2021年度【第3回講座】「思考力を養う哲学講座 答えのない時代を生きるための思考法」

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾

2021年度講座内容

【第3回講座】「思考力を養う哲学講座 答えのない時代を生きるための思考法」

講師
岡本 裕一朗 先生(玉川大学文学部名誉教授)
放送予定日時
2022年3月12日(土) 12:30~13:00 ホームドラマチャンネル
2022年3月13日(日) 06:00~06:30 歌謡ポップスチャンネル

※以降随時放送
詳しい放送予定はこちら(ホームドラマチャンネル歌謡ポップスチャンネル)

●「思考力を養う哲学講座 答えのない時代を生きるための思考法」をテーマに、西洋の近現代哲学が専門で哲学とテクノロジーの領域横断的な研究で知られる岡本 裕一朗先生が分かりやすく講座したものを放送致します。
講座内容

 

(岡本先生)

皆さんこんにちは。「政経マネジメント塾」、今日は“思考力を養う哲学講座”ということでお話をさせていただきます。私一人で喋りますと恐らく退屈になってしまいますので、皆さんと一緒にお話ししながら、その後にいくつか質問いただければと思っています。よろしくお願いします。

哲学の講座と申しますと、普通はプラトンかとか、あるいはカントかとか、こういう話になってしまうのが大学の講義の普通の形式なのですが、そうなると特別な人にとっては非常に興味のあることですが、全ての人にとってこれが果たして必要かということを考えますと、ちょっとそれは違うんじゃないかということで、今回は具体的なテーマを設定しながら、これについて哲学的に考える、あるいはこれを哲学的に考える時に一体どういう問題が出てくるのかというようなことを話したいと思います。よろしくお願いします。

 

(4つのステップについて)

哲学の講座と申しましても、漠然と具体的な問題を考えるといってもやり方がよく分かりません。そこで基本的な4つのステップを考えてみたいと思います。

まず第1のステップですね。このお話は基本的に思考実験をまず作りまして、これに基づきながら考えていきたいというふうに思っています。

思考実験というのは、もしこういう場合が起こったら一体どうだろうかというような一つの具体的な事例を考えて、その中で自分だったらどうするかということをあらかじめ考えていただきたいということです。この思考実験はまず簡単な思考実験を作りまして、その後でそれぞれの立場ですね、私はこの立場はどういう立場を取ると多分いいと思っています。こうでなくてはいけないという1つの決めつけをするのは哲学でありませんから、いずれかの立場をとったとして、その立場をとった時にそれをどういう形で哲学的に考えることができるかというのを行ってきたいというふうに思っています。

ということでまずステップとしては、1つの思考実験をまず作りまして、それに基づきながら自分だったら果たしてどちらの立場に立つかという事を、ここであらかじめ作っていきます。これは一体何を根拠にするかというと、基本はやっぱり自分の直感と申しますか、自分だったらこうだと、これは漠然とした形で結構です。だけどそうでないと自分の考えになりませんので、自分だったらおそらくこういうふうに考えるだろう、自分だったらこういうふうに持っていきたいという1つの直感をまず第1に決める。

その次にその直感だけだとお互いに直感をぶつけ合っても埒あきませんから、それぞれの直感に基づきながら、なぜその直感を自分としては大切にしたいかとか、あるいはそれを根拠づけるにはどうしたらいいか、これを第2ステップとして考えていきたいと思います。

その根拠を考えた後で、しかしながら自分の根拠だけを述べてもおそらく相手は納得しない可能性もあります。あるいは自分の根拠だけだと非常に狭い視点しかないという可能性もありますから、視点を変えてみるとか、あるいは批判的な観点で自分の見方を別の眼差しで見てみるとか、そうした形で別の視点を取るというのがもう1つの必要なことで、これを第3ステップにしたいと思います。

その後ですね。最終的に色々議論したんだけど結局どういう方向に持っていきたいのかとか、落とし所がどこなのかとか、これを曖昧にしてしまうと一体何のために思考実験を考えているかわかりませんから、一応その思考実験をもとに自分としては最終的にこういう方向で基本的には結論づけたいという最後の結論を出したいというふうに思っています。

ということで今回のテーマに関してもこの形で進めさせていただきます。

 

 「サイコパスを考える」

今回のテーマは「サイコパス」を取り上げます。

今日のテーマですけれども、流れを一応イメージしておきたいというふうに思っていますので、まず 0(ゼロ)として、これ導入ですね。どういう思考実験を作るかという1つのサイコパス概念について少し考えていきます。それから先ほど申しましたように第1段階と第2段階、そして第3段階、そして最終的にどういう結論に導くかというものを考えていきたいと思っています。

こういう流れで今日の話を進めさせていただきますので、これに従いながらいろんな部分で多分、疑問点とかあるいは問題点が生じると思いますけれども、最後、皆さんからご質問をいただきながら改めてまた考えていきたいと思っています

