2020年度【第4回講座】「-本質を見極める-『日本の抱える問題を憲法から看破する』」

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾

2020年度講座内容

【第4回講座】「-本質を見極める-『日本の抱える問題を憲法から看破する』」

講師
関西学院大学大学院教授・井上 武史
放送予定日時
2021年4月19日(月) 25:30~26:00 ホームドラマチャンネル
2021年4月18日(日) 06:00~07:00 歌謡ポップスチャンネル

※以降随時放送
詳しい放送予定はこちら(ホームドラマチャンネル歌謡ポップスチャンネル)

●関西学院大学大学院で司法研究科の教授をされている井上武史博士による「-本質を見極める-『日本の抱える問題を憲法から看破する』」の講義です。憲法とは何かを分かりやすく解説しています。全3講議。
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講義内容

Chapter 1  「憲法」ってどういう意味?

 

「憲法」という言葉は皆さんよくご存知だと思います。しかしその意味を正確に知っている人はそれほど多くないのではないでしょうか。「憲法」は西洋語の“Constitution”の訳語です。Constitutionには「構造」とか「組織」という意味があり、これを法学の世界に当てはめると、「国の組織・構造」を意味します。

ではなぜ憲法が作られたのかと言いますと、かつては国王の権力を制限するために作られたという経緯がありますが、現在は国民が主権を持っていますから、その国民が自分たちの政治のあり方、国のあり方を決めるために制定したものということになります。

憲法と法律を同じように考える人が多いと思いますが、法学の世界では憲法と法律とは全く別物です。憲法というのは法律を生み出すためのルールと言い換えてもよいのではないかと思います。「憲法」という漢字はどちらも“のり”と読み、ルールという意味を持っています。

民法とか刑法が、それぞれ「市民の法」「刑罰の法」であるのに比べると、少し意味が分かりにくいです。では、その“のり”という言葉を2つ重ね合わせた憲法をどのように理解するかということですが、一つの見方としてはルールのためのルールと解釈することができます。つまり法律を生み出したり、法律を執行させたり、そして法律を守らせたりする。そのようなルールを定めるものが憲法であると理解していただくと分かりやすくなるのではないかと思います。

実際、憲法の位置付けがどのようなものかと言いますと、まず、法律を作る機関として国会という組織を設置しています。そしてそこで作られた法律を実行させるために内閣や行政権について定めています。さらに実行されたルールが正しく守られているかということを監視、統制するために裁判所が設置されていて、裁判所が司法権を行使するということになっています。つまり法律は私たちの権利や義務を直接定めるのに対して、憲法はその法律がどのように作り出されるのか、どうやって実行されるのか、どう守られるのかということを、法律より一段上に立って定めるものであると理解すれば分かりやすいのではないかと思います。

 

憲法の重要な特徴は最高法規であるということです。憲法に反する一切の法律、命令は無効であると憲法には書かれています。なぜこのような規定が必要かと言いますと、それは憲法を法律や命令による侵害から守るという意味があります。それによって憲法の内容が国に幅広く行き渡るようにすることがこの規定の目的です。しかし憲法が自らを最高法規だと言っているだけではその最高法規性は守られません。憲法はそれを守る仕組みを内蔵しており、それが違憲審査制と呼ばれるものです。

違憲審査制とは、裁判所が憲法に違反する法律を無効とすることができる権限であると考えられています。そうすると裁判所がこの違憲審査制を適切に運営しているかどうかということが憲法の最高法規性が守られる重要な要素ということになります。

 

日本国憲法の特徴は3つあります。

1つ目は分量の少ない小さい憲法であること。2つ目は改正経験のない憲法であること。

3つ目は独立前に制定された憲法であるということです。それぞれ詳しく説明していきます。

まず1点目、日本国憲法は分量が少ないという特徴があります。この点は外国の憲法と比較すると明らかになります。各国の憲法を英単語数で比較した調査がありますが、それによりますとドイツは憲法の英単語数が27,379語、イタリアは11,708語、フランス10,180語、アメリカ7,762語であるのに対して、日本は4,998語しかありません。つまりドイツの憲法と比べて日本は5分の1程度の分量しかなく、また同じ単一国家であるイタリアやフランスと比べても半分程度の分量しかないということになります。問題はこの事実をどう評価するかだと思います。各国それぞれの事情があるために全く同じというわけにはいかないでしょうが、しかしこのような語数の差というのは誤差の範囲ではなく、やはり顕著な差であるということができると思います。

ではこの数字の差が一体、何を意味するのかということを考える必要があるでしょう。

多くの国ではこれほどたくさんの分量を備えなければ、憲法に基づいた政治はできないのだと言えるのではないでしょうか。ドイツ、フランス、アメリカは我々の近代化のモデルとして発展した国で、立憲主義の母国であると言われています。そのような国においては憲法で多くのルールが定められ、それに基づいて政治が行われています。それに対して日本では、それよりはるかに少ない分量で政治が行われている。このことをどのように見るかということが非常に重要ではないかと思います。

