、捨てられないようにするにはどうすればいいかを考えたのです。だんだんこの新聞紙が紙の包からバッグに変わっていきました。「新聞紙バッグ」というのをつくったのです。1枚200円で売って、1日1,000枚ぐらい売れているそうです。
「新聞紙バッグ」は地元のおばあちゃんが、新聞の折り方を工夫し、糊とハサミだけでつくったものです。あるとき畦地さんは四万十茶のペットボトルを、アメリカから来たバイヤーに売ろうとしました。「新聞紙バッグ」にお茶を3本入れて持っていったそうです。バイヤーは、「これはいいですね、面白いですね」といって「新聞紙バッグ」見ていたというのです。それで彼はその場でニューヨークのブランドでポールスミスに卸すことを決めたそうです。だからこの紙バッグは輸出産業に変わっていったのです。そしてもう1つは知っている方は知っているかと思うのですが、ニューヨークにMOMAという近代美術館がございます。ここにミュージアムグッズとして出すことになったのです。
さあそうなると、地元の高知新聞が取材に来て私たちの新聞紙が使われていますという風に宣伝を始めるわけです。そうするとやがて全国に配信され、今度はテレビ局がやってきます。黙っていても四万十ドラマという会社が売れていったわけです。当然、信用も付いてくるわけです。

実は私はその畦地さんとお話しするチャンスがあって新聞の紙バッグを買いました。これは1枚150円で売られています。非常に丈夫につくられています。これをみんな道の駅で買って、物を入れて帰るわけです。話題がどんどん広がっていくと、今度は銀座の百貨店が売るようになりました。畦地さんは商売上手ですから、どういうふうに売ったかというと、こういう大きな紙袋に、「新聞紙バッグ」のつくり方というレシピを、地元の間伐材を使って作った木のクリップで「新聞紙バッグ」に留めて売ったというのです。いくらで売れるのですかといったら1,000円で売れるというのです。そんなふうにして何もないところから1つのビジネスをつくり上げていったのです。

気持ちがいいものですから今度は彼が何を考えたかというと、こういう木の板にヒノキのにおいを付けて、油を付けて売ったというのです。ヒノキ風呂に入った気分ということで都会の人たちがこれをバスタブに浮かべて目をつぶって入るというのです。そうするとヒノキ風呂に入った気分になるのだそうです。四国銀行が1つの袋に3枚入れて年金受給者に配ったそうです。計12万枚売ったそうです。その後NTTドコモとかいろいろなところが、「うちもうちも」というので合計で70万枚売ったというのです。2億1,000万円です。さらに、板を削ったら、かんな屑が出ますよね。ちょうど花鰹のようなので、透明なビニール袋に巾着をつけて売りました。きんちゃくに一つまみのかんな屑を入れて風呂に浮かべると、またまたヒノキ風呂に入った気分になるそうです。四国は鰹節が有名なのでそのイメージでも売れたそうです。ただ捨てるかんな屑が980円で売れるのです。畦地さんはこの袋の能書きを書きました。「皆さんがこれを買っていただければ四万十の風景が守られます」と、間伐材でつくっていますから、そういうふうに書いた。そうするとみんな買いますよね。これを例えばかんな屑で入れて売りましたといったら100円でしか売れないというのです。つまりそこにストーリーがあるのです。ここに商品価値を高める工夫があります。四万十ドラマの畦地さんはこういうふうに言います、「私は1回だって商品を買ってください」と言ったことはない。その代わり、自分たちの「考え方」を買ってほしい、「考え方」を流通させたいと言うのです。こういうふうにして地域が活性化していっている。そういう事例でございました。

第2章 地域活性化 事例2 ~ディメール~

もう1つの事例をお話しします。これは八戸のお話になりますが、ディメールという会社です。ここは冷凍押し寿司を作っている会社です。60人足らずの企業です。この画面にありますように、サバ寿司八戸巻、海峡サーモン寿司、ホタテの押し寿司等、冷凍技術で作っている会社です。島守社長さんの家は網元だったのです。しかし昭和40年代から始まったいわゆる流通革命によってスーパーが台頭し、バイヤーが八戸の港にやってきて一生懸命魚を買いたたくようになったのです。とにかく「安くしろ、安くしろ」と言うのです。その結果、八戸からは船主がどんどん減っていったのです。島守社長は、「こんなことをやっていたら自分の子孫に、この八戸の漁業を残すことはできない」と感じていたそうです。だから自分が会社、特にものづくりの工場を立ち上げた時は、絶対そういうことだけはやるまいと決心するわけなのです。