まず最初ですけども、皆さんサイコパスという言葉を聞いたことない人は多分いないですよね。しかし一体サイコパスってどういう人なのとかですね、どういうことなのと、サイコパスの人見たことある人は手を挙げてみてください。サイコパスと呼ばれた人いますか。それもいませんか。それらしい人はいたと。いやあ、幸せですね。そのうち学年が上になると指導教官に理不尽な要求をされて、この先生ってサイコパスなんじゃないと思うような人って結構、私の経験でありますが、そういうふうな意味でサイコパスをどう考えるかというんですけど。

もともとサイコパスという概念自体は何時頃から起こったのかということを考えますと、基本は1970年代頃から1つの流行現象になったというのがありました。異常な犯罪者についてその反社会的な人格を説明するために開発された診断名という形で、基本的にはサイコパスっていうのがよく使われようになりました。ただこの概念そのものは、おそらく一般的なメディアと言うか、映画とかあるいは小説だとか、こういうものの題材になってその中で登場した非常に奇妙なと言うか、あるいは非常に魅力的と言うか、あるいは非常に面白い、そういうような人物が出てきて、これが一気に社会的にブレイクしたというのがあります。ただこういう形だと当然、異常犯罪者ですから社会の中で何人いるかと言うと、1つの社会に100人もいないよとか、あるいはもっと少ないとか、そういう人を取り扱ってもあまり一般性がないということで、確かに映画の話としては面白いけれども、だけど一般的にどうかというようなことは当然問題になるわけですね。ところがその後、様々な形でもっと広いマイルドサイコパスとか、あるいはお隣のサイコパスとか、先ほど私が言ったように自分の知ってる先生とか、あるいは会社に入った時にその上司とかですね、非常に理不尽な様々な要求を掲げてくるとかですね、あるいは友達の中にそういう非常に嫌な友達がいるとか、そういう経験があるとサイコパスが非常に身近になる。あるいは身近になるってことは逆に言うと、特徴が非常に曖昧になるということでもある。こういう中で一体サイコパスをどう考えるかということがありまして、さらに最近では誰でもサイコパス性というのはあるんだよみたいな話になってしまって、結局こうやっていくと異常犯罪者から、あるいはちょっと嫌な上司だとか嫌な先生だとか、あるいはあなた自身にもサイコパス性があるとか、一体全体サイコパスって何だろうと。

一時期は、先ほど申しましたようにサイコパスというのは反社会性パーソナリティ障害という形で言われてて、どちらかと言うと問題のある人格がサイコパスというふうに取り扱われたわけです。これはある意味ではサイコパスというのは犯罪者予備軍ですから、まあその意味で犯罪者予備軍ですから一般的な人にとっては関係ない可能性がありますね。でも先ほど言いましたように、最近は例えばちょっと困った人じゃなくて、むしろ有能な人、大企業の CEO だとか、あるいは政治家とか、あるいは弁護士だとか、あるいは外科医だとか、こういう人を指してサイコパスというふうにいう場合もあります。

そうするとサイコパスって一体何?一方で犯罪者、もう一方でその予備軍、もう一方で有能な人と、これらをみんなサイコパスと呼ぶときに、サイコパスって一体何だろうかと言って、正直なところ訳が分からないということが出てくるということです。そこでもう少しサイコパスを限定して少し考えながら、どう考えたらいいかということで非常に簡単な思考実験を作ってみます。

それは具体的にこういう感じ。あなたがサイコパスと呼ばれたらという1つの事例ですけども、ちょっと簡単な思考実験ですからお話ししてみます。

通っている学校の野球部が大会に出ることになった。そうするとみんなでクラス全員で応援に行こうという話し合いを持ったわけですね。だけどその時にあなたは「私はスポーツに興味がないし、他人の試合に応援する気になれない。行きたい人が行けば」という形で反対したとします。こういう反対というのは果たして学校で通用するかどうかですけども、そうすると他の人は「みんなで応援したくないの?せっかくみんなで盛り上がってるのに、そこに水を刺すなんて、あなたってサイコパスね」というようなそういう言い方がされたとしますね。この時にあなたは一体どう考えるべきか。こうした問題をちょっと考えてみたいというふうに思います。ただこれを考えるために、この問題だけで考えても埒があきませんから、少しサイコパスの問題点と言うか、あるいは概念を少し考えていきます。

そうするとサイコパスって一体どんな人なんだろうかと、一般に次のような人が挙げられます。

 

(ステップ1)

1つは他者に対して冷淡で共感しない。こういう人がサイコパスだと言います。あるいは良心が異常に欠如している。あるいはさらに言うと慢性的に平然と嘘をつく人。あるいは行動に対して責任が全く取れない人。あるいは罪悪感が全くない人。あるいは自尊心が過大でそして自己中心的な人。こういうふうなことを指すと、こんな人知ってるという人いますか?