これをモデル化して、政治に関するルール、つまり憲法秩序全体を見てみますと、ドイツやフランスではその中で憲法典の占める割合が非常に大きくなります。これに対して日本ではその憲法典の割合が小さくなる。ではその穴をどのように埋めているのかというと、憲法解釈や法律で埋めているということになります。そうすると法律を解釈したり運用する人の裁量が非常に大きくなるという特徴があり、それは憲法が国民が作ったのと比べると、非常にエリート主義的な運営になりなりやすいという特徴があります。ですから日本では憲法改正論議が盛んになっていますが、このような憲法の特徴を踏まえた議論が必要ではないかと思います。

2点目の特徴は、日本国憲法は改正経験が一度もないということです。つまり憲法は70年前から一言一句、現在まで変わっていないということになります。この70年以上もの間、日本の社会は大きく変わりました。しかし憲法はその社会の変化には全く対応していないことになります。本当にそれでいいのかどうかということが今後問われることになるでしょう。

例えて言うならば、70年前は最新装備を備えた車であったかもしれないけれども、その後一度もメンテナンスも車検も、そして環境基準をクリアすることもなく現在の道路を走らせていると考えるのがいいのではないかと思います。

これに対して諸外国はどのようにしているかと言うと、時代や社会の変化に応じてその時々に必要な技術、あるいは新しく出てきた価値を憲法に組み入れることによってアップデートしてきたと言うことができると思います。憲法改正にあたってはこのような点もしっかり考慮するべきだと思います。

第3点目の特徴は、日本国憲法は独立前に制定された憲法ということになります。日本国憲法の前文は、この憲法は主権を有する国民が確定するというふうに謳っていますが、しかしこの憲法が制定された1946年、日本は占領下にありました。つまり主権を失った状態でこの憲法は制定されています。このことは、本来、国民主権の原理と矛盾することにはならないでしょうか。

憲法というのはある意味、国民が自分たちのことを決める、自分たちの自治のために制定する法と言えます。そうすると自分たちが関わっていない憲法をその後ずっと守り続けている状況というのは、本来のあるべき姿なのかということが問われるべきだと思います。

しかも前にも申し上げたように日本国憲法は一度も改正を経験していません。つまり日本国民は今の憲法に対して一度も賛成か反対かを意思表示したことがありません。そしてそのような憲法は世界的にも非常に珍しいと言えます。したがって、憲法を改正する、しないの議論とは別に、まず我々が今の憲法に対してどう思っているのか、賛成なのか反対なのかということをまず問う手続きが必要になるかもしれません。

 

Chapter 2  憲法における地方自治

ここ数年、大阪市の都構想をめぐる住民投票などで地方自治は大きな注目を集めてきまし

た。ここでは憲法が地方自治についてどのような事を定めているのかについて紹介したいと思います。

憲法は地方自治について第八章という1章を割いて規定しています。そこでは4か条、地方自治についての条文が定められています。とりわけその中でも特徴的な規定は、地方自治の本旨を定めた憲法第92条です。

それでは地方自治の本旨というのはどのようなことを意味するのでしょうか。「本旨」という言葉の意味が分かりづらいので馴染みがないかもしれませんが、これは英語に訳すと“principle”と言われています。つまり「原理」という意味と理解していただければいいと思います。ですから地方自治の本旨というのは地方自治の原理と解釈して間違いはないと思います。それではその地方自治の本旨が何を意味するのかということですが、これには大きく2つの意味があります。1つは団体自治、もう1つは住民自治というものです。

まず団体自治についてですが、これは地方自治体の事柄については国から干渉を受けないということを意味します。地方自治体の事柄は地方自治体だけで決めることができるということがその重要な意味です。

2つ目の住民自治というのは、その中でも住民が物事を決めるという原則を意味します。つまり国から干渉されずに、そして住民が物事を決めるということが地方自治の本旨で、これが憲法で保障された大原則ということになります。

次に地方自治をなぜ認めるのかというその根拠も問題になります。これについても2つの考え方が憲法学では示されています。

1つ目の考え方は、地方の自治権の根拠は前国家的なものであるというものです。

これはヨーロッパの自治都市を前提に置いた考え方で、つまり国家より前に都市が発展している状況では、その都市がもともと固有に権限を持っているのだというのがその考え方です。ヨーロッパなどを当てはめるとわかりやすいと思います。ヨーロッパの大きな都市は中世から都市があるわけで、国ができたのは19世紀などですから、それよりずっと前に都市が存在しています。したがって都市の自治権能というのは国家によって認められたものではなく、国家以前のものであり、そして憲法はそれを認めているのだというのが最初の考え方です。