果たしてそのダイマルという会社からディメールという会社が生まれます。その時、彼はこういうふうに考えました、「食品の総合商社をつくりたい、あるいは総合企業をつくりたい。単に魚を売って終わりにするのではなく、ゆくゆくは薬まで販売したい」。こういうふうに大きな目標を掲げます。実はこの会社は、別会社の工場を買収して立ち上げました。そこに冷凍機械があったのです。その冷凍機械は素晴らしい機械でございました。1台6,000万円します。そうすると、寿司をつくるために6,000万円という投資はなかなかできないのです。一種の「参入障壁」を手に入れたのです。また、寿司の製造工程の中に「凍結」というプロセスがあるのですが、いろいろな凍結のさせ方ができるわけです。キャパも大きく量産も可能になっています。
地元の工業試験場から、八戸まで新幹線が開通するから、それに合わせて何か商品をつくってくれないか?ということで親会社のダイマルは冷凍押し寿司を試作したことがありました。その時、賞も国から頂いております。ところが発売には至りませんでした。その理由は、どうしても1%だけ不良品が出るのです。これは皆さんも経験があると思うのですが、お米やおにぎりを冷蔵庫に入れて冷やして食べるとおいしくないのです。これは白蝋化といって白いお米が蝋のようになっていくという、そういった現象でございます。これを、どうしても解決できなかったのです。そこをディメールは解決しました。

その時重要な役割を果たしたのが21青森産業支援機構の地域力連携拠点メンバーの加藤哲也さんというコーディネーターが登場してくるわけです。ここで一緒になってそういった問題解決とかやっていきます。それとあともう1つはこの上にあります八戸の地域地場産業振興センター、あるいは青森県のふるさと食品研究センター、こういったところが入り込んで一緒に研究をやるのです。そうしたら原因が分かった。この白蝋化の原因というのはアミロースなのです。おいしいお米でつくるとどうしてもこの白蝋化というのが強く出るのです。ディメールはこうして原因を突きとめ、米の品種に問題があるというふうに結論付けたのです。

青森県にアミロースの少ないお米をつくっているところがあったのです。これは「ゆきのはな」という下北のお米でございます。はまなす農協がそれをつくっています。今は合併されまして十和田おいらせ農協になっていますけども、ここで作っていることが分かったのです。「ゆきのはな」はおいしくないといわれていました。下北のお米は「やませ」の影響を受け、低アミロース米になります。市場の評価は魚沼産のお米の3分の1ぐらいで、せいぜい60kgで8,500円ぐらいでしか売れなかったのです。農家も困っていました。

やがて、島守社長はじめ、間工場長さんなど、ディメールの幹部が、はまなす農協に日参するようになります。「どうかお米を譲ってほしい」と。農協は、いきなり魚を扱っている水産会社がうちの米を扱いたいと来たので、「これは詐欺師じゃないか?」というふうに舘組合長さんは思ったそうです。だけど地元の農協が行うイベントには参加してくれるし、熱心に米のことも勉強しようとしているので、真摯な態度にやがて心が打たれていきます。いろいろ話を聞いてみたら自分たちがつくる商品にどうしてもこの「ゆきのはな」が必要なのだということなのです。ちょうど第1回目の農商工連携の認定の締め切りが迫ってきた頃、国と青森県の役人、そしてディメールの幹部、加藤コーディネーターなどが、はまなす農協にお願いに来た。これがうまくいかないとどうしても農商工連携の認定が受けられないというふうに言っていました。