なんか政治家でこんな人いましたよね。誰だっけ?というようなことを考えてみると、これがサイコパスの特徴だと普通一般的に言われるんですけど、でもこれって自分の中にもどれかありそうだという人、手を挙げてみて。どれか。他人に共感しないと。はい。良心が欠如していると。平然と嘘をつきますと。嘘をつく時は平然とつかないとまずいですね。責任を取るということが基本的に意味が分からないとか。罪悪感て何だろうかと。自己中心的といったら、みんな人間そうなんじゃないかと。自己中心的ではない人いますかと。こう考えてみると、えっ?これ犯罪者?いや普通なんじゃないのというふうな感じがしてくるわけです。

そこでそもそも共感能力ってなんだろうと考えてみますと、例えば先ほどの仮想事例ですね。1番最初に自分の直感を大切にしましょうと言いました。そうすると直感を考えてみると、あなたの意見としては別にスポーツの嫌いな人はもちろんいますね。でみんなで応援に行く気になれない。悪くないんじゃないというふうに思ったとしたら、そうすると当然スポーツの好き嫌いは人によって異なる、ですよねきっと。好き嫌いを他人に押し付けることはできない。これも正しそうでしょう。そもそも他人に共感する必要がない。なぜ共感しなくちゃいけないかって言うと理由は果たしてあるだろうか。それは自分にとって都合がいい時には共感したふりをするかもしれないけど、そうじゃないっていうかも。誰だってみんなそうなんじゃないという、本当に共感してるんでしょうかと。他人に共感してるような人を見た時に本当に共感してると思いますか。あるいは共感してるふりをしてると思いますか。それは区別できないかもしれない。ということで共感しているふりをする、つまり他の人と違った行動だとか、あるいは意見を言うと、おそらくですけども他人から多分浮いてしまいます。だから同じようなふりをしよう。

こういうのは例えばこういう場合もそうなんですけども、ディスカッションしようと学生にさせるわけですね。そうすると大体他の人と全く違うような意見ってほとんど出てこないです。あるいは相互に批判し合うというのはなかなかやりたがりません。なぜかと言うとやってしまった時、人間関係どうだろうかとかですね、あるいは他人から浮いてしまったらどうだろうかと。そうするとみんなに反対してしまったら、多分あなたはおそらく「僕の考え方は違う」とはっきり言うとですね、正直者かもしれないけども逆に言うと浮いてしまう。でもそんなことやりたくないと多くの人が思ってるから、普通の人は大体共感したようなふりをする。ふりをする人はもしかしたら他人に対して嘘をついてるかもしれない。そうすると共感してるふりをしている人こそがサイコパスかもしれない。

先ほど平然と嘘をつく、つまり共感したふりをして平然と生活するというのが私たちの日常とすると、逆に違う意見を正直に言う人ではなくって、もしかしたら共感したふりをする人こそがサイコパスかもしれないというようにですね。そうすると一体サイコパスってどうなんだろうと。非常に重要な特徴として、良心を持っているかどうかと非常に重要なんですね。

(ステップ2)

このときに最近ですけども、そのサイコパスを説明する時に良心がない、あるいは良心が異常に欠如してるというものを説明する時に、1つの実験的な形で証明できそうだって言うんで「トロッコ問題」というのがあります。おそらく多分皆さんご存知ですか、トロッコ問題というのは非常に有名なんですね。どういうのかって言うとこういう話です。

Aの事例ですけども、一直線に線路があって、その先に、ここであなたが誰なのかということをまず設定しないといけませんけども、電車に乗ってる運転手だというふうにします。ここにあなたがいると。で、ここで考えてみてください。前方を見てみると、5人の工事をやってる人たちがいると。だけどそこは非常に、真横に逃げる道がないので、そのままトロッコ電車がやってくると轢かれてしまう。ところが、このトロッコ電車がブレーキが効かなくなってしまったと。だけど一応ハンドルは何とか役に立つとします。そうするとまっすぐ前を見てみると5人の工事をやってる人がいると。これを見た時にどうしようと普通思うわけです。

ブレーキを普通効かせる。そして例えばここで警笛を鳴らす。警笛を鳴らすんだけども、基本的にその5人は気が付いた、やっと。だけど逃げ道がないから、どうしようもなくて非常に恐ろしそうな顔つきをしてる。ということで、じゃあブレーキを踏めばいいけども、ブレーキは基本的に効かない。でこの時にどうするかという時に、「ラッキー」ということですね。右側に支線があるわけです。枝分かれした、使ってない。じゃあ右に曲がればいいということで右に曲がろうかと思った瞬間に前を見て右前を見てみると、1人やっぱり工事をしてる人がいる。

この時にちょっと聞いてみます。皆さんどうします? まっすぐ行く人? 右に曲がる人? どうしていいかよくわからない? はいありがとうございます。

じゃあその次です。 B の事例を考えます。同じようにトロッコ電車が前に進んでる。今度はやっぱり同じように前に5人の工事をしている人たちがいた。そこに陸橋があって、その陸橋に非常に太った男がいる。デイブさんと名付けておきますとですね、デイブがいて下を向いているわけです。電車が来てるから、多分撮り鉄でしょうか、電車を見ながらなんとなくこう、じっと眺めていた。で、その横にあなたがここにいたとします。その時に電車がわーっとやってきた時に、そうすると運転手が大声で叫んでるわけです、ブレーキが効かないというような形で。そうすると「ああ、ブレーキが効かないんだ」ってフッとこう後ろを見てみると、5人前にいて、そうするとこのままだったらあれ轢かれちゃうなというふうなことが、この私はわかるわけです。ところがここに大きなあの太った男がいて、こう下を向いてるわけですね。そうするとこの前提をどう考えるか微妙ですけど、そうすると私がこのちょうど下を向いてるこの男をわっと突き落としてしまう。そうすると電車の前にわっとその男が落ちてしまってそして電車が止まる。そうすると5人が助かるというような前提だとしますね、そんなことがあり得ますかっていう問いはここではないこととして考えます。この時にあなただったらどうしますか。やっぱり5人の方が大切なんで救いたいなということで、この太った男をともかく突き落としてしまえという人ちょっと手を挙げてみてください。