これに対して2つ目の考え方は、地方の自治権というのは国家によって与えられたものであるという考え方です。

これは実は明治憲法がとっていた考え方であり、日本国憲法は実はこの考え方から転換したものであるとも言われています。つまり地方の自治体というのは国が定めたものであり、国がその権限を与えたものだという、いわば上からの地方自治という考え方に明治憲法は立っていたわけです。

これらのいずれの考え方が良いかというのは日本ではまだ決着を見ていませんが、少なくとも日本の状況を見ると、ヨーロッパの自治都市のような伝統のない中で、固有権を認めることはなかなか難しいのではないかと考えられています。ですから現在では、国がということではなく、憲法によって地方自治体の自治権が認められているという新たな展開が有力になっているというのが現状だと思います。

地方自治の主体は地方自治体です。そしてその地方自治体は基礎的な自治体である市町村と、広域自治体である都道府県の2つに分けることができます。そして現在の地方自治法上の法制度ではこの二層制構造がとられているのが大きな特徴です。

なぜこのような分類がなされているのかということですが、これには補完性の原理、あるいは近接性の原理というものがあります。これらの原理は、住民に一番近い自治体が住民のことを一番よく知り得る立場にあるので、行政を行うのが望ましいという原則に基づいています。そして基礎自治体でできないような事、1つの自治体ではできないことをより高域の行政主体に委ねるという意味があり、市町村と都道府県という二層制構造がとられています。

 

最近、広域自治体である都道府県を再編して道州制を導入しようという議論が見られるようになりました。これはより幅広い連携が必要となるという場面を念頭において、行政の効率化とも関わりますが、憲法学説においては、このように都道府県を廃止して道州制を認めることは可能であるという議論が一般です。これに対して最も近いところで住民に接する基礎自治体である市町村については廃止することはできない、もし廃止すると憲法に違反するという考え方が憲法学での一般的な見解になっています。ですから同じ地方自治体でも、市町村と都道府県とでは憲法上の地位は異なるということが言えます。

現在、地方自治は人口の都市部への流出と高齢化に伴って、その行政の効率化ということが大きなテーマになっています。また自治が認められると地域間の格差というものが顕在化してきて、その格差の是正への期待が高まってきています。このため行政の広域化、広域行政化が大きなテーマになってきまして、実際、2000年代に入ってからも市町村合併という形で市町村が大きく統合されています。最近では道州制の議論が盛んになっており、これも都道府県だけでは対応できないものを、より大きな単位で行政を行うという議論が見られます。

しかしその一方で行政の効率化によって失われるものもあります。

例えば道州制が導入されると、住民と道州との関係が非常に遠いものになってしまうという危険があります。つまり政治や行政の距離が現在の都道府県よりも大きくなってしまう。その結果、帰属意識の低下が起こり、あるいは自治の基本である自己決定、自己責任に基づく自治が困難になるのではないかという恐れが指摘されています。

今後の議論では行政の効率化という目的を図りつつも、住民の自己責任、自己決定の原則という地方自治の一番重要なポイントとどのように折り合いをつけていくのかということが重要な議論になるのではないかと思います。

 

 

Chapter 3  「憲法改正」とは何か?

日本国憲法の大きな特徴は、制定以来、一度も改正を経験していないことです。現在、憲法改正論議が活発になっていますが、それでもなお憲法改正は実現していません。

なぜそのような状況になっているのでしょうか。これには大きく2つの要因があると思います。1つは政治的な状況。それと制度的な状況です。

まず1つ目の政治的な状況についてお話ししたいと思います。

憲法をめぐってはその制定以来、平和主義を定めた憲法9条について激しい議論が行われてきました。憲法9条の改正に賛成する人は改憲派、反対する人は護憲派というふうに呼ばれて、この両陣営が憲法改正をめぐって激しい攻防を繰り広げられてきたというのはよく知られています。そしてこの議論は憲法9条以外の改正にも及びました。つまり憲法9条を守りたい護憲派にとっては、他の条項が改正されてしまうと、最後には憲法9条も改正されてしまうのではないかということを恐れて、ほとんどの憲法改正に反対するという立場を取ってきました。

これに対して改憲派はどのような文言でもいいから憲法を変えたいという意思のもとで、憲法9条以外の文言についても改正を主張してきました。この両陣営の争いは政治的なものであって、合理的なものではありません。憲法を改正して私たちの立憲主義や民主主義の質を向上させようという合理的な議論ではなく、政治的論争に終始したと総括できるのではないかと思います。