それで、ディメール側は「ゆきのはな」の市場価格を知っていると思っていたので、はまなす農協は「60kg当たり8,500円で出しましょうか」という話をしたそうです。その時休憩時間が入って島守社長と加藤コーディネーターは立ち話をしたそうです。島守さんは米については素人だったのです。米をどのくらいで買ったらいいかということが分からなかった。その時、加藤コーディネーターは「私の知っている情報では米60kgの損益分岐点は1万4,000円だと聞いています、8,500円はいくらなんぼなんでも安いのではないでしょうか?これでは、農家は食べていけないはずです。」と島守さんに話したそうです。島守さんは休憩から戻ってきて、そして言いました。「農協さんは本当に8,500円でよろしいのでしょうか?」と。そうしたら、実はもうちょっと値段を出したいのだけどこのお米に対する評価がこうなのだという説明が始まって、本当は2万1,000円ぐらいで売りたいということが先方から示された。それで島守社長は、「私たちの冷凍押し寿司にとっては、このゆきのはなのお米がブランドなのです。私たちに2万1,000円で買わせてください」といい契約は成立しました。農協の人たちは耳を疑った。あの魚沼産の3分の1のお米を2万1,000円で買ってくれる。びっくりしたのですね。

その時、島守社長はこういうふうに言いました「寿司はそもそも高付加価値商品ですから、十分吸収できる金額です」。農協の人たちは大変喜びました。中でも下北の米を守る会という組織が喜び、さっそく活動を始めました。「ディメールさんに出すお米だけは品質管理をきちっとやりたい」というふうに考えたからです。水をやる回数、肥料をやる回数、そして稲の管理のしかた、これをみんなで決めたのです。実は青森県にはつがるロマンを作った田中稔という方がいらっしゃって、青森県は彼を顕彰して、「田中稔賞」を出しています。下北の人たちがお米をきちっと管理するようになり、その中の1人が受賞するまでになったのです。今までやる気をなくした人たちが生き返っていったのです。農協の人たちも大変喜びました。

ディメールは、下北のむつ漁業協同組合でもホタテの買い付けをやります。ここでも適正価格で買い取ることをやるのです。この時、むつ漁業協同組合が一生懸命説明をしました。「私たちのホタテはよそとは違いますよ」という。どういうところから違うかというと、むつ産のホタテというのは市場に出荷するまで4年かかるのです。普通のホタテは2年です。ここでは4年かかる分、身が締まっておいしいし、グリコーゲンも多い。グリコーゲンはうまみそのものです。むつ漁業協同組合はさらに独自の技術を持っていた。水分調整を行えることである。例えばグラタン用に出すホタテ、あと生で食べるホタテ、あるいはちょっと別な加工をするときのホタテ等、それぞれの水分調整の仕方があるそうです。

1回目の取引の時に、むつ漁業協同組合は、わざと別の会社のホタテを混ぜ込んでディメールに納品したそうです。しばらくして、ディメールから電話がかかってきました。「うちの従業員がこのホタテは違う」というのですけど本当に違うのでしょうか?という電話だったのです。それでその時「いくら言葉で話してもうちのホタテの味は分かっていただけないので、最初こういうふうにさせていただいているのですよ、ディメールさんまじめに商品を扱っていらっしゃいますね、ぜひうちと取引をさせてください」ということで、それから取引が始まっていったのです。

島守社長は「うちは加工技術を持っている、だから青森県のブランドをこのブランドのお米に乗せて、そして高く売るのだ。高く売ればその分け前はみんなに伝わっていく」と言っている。「私たちは売るチャネルを持っている」とも言っている。例えば東京の有名な百貨店、あるいは航空会社、冷凍ですから場合によっては輸出をすることや病院に売ることもできます。さらに「解凍すれば自然のままのおいしいお米でおすしが食べられるという商品の持つ訴追力とその価値、大間のマグロも載っています。だからこういったものをきちっと売り込んでいく、そういう技術を持っている、だから私たちは加工に徹する」とも言っています。
ディメールの冷凍押し寿司が有名になってくると、いろいろな人たちがやって来るようになりました。「うちの商品も扱ってください」と言うのです。例えば、「このお米にうちの商品をネタとして載せてくれ。マージンは何%であとはおたくが売ってください」という。島守社長はそういう話は断るそうでます。みなさん理由が分かりますか?
冷凍押し寿司のつくり方や売り方の思想は、納入業者を買い叩かないということです。そのために、ディメールは目一杯ブランド価値というものを追及していくわけなのです。単に食材を載せてマージン何%という売り方ではないのです。だからそういった人たちが来たときは、「おたくは地域経済に対して、あるいは地域の経済循環に対してどういった貢献をするつもりですか?」、これを必ず問うようにしているそうです。そういうふうにして自分たちのビジネスモデルというものを守っていくわけなのです。これがブランドの創造につながっていくわけです。