突き落としてもいいんじゃないかと思う人? それとも何もしなければ5人死んじゃうんですよ。何もしないという人? 1人悩んでるみたいですね、どうしようかと。

トロッコ問題っていうのは一体しばしば、5人とか1人とかっていうふうに言われますけど、トロッコ問題のポイントは、こうやって状況が違うのに答えが違ってしまうと。

Aの場合は基本的に5人を救うという選択をする。Bの場合は5人か1人かっていう時に、むしろ5人を救うという選択を基本的にしないわけですね。つまり1人を落とすという。そうすると要するに、状況によって答えが違うと、一体なぜかという。その説明は一体どうすればいいかってのが実はトロッコ問題のポイントなんですね。

こうした時にですね、普通はこういうふうに言われるわけです。これを考えた時にサイコパスの人はどうするんだろうと。あんまりこれをいうと、先ほど手を挙げてもらった時にどうなのかっていうことになりますけどね。通常の人は、この時にサイコパスを説明するとき、通常の人というのは良心を持つ人はという条件です。Aの場合は5人を救うように右に進路を変えると、そうした形で要するに5人を救おうと。で、先ほど3人の人は右に進路を変えるというふうに手を挙げましたね。これだと、「ああ、良心が私にはあるんだ」というふうに実感するかどうか分かりませんけど 、B の場合は1人を突き落として殺すことはしないで、むしろ1人は救ってそのまままっすぐ進むというのが、これがまあ普通の人だと。これは実際上ですけども、アンケートを取ると大体8割ぐらいこうだというふうに言われています。

それに対して最近、サイコパスの人にこれをやらせるとどうかって言うと、サイコパスは良心がないという証拠として、Aは5人を救うように右に進路を変えるということは先ほどと一緒です。で、Bの場合はサイコパスはどう考えるかって言うと、平然と1人を突き落とすというふうに言うわけです。「えっ、別に一緒でしょ? 5人と1人。5人救うほうが基本的には生命が救われるんだから、その1人には死んでもらった方がいいんじゃない?」って言って平然と1人を突き落とすという形になるわけですね。

そうするとサイコパスの場合は、ある意味で問題が生じないわけです。5人か1人かっていう時に通常の人だと基本的に A と B の場合答えが違ってくるから、その説明をしなくちゃいけない。ところがサイコパスの場合は両方とも5人を救うってことで一貫してるわけです。そういうふうになると単純に計算で5人か1人かどっちの命が大切かというと、それは当然5人でしょと。で、そのことによって1人を救うという選択はないというふうに普通は説明されるわけです。

私がこれは良心を疑うということを書いたのは、実はこの説明って果たして正しいのかと。というのはですね、Aでは1人を殺して良心があるとされる。これ本当ですか。先ほど手が挙がらなかった人がいます。果たして要するに右に曲がるという時に躊躇する人はいるわけですね。まっすぐだと5人だけども、だからといって右に自分が要するにハンドルを切ったら1人を殺すことになる。それを果たしてやるということに、その人に良心があると言えるかどうかです。さらに言うと B では1人を突き落とすと良心がないと言われる。

問題はここです。 Aの場合とBの場合、1人を殺すってことで一緒でしょ。なぜ B だと良心がなくって、Aの場合は良心があるといえるんだろうと。こんな良心って果たして本当だろうかと。と考えてみるとですね、実は一般的にはこの回(?)が普通よく出されるんですけど、もともと考えてみれば、AもBも1人を殺す点で同じことじゃないかと。だから私はやりたくないっていう学生が時々います。だから一切何もしないと、タッチしないと。という学生もいます。そうすると、今の平常の人とサイコパスの人も選択肢ってのはですね、Aは5人を、そして B は1人と、これだと正常だという。これを正常と呼んでいいのかどうか微妙だと私は思います。

Aが5人でBも5人と、非常に論理的に一貫してますね。これだとなぜかサイコパスと言われるんです。で、これは良心がないと言われる。本当だろうかということです。でもよくよく考えてみると、単純に言えばむしろAを1人、Bを1人、つまり何もしなければ、要するに運転手であってもあるいは陸橋にいても、結局そんなに自分が手を下すってことが嫌だって人はいます。だから要するに手を離してしまうと。そうすると成り行き任せということで結局 A の場合だって5人は亡くなってしまう、 B の場合だって5人は亡くなってしまう。結局1人しか基本的に残らないと。だけど自分の手を下さないっていう意味では、この「Aは1人、Bは1人」ってのが一番いいんじゃないかと思う人いますか?