2つ目の制度的状況については、これは現実に憲法改正が最近までできなかったという状況です。

日本国憲法の改正には最後に国民投票という手続きがあります。しかし国民投票をするための手続きが最近まで制定されていなかったというのが大きな原因です。

国民投票法が制定されたのは2007年です。つまり2007年までは国民は憲法改正をしようと思っても制度的にできなかったという問題があります。しかし憲法が改正の手続きを定めているのに、そのための法律を定めないというのは明らかに国会の怠慢だと思います。しかし国民投票を制定するときにも改憲派と護憲派の間では激しい議論がありました。このため日本国民は憲法制定から60年もの間、主権者であるにも関わらず憲法改正という主権を行使する機会を国会によってずっと奪われていたということになります。このことをある論者は、主権者である国民が囚われている、つまり檻に入れられているということで「囚われの主権者」と呼んで批判をしたことがあります。このような状況の下で、日本国憲法はこれまで一度も改正がされなかったと言えると思います。

 

それでは目を転じて海外の状況を見てみましょう。

各国の憲法改正状況というのが最近の調査でも明らかになっています。それによると、例えばドイツでは1949年に憲法が制定されましたけれども、現在まですでに64回の改正を経ています。同じく1958年に制定されたフランスの憲法はこれまで24回改正されています。アメリカ合衆国憲法は1787年制定された世界で一番古い憲法ですが、これまで18回改正されていて、戦後だけを見ても6回の改正を経ています。しかし日本国憲法は制定以来一度も改正経験がありません。これも日本国憲法の大きな特徴ということになります。

各国は憲法改正を頻繁に行ってきましたが、ではどのような内容を改正してきたのかを見ることが重要だと思います。そこで以下では、改憲の三類型として憲法改正の三つの型を示します。

1つ目は権力の不均衡の是正。2つ目が現代的な統治技術の導入。3つ目が新たな価値や権利の設定というようにまとめることができると思います。

まず1番目の権力関係の不均衡の是正について見てみます。

憲法とは制定された時代の状況に応じて当時の人が制定するものです。そこでは制定当時の権力関係をうまく配置して権力を分立させる、均衡させるということが大きな目的になります。しかし時を経るごとにそのような均衡が大きく崩れ、あるいは徐々に変化していく現象が見られます。そうすると憲法の定める権力関係というのがうまく機能しなくなりますので是正が必要になります。各国の憲法ではこうした不均衡の是正を目的とする改正が随所に見られます。

一番特徴的だと思われるのはフランスの大統領任期の短縮の改正が行われたことです。

フランスは大統領の任期がかつて7年と非常に長かったのですが、これでは大統領の権限が強くなりすぎるということで、2000年の憲法改正で5年に縮小されました。これは大統領と議会の権力のバランスを是正するという意味を持っています。

同じようなことが日本でも起こっています。それは強すぎる参議院という問題です。90年代後半から2000年にかけて参議院の力が非常に強くなってきたと言われました。そうすると政府は衆議院だけではなくて参議院の多数派も押さえなければ政治をうまく進められなくなってしまいます。このため政権選択の選挙である衆議院選挙よりも、参議院選挙のほうが政局的には大きな意味を持つことになります。実際、98年の橋本内閣をはじめとして、参議院選挙の結果によって首相が交代するという事態が起こりました。しかし内閣総理大臣は本来衆議院に足場を置く地位にありますので、参議院選挙で首相が交代するという事態は憲法が予定したものではありません。しかし実際にそういうことが起こったわけです。これは明らかに憲法制定当時の権力関係が崩れているのではないかと言うことができると思います。その場合にはこのような権力バランスの不均衡を是正する憲法改正というのが本来必要なのでしょうが、現在まで改正は行われていません。具体的には衆議院の再議決要件を現在の3分の2から過半数に減らすという改正が提案されましたが、参議院の強い抵抗によって現在まで実現していないというのが現状です。

2つ目の類型は現代的な統治技術の導入というものです。

国の制度や統治の技術というのは時代を経るごとに変化や進化をします。また新しく発明されることがあります。そして各国の憲法ではそうした新しい統治技術の導入にも積極的です。

その一番の典型は憲法裁判所です。憲法裁判所というのはフランス革命後の19世紀の時代には存在せず、20世紀の初めにヨーロッパで考案されて、戦後、世界中に広まった制度です。つまりこの制度は憲法を保障するという目的のもとで憲法を専門に扱う裁判所を作るという、まさに憲法を守るための制度ですが、そのような制度が世界中に広まったというのはある意味、納得のできることだと思います。

日本ではこれをどのように考えるかと言いますと、日本における最高裁判所の違憲審査制、違憲審査権の機能というのは非常に低調なものがあります。各国がこれまで400件、500件の違憲判決を下してきたのに対して、日本の最高裁判所は憲法が施行されてから現在まで、わずか10件しか違憲判決を出していません。これは非常に顕著な差ということができると思います。つまり日本の最高裁の違憲審査制は機能していないのではないかということが大きく疑われる事実です。ですから憲法裁判所という新しい統治技術を憲法改正によって取り入れるということが、日本でも真剣に議論されてよいのではないかと思います。