まとめ

ここで共通しているのは管理技術です、そして信頼です。こういったもののつくり方というのが実は地域活性化にとっては重要になってくるのです。

皆さんは道の駅等に行くと、キュウリ3本で100円、ダイコン3本で100円などとして売っています。そういう売り方は小遣い稼ぎにしかならないのです。今取り上げた2つの事例は、地域のブランド、商品のブランドというものを追及している。その中でさらに自分たちの能力を開花させていこうという、そういう連続性が見られます。つまり地域資源を生かすために価格、開発力、品質、デザイン、あるいは形状、あるいは顧客の満足度、販路、納期、サービス、こういったものに目一杯こだわっているのです。例えば農商工連携といいますけども、農業と工業、商業をやっている人が単にくっついたから、これが農商工連携といえますでしょうか?地域経済循環に貢献していますか?あるいは地域の環境に対して負荷を与えないような取組になっていますか?そして出口の戦略である誰に何を売っていくのかということが、ビジネスモデルとしてビルトインされているでしょうか?こういったことを最低でも考える必要があると思います。

地域において、成功例が出るとすぐまねをしようとしますが、それは地域の自然環境の保全や経済循環の活性化を踏まえた取組になっているでしょうか?例えば四万十ドラマの場合ですとこの地域の環境保全、ディメールさんですと地域経済循環の活性化、こういった自分たちの体験から生み出されてきた信念があります。また、将来性のある分野にちゃんと取組んでいるか?あるいは市場が拡大しつつある部門に着目しているか?です。これらは地域活性化のための差別化戦略なのです。3本100円のダイコンを売るのとはわけが違う取り組みなのです。

そしてみなさん。今日は会場に若い人たちがたくさん来ております。私はみなさんに4つ問い掛けをしたいと思います。1つは構想力のある人。ぶれないということですよね。それは単に頑固でぶれないということではなくて理想ときちんとした指導原理を持って問題点を把握し、そして改善ができるような、そういう意味でぶれない人、そして構想力のある人になれるかどうかということです。もう1つは情熱のある人です。つまりこのままの状況を続けることに対する危機意識。先ほど八戸の漁業はどうなっていくのであろうかという危機意識。その自らの実践と将来に向けた夢や決意を持つこと。「おれはディメールという会社をつくって必ずその孫子の代に職業を残していくのだ。産業を残していくのだ」という強い決心があったわけです。3つ目は、決断と合意形成ができる人。四万十ドラマの畦地さんはこれをネットワークというふうに表現しておりました。取引相手や協力者の能力を最高レベルに引き出せるか?四万十ドラマの事例では、地元のおじいちゃんおばあちゃんがみんな先生になっていきますよね。そして、そのために繊細な注意力と大胆な行動が起こせますか?例えば工場を引っ張ってきて栗のペーストをつくります。例えば「新聞バッグ」を輸出して、それで大きな話題をつくっていく。そして人がやって来るような取り組みに仕上げていきます。そういったことができますか?大胆な行動が取れるかということです。4つ目は、行動力のある人。これまでの構想力のある人、情熱のある人、そして決断と合意形成ができる人という3つの取り組みがあっても、最終的には行動力がなければ実現いたしません。地域活性化あるいは地域の環境保全、こういったものは結果がすべてです。そういった意味で目的に向かって熱中できる、そういう実践者になれるかどうかということです。私も含め、これらの資質は1つしかないかもしれませんし、2つかもしれないし、あるいは全部あるかもしれません。しかし、そういった人たちが地域に1人でも多く出てくる。とりわけ若い人の中に1人でも多く出てくることを私は祈念しております。

私が昔大学で学んだ先生に下平尾勲先生という方がいらっしゃいます。地場産業論、地域の活性化については日本を代表する方で今から3年ほど前に亡くなられました。その先生がいつもおっしゃっていた言葉に、「地域づくりは人づくりに始まり人づくりに終わる」がございます。私はこういったことを肝に命じながら地域の様々な事に今後も頑張っていきたいと思っております。長い時のご清聴どうもありがとうございました、以上でございます。