はい、これも迷いますよね、普通ね。

だけど普通、欧米の文献だとですね、こういう選択肢はほとんどでてこない。でもよくよく考えてみると、この選択肢は日本の学生に多分質問すると結構多いです。自分が手を下したくないから、Aの場合だって右に曲がるってのは嫌だなっていう学生はいます。そうするとこれどうするのかと、さらにいえば何もしないという選択です。何もしないからむしろ自分が手を下さないというこの発想もあります。

さらに1番考えにくいのはこの場合はですけれど、 A の場合は基本的に1人を残してという形ですね、まっすぐ行って。で、Bの場合は5人を基本的に残すというような形であればこの選択肢もありますけど、だから少なくともですね、こういう形で言えば1つの大きい問題はですね、要するに B の選択肢で、少なくともAもBもですけども、同じ1人を殺すと言うか、あるいは見殺しにするか、何らかの形で死を迎えさせるっていうこの時に A と B にそれほど大きな違いを、良心があるとか良心がないっていう形で果たしていえるのかどうかですね。

 

(ステップ3)

ところがサイコパスを説明するときに良心という概念が非常に安易な形でこうやって使われると。だけど問題なのはその時の良心って一体なんだろうという形で考えると、どう考えたらいいのかと言うとですね、先ほど1番最初の出だしもそうですけども、サイコパスってのは元々流行現象で、異常な犯罪者が1人一方でいまして、でいつの時代にも多分ですね、こういう犯罪者っていうのは一定の割合で多分いる。まあもちろんこれは非常に古い時代から、で現在もですね。ところがサイコパスとして社会的にブームになったのはだいたい1970年代以降で、アメリカで割とブームになりました。その後何度か流行が繰り返されてその度に該当者が広がっていくわけです。

特定の異常な犯罪者からそれからちょっと嫌な上司、そしてさらに言えばあなた自身だと。さらに言うとサイコパス的な気質を持った人というような、なんとなく性格診断のように使われてしまう、安易に。その時に「この人サイコパスかな」とか「あれはサイコパスだ」っていう時に困ったのは、印象なんですねもともと。雰囲気と言うかですね、共感しない雰囲気とか良心を持ってない雰囲気。そもそも良心があるとかないとかということをどうやって確かめるんです。で、それを多分、確かめたいということでトロッコ問題のように5対1ぐらいだったらなんとなく実験的にできるじゃないかと思いそうですけども、なぜこっちの方だったら良心がなくてこっちの方だと良心があると言えるのか、これも多分、実は解決してないんです。だから普通は大体パワハラの嫌な上司とかあるいはいじめをする友人とか、まあこういう人たちをサイコパスっていうのは非常に簡単ではあるんですけど、強引で支配欲があって権力欲が強い人。あるいは短気で感情的で反対するとすぐ逆上する人。こういう人というのは、昔はサイコパスじゃなくておそらく権威主義的パーソナリティというふうに呼ばれてました。こうした形で権威主義的パーソナリティと。

ところが最近はこれをサイコパスというふうに言われるわけですね。そうすると権威主義的パーソナリティとサイコパスって一体どう違うのかと。一体どっちの特徴づけがいいのかとかですね。こうした形で実はいろんな形でサイコパスというのは印象的な一つの特徴づけが多いと。

そうやって考えてみれば、異常犯罪者かそれともパーソナリティか。一般の人々から異常な犯罪者、これ非常に少数の異常犯罪者がいて、その中間に反社会的なパーソナリティ障害を持つ人がいてという。こういう人というのは様々いて。問題なのはですね、一体、一般の人々にサイコパスという概念が使えるのかどうか。あるいはその条件は一体どうなのか。それと非常に特殊な異常な犯罪者との関係をどう考えるか。で、サイコパスという言葉を使う時に実は多様な使われ方をしてて、その多様な使われ方が一体どうやって正当化できるかっていうことについては、あまり明確な規定がないというか、明確な規定がないままにあいつはサイコパスだとか、あの人ってサイコパス的だよね、というようなレッテル張りが多い、横行してしまう。これはどちらかといえば、厳密に言葉を使うという時には是非とも気をつけたいなというような問題ではあります。

 

(ステップ4)

きょうの1番最初の問題にもう1回戻りますと、じゃあどうするかということを考えますと、サイコパスという言葉を使う時に、1つは非難の言葉としてある。これはまあ、よく知ってると思いますけど、1つは権威主義的な上司とかあるいは教師だとか、こういう言葉を使いたくなるような上司とか教師ってのは必ずいます。皆さん社会に出てきたら、おそらくこういう人をどうしようかというようなことというのは、そのうち直面するかもしれません。

こういう上司に対して非常に部下がいてですね、でこういう人というのは大体部下の将来の決定権を握ってる人が多いんですね。だからここで反対する、あるいは反抗するとどうなってるか分かるよねっていう形でですね、にも変わらず逃れられないようなそういう状況の上で理不尽な要求をしてくると。こういう人見ると、ともかくサイコパスと言いたくはなるんですけど、こういう逃れられない状況の中で従わざるを得ないような、まあこういう人をサイコパスというふうにまあ呼びたいという気持ちは一方である。だからこういう意味で嫌な上司、これとどうやって付き合っていくか。あるいはその人とどういうふうな形で、例えばその要求を逃れていくかっていうのは非常に重要かもしれません。まあサディストって言った方がいいのかもしれません。