3番目の類型は新たな価値、権利の設定です。

憲法も時代に応じてその時々の価値を取り入れるということを各国は行なってきました。一番馴染みがあるものは環境保護原則だと思います。90年代から環境保護の意識が高まって各国の憲法では環境権あるいは環境保護義務というものを憲法に書き込む例が増えました。

例えばフランスでは2005年に独立の憲法の章典として環境憲章というものを定めて環境保護をアピールしています。

さらに最近では、同性婚を承認するかどうかということを憲法で決める例も見られます。同性婚を承認すると言った国もありますし、承認しないと憲法で定めた国もあります。結論をどちらにするかはそれぞれの国によりますが、そうした新しい問題や新しい価値、価値観について憲法で定めるということは決して不思議なことではありません。

さらに最近の特徴的な例を一つ紹介します。

フランスでは1999年に「パリテ原則」と呼ばれる原則を憲法改正によって導入しました。パリテというのは“パリティ”、半分半分という意味ですが、これは男女の数を同数にするという原則を憲法で定めることになりました。なぜこのような原則が導入されたかと言うと、フランスでは長らく男女の不平等、不均衡というのが大きな社会問題になっていました、90年代前半までフランスの国会議員の中で女性の占める割合は7%か8%、これは今の日本とあまり変わらない数字です。しかしこのような社会ではいけないということが認識され、1999年の憲法改正で、社会や政治の分野において男女の数を同数にすべきだということが共有されてきたのです。この原則が導入された後の選挙では、女性の立候補者が飛躍に増え続けることになりました。そして2017年に行われ下院議員選挙の結果、フランスでは女性議員が約39%にまで上昇しました。これは明らかに憲法改正の効果であると考えられます。

これに対して日本はどうなっているのかと言いますと、日本でも国会における女性議員の少なさというのはずっと問題にされてきています。現在でもおそらく9.3%、10%未満の低調なレベルに留まっています。ですから日本も女性の社会進出、あるいは政治分野における活躍を考えるのであれば、フランスのように男女同数原則、パリテ原則というのを憲法の改正によって実現するということも十分あり得る選択肢ではないかと思います。

このように憲法改正によって社会が変わるという経験を見てみると、一度も改憲のない日本の状況というのはかなり特異な状況なのではないかと思います。これからの改憲議論では紹介した3つの類型があるということも踏まえてなされていくことを望みます 。

 

Chapter 4  日本の選挙制度

日本では衆議院選挙、参議院選挙という2つの国政選挙が行われています。それぞれの選挙制度について詳しく説明します。

衆議院選挙は比例代表選挙と小選挙区制を組み合わせた選挙です。参議院選挙は比例代表制と都道府県を単位とした選挙区制度で成り立っている制度です。そしてそれぞれの選挙制度の背後にはどのような人を代表として送り出すかという代表原理が横たわっています。

まず大きく分けて多数代表法と比例代表法という考え方があります。

多数代表法というのはその選挙区において多数の支持を得た人を代表として送り出すという考え方で、この多数代表法を実現する制度が小選挙区制度です。小選挙区制度ではその選挙区の中で1人しか当選することができません。つまりその選挙区で最も多数の票を得た人を輩出する。つまり多数者の代表を送り出すという目的を持っているわけです。

これに対して比例代表選挙というのは比例代表法という考え方に基づいています。そこでは多数の代表を送り出すというのではなく、その選挙区における声を比例的に代表するという目的を持っています。つまりA党とB党とC党が分かれていれば、それぞれの代表を議会に送り出すという制度です。ですから比例代表法は多数者だけでなく、少数者の代表も送り込めるというのが大きなメリットです。

日本ではさらに中選挙区制度があります。

これは定数が2人から8人に定められている選挙です。そして投票する人は1人1票だけ投票します。例えば定数3人の選挙区では、最多数を得て1番で当選した人と、2番で当選した人、3番で当選した人が当選することになりますので、結果的に多数者の代表とともに、少数者の代表も選出されることになります。このような中選挙区制度はいわゆる少数代表法と呼ばれて日本独特の考え方です。かつて衆議院選挙ではこのような中選挙区制度によって選挙が行われていたというのはご存知かと思います。

そうすると衆議院選挙と参議院選挙ではそれぞれ違う代表原理、違う考え方に基づいた制度が組み合わされているということになります。つまり衆議院選挙においては小選挙区選挙では多数代表法の考え方、比例代表選挙では比例代表法の考え方に基づいて議員が選出されます。これでは選挙を行う意味がどこにあるのか、分からないことになります。つまり一度の衆議院選挙をしたところでその結果を見ると、それは多数者の意見が代表されたのか、それとも比例的に代表されたのかということが選挙だけを見ると、実は分からないということになります。ですからこのような違う考え方に基づく制度を混在させるというのは選挙制度の一貫性からすると非常に奇妙なものになりますし、このような選挙制度を取っている国は世界ではほとんどありません。主要国では全くないと言ってもいいと思います。ですから考え方としては小選挙区一本にするか、比例代表一本にするかという考え方になると思います。