もう1つはきょうの1つの話題ですけども、逆にサイコパスという形で非難される立場に立つことも時々あります。これは先ほどのように共感しないということを考えると、同調しない異質者、こういう人を指すためにサイコパスという形で表現する場合もあります。こうやってみんなで同調すると。意外と日本社会って同調社会ですから、1人だけ違う意見を言うとなかなか浮いてしまってちょっと立場が取りづらいということがあるかもしれません。こういう形である1人が違った意見を持つ、違った行動をするという形をすると、時々ですけどもサイコパスだっていう形で非難される。こういう場合のサイコパスの使われ方というのは、一般的に「排除の論理」として使われると。でそれは要するにこの社会そのものが非常に社会的な同調圧力が高いと。こういう状況があって、学校だとかですね、あるいは職場だとか、もしかしたら寮もそうかもしれませんですけど。

こういう状況の中でなかなか1人だけ違った考えとか、あるいは行動というのは取りにくいような、こういう状況の時に一体どうするかと。もともと1番最初に設定した問題っていうのは、こうした形で同調しないという形での1人の学生を想定していました。この時どう考えるか。私たちとしてはサイコパスとは多義的な形で使われる、その多義性を十分わきまえた上で、これは犯罪者として使うサイコパスですね、あるいはもしかしたら非常に嫌な上司、権威主義的パーソナリティとして使うサイコパスという場合もあります。あるいはもしかしたら誰かを排除するために使われるサイコパスということもあるかもしれません。そして犯罪的な形で非常に魅力的ではあっても、なかなかこういう人は社会の中で非常に少数だという、こういうサイコパスって言っても実は使い方が様々で、そして多様だからそれを本当に1つのサイコパスという言葉で名付けていいのかどうかというのは、少なくとも非常に大きな問題だと思います。だけどこの時に気をつけたいのは、よく問題になる共感能力、きょうやりましたけどね。あるいは良心とか。あるいはこうしたものが社会的な同調圧力に使われる場合があります。あいつは良心が欠如してると。あの人には共感能力がないとか。非常に安易な形で使われる場合がありますけど、こういう場合には基本的にはサイコパスになる勇気も必要かもしれないというふうに思います。

 

 「友達を考える」

今回のテーマは「友達」です。おそらく友達については君たちの方が非常によく知ってるというか、非常に重要だとは思いますけど、私たちのような年齢になると、友達って言ってもなかなかピンとこないということになりますけど。

今回のテーマは「友達」をやります。おそらくこの友達については若い君たちの方が、非常に切実な形で問題があるんじゃないかと思いますので、今回は色々意見を聞きたいと思います。

テーマはもともと友達って必要ですかと、最初のあの思考実験を含めて考えてみたいというのが1つ。それから友達って一体どんな人?分かりやすく言うと、利益をもたらす人が友達であるとか、あるいは理想の友達とは一体どういう人? あるいは友達は敵になるかもしれないという、こうした問題を考えながら最終的に友達関係って一体可能なんだろうかという形で今後の友達のあり方について考えていきたいというふうに思います。

では早速、具体的な問題に入っていきます。

例えばですけどもメールへの返信は必要かと。実はですね私こうした形で本を書いた時に、編集者の方に「先生、今の若い人はメールが使えません」と。君たちどうですか? LINE でやってしまうから、メールが来たからそれに返信するかって、ただパソコンにメールだとかっていうイメージのメールを使うかどうかという感じですけどね。それでちょっとその意見を聞いて少し場面変えたんですけど。

例えばA君は明日の課題に備えて非常に準備が忙しい。こういう時にどういう状況かって言うとですね、その時B君は、これを友達としますと、メールあるいはLINE のメッセージとかですね、こうした形でメッセージが届く。その時にA君は果たして返信すべきだろうか。あるいは逆に今度B君の方は、自分が LINE でメッセージ送ったからといってその返信を期待することができるか、あるいは期待すべきだろうかと、こういうようなことを考えた時に、あるいは逆に、もしもA君が忙しいからちょっと面倒だなーと、そのまま流しておこうかというふうにして、もししなかったら果たしてどうだろうかという時に、この時に皆さんだったらすぐ返信する人? 返信しないという人?男性と女性で分かれましたね。こういう分け方がいいのかどうか分かりませんけど

あるいは自分が LINEか何か、あるいはメール送った時に相手から返信が来なくても別に何て感じないという人? どうしたんだろう、何かあったのかなとか、何ですぐ返信来ないんだろうとか、ちょっと不信と言うか疑問に思う人? 本当はすべきじゃないかとちょっと怒ってしまう人? 無視してるとかですね、

こういうのって、もう大学生になると少し違うかもしれませんけど、高校生とか中学生とかどんどん下になればなるほどですね、もしかしたら非常に重大になるかもしれません。

そこで考えてみると、返信しないという選択は果たして可能なのか。例えばさっきのように課題が忙しいと、A君としては今返信したくない。いろいろ話が長くなって、当然課題が間に合わないということが今までも何回かあったと、それで当然、A君が返信しないと。そうすると B 君としては「えっ、僕のこと無視してんの? 一体何様だよ」というふうにB君が思うということは果たして理解可能かどうかですね。

メッセージってすぐに返すのが友達だろうと、もし返さないんだったらあいつがどんなやつか皆に LINE で流そうと、こっちがちゃんとメッセージ送ったのに、それを返すってこと全然やらない。変な奴だなとか、みんなに流してしまう。こういう場面を考えてみた時に、そもそもひとりぼっち、これはあのこういう言葉があるそうです。〝ボッチ“っていう言葉は聞いたことは多分おありだと思いますけどね、あるいはトイレで隠れて一人で食事をするとか、「便所飯」って言うのかな。というような形で何故かって言うと、例えばお昼にみんなで何人かで集まってお弁当を食べてる時に1人だけ友達といなくて1人で食べてるっていう、これを他の人に見られたら嫌だからということでこっそりその弁当を持ってトイレに入って、そして1人食べてしまうというような、こういうようなこともあるとかっていうふうな話をよく聞きますけどね。

1つは友達が少ない、あるいは友達がいないと言うと格下に見られると、こういう場面があるかもしれません。

 

(ステップ1)

というのは友達がいないというのと友達が多いと、さらに言うと直接の友達ってこともいるかもしれません。あるいは様々な形で例えばネット上の友達とかですね Facebook とか、あるいは Twitter だとか友達がたくさんいるというような人と、あるいは誰とも基本的に、電話も含めてですけども、あるいはメール、LINE、あるいは人の Facebook とか Twitter だとかでも友達申請がほとんどないと。こんなふうに見られるのは嫌だというような感じでですね。そうすると自分がどんなに忙しくても、例えば連絡が来たら、即それに対して返信する。あるいはそれによってその後に非常に時間が長くなってもそれは致し方がないというようなことを考えてみた時に、友達を一体どう考えるかと言うことを考えてみますと、例えば友達って一体どんな人ということを考えてみると、1つはこれはあのプラトンの『リュシス』という友達についての議論が入ってるとこですけどですね、こういう言葉があります。

2500年前の言葉とは思えないです。「貧しい人は金持ちと、弱い人は強い人と、そして病人は医者と、援助を求めるために友になるのが必然である」というような形でですね。実際上私の知ってる人で役に立ちそうな人をいっぱい友達にするっていう人がいました。その意味で例えばお医者さんだとか、あるいは弁護士さんだとかですね、いろんな偉い人を知ってて困った時に助けてもらおうというこういう人がいましたけども、友達とは1つは自分の役に立つ人であるという形で考えればですね、自分の役に立つ人、これは何故かって言うと自分にとって利益になる。その意味で自分の役に立つ人ってのはいろんな意味で力がある。まあ当然のように例えば知識があるってのも力のある人だし、あるいは医者ってのも当然のようにですね、その道の技術を持ってると言うから力があるし、あるいは金持ちもそうです。その意味で言えばですね、友達がいないということは逆に言えば役に立たない人である。だが役に立たない人にとっては友達はいない。そう考えると友達の多い人というのはそれだけ力があるということの証ではないか。こう考えたとすればですね、1つはこうした形で友達っていうのは要するにその人の価値を測る。

例えばPさんとそれからNさんといるとします。Pさんの方が力がある人で Nさんの方は力のない人。どういうふうに力があるかないかを分けるかって言うと、Pさんに様々な形で友達がいる人達、abcdとこうやって様々に友達がいる人。この人は当然みんながその人と友達になりたいと思うそういう意味で基本的にその人は友人になる。それに比べると Nさんは僕には友達が1人もいないということを言えばですね、何故って言えばNさんにはそれだけ力がない。要するにNさんにはそれだけ価値がない。それに比べるとPさんは俺にはたくさんの友達がいるということで、誰も友達になりたがらないようなNさんというのは要するに価値がない人で、その意味で要するにその人の価値を測るバロメーターと言うか、その意味でその人にどれだけ友達がいるかっていうことでその人の価値が測れる。こう考えてみればですね、友達っていうのは、確かにみんなの前で食事をする時に1人だけで食べてると「あいつには友達がいないんだ。あいつには価値がないんだ」という形で、もしかしたら理解されるかもしれない。そうやって理解されることが嫌だっていうことで目立たないような形で食事をするというのが、子供達の中で基本的には時々、流行ってるということも言われたりしますけどですね。そういうの見たことある人? 「便所飯」 見たことあります?