例えばフランスとかアメリカでは小選挙区一本で選挙制度が組まれていますし、ドイツでは比例代表で衆議院選挙が行われているのが実態です。

さらに問題なのは参議院です。参議院では全国単位の比例代表選挙が行われています。これは比例代表法に基づく考え方によっています。

他方、選挙区制度は都道府県単位で行われていますが、これもさらに2つに分かれます。つまり定数が1の選挙区では小選挙区制になり、複数だと中選挙区制になってしまいます。そうするとそこでは多数代表法という考え方と少数代表法という考え方が混ざってしまうことになります。つまり参議院は多数代表法、少数代表法、比例代表法の3つが混じった選挙が行われており、参議院選挙では、一体どの人たちの声が議会に反映されたのかということが全く分からなくなってしまいます。このような制度は本当に世界的にもまれで、また理論的にもあまり望ましいものではありません。政治学者などはこの選挙制度は「混ぜるな!危険」とよく言います。ですから選挙制度の改革に当たっては、一体どのような人を選出するのかということをきちんと整理して選挙制度を組み立てるということがとても大切になるのではないかと考えます。

 

 

Chapter 5  特措法による強制と基本的人権

 

新型コロナウイルスの蔓延によって新型インフルエンザ特措法に注目が集まっています。2020年4月に、政府は新型インフルエンザ特措法に基づいて緊急事態宣言を発令しまし

た。この特措法はもともとかつての新型インフルエンザ対策のために制定された法律ですが、この度、新型コロナにも適用したということになります。

この特措法による緊急事態宣言によって、知事はこれまで普通に呼びかけていたものが要請を行えるようになった結果、事業者に営業の自粛を求め、住民には活動の自粛を求めることができるようになりました。このため事業者の営業の自由や住民の移動の自由という憲法上の権利や自由が大きく制限されることになります。

しかし日本の特措法には大きな特徴があります。それは、知事は要請をすることができるのみで命令や罰則ができないというものです。このため実質的には事業者や住民の自主的な行動、自粛が求められているわけです。そしてその自粛に反して営業している人に対して一般の市民が通報をするということでウイルスの感染を防いでいるというのが現状だと思います。いわゆる「自粛警察」や「マスク警察」と言われる人がたくさん出たというのはご存知のことかと思います。しかしこのようなあり方が本来いいのかどうかというのは一つの問題です。 国民の権利や自由を規制するなら、それは政府や行政が責任をもって行うべきで、一般国民にそのような役割を担わせるというのは本末転倒です。実際、欧米諸国では法律で規制を定めて行政がそれを実行するということが行われており、日本が非常に特殊であるということがわかります。確かに日本では、この自粛や要請による措置が効果を発揮しているという面はあるのかもしれませんが、憲法や法治国家の点から見て本当にそれでよいのかどうか、今後考えていかなければならないと思います。

この度の特措法に基づく緊急事態においては、事業者の営業の自由や住民の移動の自由が侵害されることになります。そしてこのことは多くの国民にとっても仕方がないと思われている状況にあるかと思います。するとここで考えなければいけないのは、緊急事態であればどのような人権制限も許されるのかということ、これが問われるべきだと思います。安全・安心対人権という構図がここで見られるわけです。

憲法の規定には公共の福祉という言葉があります。公共の福祉とは全体の利益と言い換えてもいい内容です。そしてこの公共の福祉によって人権を制約することができるというのが憲法の考え方です。しかし公共の福祉の理由があれば、どんな時でも人権が制約されてもいいのかというとそうではありません。そこには平時では裁判所が設定した適切な線引きというものがあります。ではその線引きは緊急事態において引き直されてもいいものなのかということが問われることになります。緊急事態に安心と安全を守るためには人権の制約も必要だ。営業の停止もやむを得ない。集会禁止もやむを得ない。それはコロナウイルスの蔓延を防ぐためだと言うと、多くの人はそう納得せざるを得ないかもしれません。しかしそれは人権の保障を後退させることでもあります。ですからここでは緊急事態においても否定されてはいけない自由や権利があるのではないか、緊急事態においても決して譲れない権利があるのではないかということを考える必要があります。

実際同じような問題に直面している外国の例を見たいと思います。

フランスでは公共施設における検温措置がプライバシーの侵害であると裁判所で判断されています。これは日本でも多くの公共機関で行われているものだと思いますが、このようなことがプライバシーという憲法上の権利に関わるものであるということが示されたわけです。

さらに大規模集会です。路上の大規模集会などを防ぐためにドローンを用いた監視がフランスの警察で行われましたが、これも違法であると判断されています。つまりコロナの蔓延を防ぐためなら何をやってもいいということでは決してありません。そこにはやはり譲れない権利や自由というものがあるということを示してくれる例だと思います。

翻って日本の場合はどうでしょうか。公共機関での検温などがプライバシーに関わる権利であると認識されているのでしょうか。そしてそれが最終的に裁判所によって権利の侵害であると言われるのでしょうか。この点は今後の推移を見ながら考えていかなければならないことだと思います。

 

日本のコロナウイルス対策のあり方とヨーロッパのあり方が大きく違うということは先ほど申し上げましたが、これは私たちの立憲主義と欧米の立憲主義が実は違うのではないかということを考えさせる事態です。

先ほど申し上げたように、日本では人権制約に対する規制は要請止まりという非常に緩いものですが、行政に対する統制機能、コントロール機能というもののも非常に弱いものになっています。これに対してヨーロッパでは人権制約も確かに厳しいものがありますが、裁判所の統制、あるいは議会の監視なども厳しいものがあります。ですからそのような厳しい人権制約と厳しい統制を伴う立憲主義、これを硬質な立憲主義と言うことがありますが、それと日本のように緩やかな人権制約で緩やかな権力統制、これをゆるい立憲主義、最近では「ゆるふわ立憲主義」とに言われることがありますけども、どちらが良いのかということが考えなければならない一つの大きなポイントとしてあるのではないかと思います。

例えば日本ではマスクの着用は一般的に言われる義務だと思いますが、ヨーロッパ特にフランスなどではこれは法律で禁止された義務で、その違反者には罰則が科されます。そこでどういう議論が行われているかというと、マスクの規制というのは個人の自由を侵害するのではないか、そのようなマスク規制というのは権利憲法違反になるのではないかということが、大きく議論されているわけです。日本ではこのような規制も全て自主規制に委ねられていて,権力は全くそこには介入してきません。しかし社会という目が実質的に人の行動を規制しているわけです。その場合、個人はそのような規制を争う術を持ちません。争えるのは公権力に対してのみです。ですから日本のような自粛とか要請による人権制約というのは意外と根深い問題があるのではないかということを考えていただければと思います。

Chapter 6  最高裁での一票の格差是正訴訟

 

選挙が終わるたびに一票の格差を是正する訴訟が提起されていることはご存知だと思います。それではこの一票の格差というのはどのような問題なのでしょうか。

一票の格差の問題は憲法の法の下の平等の問題であると考えられています。この法の下の平等からは2つのことが要請されます。

1つは一人一票原則です。これは成年者であれば何人も一票投票できるという原則です。しかし現在ではそれに加えて、一票の価値が平等であるということも要請されます。このことを投票価値の平等ということもあります。つまり一票を投ずるだけでは不十分で、その一票が各人で同じ価値を持っているということが憲法で要請されていると言うことができます。これについてもう少し説明をしたいと思います。

例えば A という選挙区は人口10万人、Bという選挙区は人口20万人いるとします。そしてそれぞれの選挙区から1人の代表を選出するとします。そうすると人口10万人のA の選挙区の住民は、1人10万分の1の価値を持つことになり、これに対して人口20万人のBでは1人20万分の1の価値を持つことになります。そうするとAの選挙区の有権者の投票の価値は、Bよりも2倍の効果を持っているということになります。このことがまさに投票価値の不平等であると言われているのです。ですから有権者の数が一般には少ないほど投票の価値は大きくて、有権者の数が多い選挙区ほど投票価値は低いという、この不平等が一票の格差訴訟の問題ということになります。

この一票の格差の訴訟について、これまで最高裁ではたくさんの判例が出されてきました。その対応は衆議院と参議院とでは異なっています。衆議院選挙においては最高裁は一票の価値の不平等を2倍まで許容するという立場をとっています。つまり1対2になればよくて、1対2.5になれば憲法違反になるという考え方です。

これに対して参議院は少し様相が異なります。参議院ではかつては1対5、つまり5倍まで合憲という考え方を示していましたが、最近では厳しくなって1対3のラインに合憲性のラインが設定されています。なぜこのように厳しくなってきたかというと、最近、参議院の権限が強いことが表れており、それなら一票の価値も厳しく問われるべきだということを最高裁が考えたということになります。現在ではこの一票の格差を是正する方向が進められていますが、それは現象としてみると人口の多い都市部選出の議員が多くなるというように言われています。一般に有権者は地方では少ないので、一票の格差が大きいと地方が過剰に代表されるという問題が指摘されています。

実際、現在参議院を見ますと東京では12人の代表を出していますし、大阪でも8人。これに対して地方では1人区ですと、例えば鹿児島県では2名の参議院議員しか選出することができなくなっています。しかし現在ではこれでもなお一票の格差は解消されているとは言えない状況にあります。

そこで2015年の公職選挙法の改正で合区制度というものが導入されることになりました。それによって高知県と徳島県、島根県と鳥取県というように2つ併せて1つの選挙区を構成するという選挙制度に改められています。これはもちろん一票の格差、つまり両方の都道府県の選挙区を足さなければ一票の価値が平等にならないという考え方に基づいているわけです。

しかしこのような合区制度には大きな問題があります。それは参議院議員選挙が都道府県を単位にして行われ、都道府県代表を選出するという意義を大きく損ねるからです。いわばこれは都道府県代表制の否定と言ってもいいと思います。現在でも地方では人口の減少が続いていて一票の格差は、実はまた再び拡大しています。このままの状態を放置していると鳥取と島根、高知と徳島以外にも合区にならざるを得ない都道府県、選挙区が出てくるのではないかと思います。ですからこのような制度、いわゆる少し歪な、そして都道府県代表制を犠牲にしたこの合区制度を改めるには、やはり憲法改正を含めた抜本的な制度の改正が必要になるのではないかと思います。

そのための一つの方策として考えられているのが参議院を地方代表議会にできるかという問題です。現在の参議院はそのような規定になっていません。しかも強い参議院と言われるように、参議院の重要性が国政において非常に高まっており、衆議院とほとんど異ならない権限を与えられているにも関わらず、一票の格差が大きいのは問題ではないかということで、最近の最高裁は投票価値の平等を参議院についても厳しく問うようになってきています。

このような最高裁に対してはもちろん大きな批判があります。参議院というのは衆議院と違うのだから独自の役割があっていい。だから投票価値の平等も厳密でなくてもよいということが憲法学者の間でも言われます。しかし最高裁はそのような考え方を明確に退けます。つまり憲法には都道府県や地方を代表させるということは一言も書いてないじゃないかと。憲法に書いているのは投票価値の平等だけです。もし参議院の一票の格差を緩めたいのであれば憲法にその旨を書いてくださいと。私には最高裁の判決はそう言っているように読むことができます。

実際、憲法において参議院を特別に扱う規定というのは全くありません。もし参議院を地方代表議会にするなら、その旨を憲法に明確に規定する必要があると思います。そうすると最高裁判所も一票の価値の問題とともに参議院の地方代表制ということを考慮することができるということになると思います。

実際、参議院の地方代表制、あるいは議会の上院について地方代表制にするということを書いている国はあります。例えばフランスでは憲法に元老院、これは議会の上院のことですが、元老院は地域共同体の代表を保障すると規定しています。またイタリアの憲法も元老院は州を基礎として選出すると明確に書いています。日本の憲法においてもこのような規定があれば一票の格差というのを、それほど考慮しなくても地方の代表を十分保障できるというようになるのではないかと憲法の面からは考えられると思います。ただこの場合参議院の地位は従来のものではあり得なくなります。参議院を地方の代表と位置づけた場合には、権限もそれに応じて見直される必要があると考えられます。なぜなら組織と権限というのは表と裏の関係だからです。

例えば参議院は地方に関わる法案の優先権が認められる。その代わり予算など、国民に近い問題については衆議院の権限を強めるというような役割分担が必要になるのではないかと思います。この点アメリカなどは州の代表は上院を構成しているわけですが、これは人口が多い州も少ない州も全く平等の2名という数が割り当てられていますが、当然議会の下院とは権限が異なります。日本においても例えば人事権の国会承認などは、これは参議院の権限にするなどの案も提案されていますので、参議院の改革においては選挙制度の見直しとともに、このような権限の問題についても併せて考える必要があるのではないかと思います。

 

 

<憲法学者を志したきっかけ>

 

大学の法学部で法律学を様々学んできましたが、憲法学はとても大きな民主主義とか立憲主義という概念を扱っていて、しかし実際それをどのように実現するのかという視点は乏しいのではないかと思いました。そのような中で私の恩師の憲法学に出会ってそういう考え方で憲法の考え方を具体的な制度に基づいて論じるという姿勢に感銘を受けて憲法学を志そうと思いました。

 

 

<視聴者の皆さんに考えてほしいこと>

 

人々は世の中の社会通念とか一般的な常識に従って行動することが多いと思いますが、しかしそれが実際、憲法とか人権の観点からすると問題があるということも多々あると感じます。ですから今回の講座では憲法とか立憲主義の考え方から見て、これまでの社会のあり方が良いのかどうかということを気づくきっかけになっていただければいいと思います。

 

 

<締めの言葉>

 

憲法というのは社会のオペレーションシステムだと思います。自由な社会、平等な社会、そして公正な社会であるために憲法はあるのだと。そしてそれは常にアップデートしていかなければ、より良いものにはならないということを皆さんに感じていただきたいなと思います。