基本的に先ほどの説明で大丈夫ですか。そういうような子供が、何でトイレでご飯食べるのということ考えれば、逆に言うと友達がいないってことをみんなに見られるってことが嫌だと。そうするとそもそもですけども、でもよくよく考えてみるとですね、果たしてその人が利益があるってことで友達になりたがってる人は果たして友達なんだろうかと。よくよく考えてみるとですね、Aさんが例えばPさんに対してですね、利益を求めて友達になる。Aさんの求めてるのはそもそもPさんなのか、Pさんがもたらす利益なのかということを考えてみれば、当然誰でもすぐわかるわけですね。そうやって考えればPさんがその利益になるものを失えば、当然Aさんにとっては価値がなくなる。だからしばしば例えばお金のある人にわーっと人が集まるけども、その人が例えば破産してしまうとみんな蜘蛛の子を散らすようにはわーっと下がってしまうというような、そうするとその人たちは果たして友達だったのだろうかと。逆に言うとPさんにとって先ほどですね、私がこんなにいっぱい友達がいるよって言ったその“こんなにいっぱい友達”っていうのは、ある意味では従者、元々例えば Twitter だとか何だとかで“フォロワー”という言葉がありますが、フォロアーというのは私を追いかけてくれる人という意味で、ある意味で従者ですから、こういうのは例えば主人と従者、主従関係のようなですね。これもまた友達と果たして言えるかどうか。だからこういう形の基本的な関係性の中で、例えばフォロワーをいっぱい持ったからといって友達を持ったことにならないんじゃないかということで、利益を求めて近づく人はそもそも友達ではないという可能性は多分一方である。

だけどしばしば利益を求めて近づく人はちやほやしてくれますから、しばしば誤解して友達だと思ってしまう場合がありますけど、これを友達と呼ぶかどうか、ちょっとこれはさすがに友達と呼びづらいなという人であればですね、そういうような利益ではなくて本当の友達は違うんだよという形で、むしろ理想の友達をイメージする人がいる。

 

(ステップ2)

本当の友達って何かって言うとですね、皆さんの中では多分教科書の中に出てきたかもしれませんし、もしかしたら多分読んでる人がほとんどだと思いますけど、話は多分皆さん知ってる『走れメロス』の中で出てくる友達ですね。要するに自分の命を犠牲にしても友達のために行動する。これこそがおそらく真の友達、あるいは本当の友達というふうに考えられるかもしれません。今まで友達といえば利益を与えてくれる者、自分にとって利益になる者が友達と考えられたわけですね。そうした意味で利益関係とは友達関係で、一方がその利益を失えば、当然その友達関係ってのは消滅して、それに対してそうではなくて、むしろ利益ではなくってそれぞれ自分自身が相手のために自分を犠牲にするってことを厭わないようなそういう関係を友達というふうに考えることができるかもしれない。

お互いに自分を犠牲にする。そういう関係こそが友達と呼ぶにふさわしい関係かもしれないというふうに考えるとですね、1つの大きな事例で考えますと、例えばこれ『カルネアデスの舟板』という非常に有名な事例があって、これ松本清張の小説のタイトルにもなってますけど、古代ギリシャ時代の哲学者のカルネアデスが出した問題というふうに言われて、これもよく知られている問題ですけどね。その後小説だとか映画とかテレビで繰り返し使われたのは何かって言うと、船が難破して乗員が海に投げ出された。1人の男が壊れたその船の板切れが浮いてたから、それにすがりついたという、こういう状況ですけども、船から投げ出されて、そして船が壊れて、そして板切れがあったからたまたま1人の男がそれにすがりつく。それでやっと「ああ、これでなんとかしのげるなあ」って思った途端に後ろからもう1人の男がやってきて、その板に掴まるわけです。普段だったら「君も大変だね」と言って「掴まったら」といいそうですけど、掴まったらブクブクと沈んでしまうわけです。よくよく見ると自分の友達であったその友達が掴まると沈んでしまう。その時に果たしてどうするかということです。

この問題を少し現代風にアレンジしてみるとこういうふうになります。感染症が猛威を振るってる。これは1つの思考実験で、その時に有効な薬が開発されて、そしてそれを服用すれば基本的に助かる。服用しなければ命を失うということが基本的に現実になってるようなそういう状況で、その薬が目の前にあった。ああよかったって取ろうとしたら1人分しかないわけです。1人分の薬があった時にあなたとそしてもう1人友人も、この友人も感染症にかかってるんですね 。でこの時に当然のようにですね誰かが先に飲んでおいて、その後で例えば補充を待っとけばいいんですけども、なかなかその補充は間に合いそうにないということが基本的に分かってた時に、その1人分の薬を一体どうするか。選択肢はですね、あなただったらどうしますか?

自分が使う。友人に与える。半分ずつ使う。だけど半分ずつ使っても有効性がない。結局いずれも命を落とすというようなこの状況だとした時、どういう選択をしますか?

自分が使う。友人に与える。半分ずつ使う。だけど半分ずつ使っても有効性がない。結局いずれも命を落とすというようなこの状況だとした時、どういう選択をしますか?

こちらから聞いてみましょうか。どうしますか?

 

あげます。

 

友人にあげる。どうします?

 

自分で使います。

 

自分で使う。どうします?

 

自分で使います。

 

自分で使う。

 

友人にあげます。

 

という2対2ですね。どうするだろうかという感じですね。

こういうふうな場面って、もちろん薬に限らずありえるかもしれません。問題なのは自分で使う場合、あるいは友人に与える場合、もし友人に譲ったとします。この時に友人がこういうふうに言ったとします。先ほどあなたが友達に「君が使ってくれよ。君は友人なんだから」といって、そういうかどうか分かりませんが提案したとします。そうやって基本的にあなたとしてはですね、ぜひこれを使ってくれって言って自分を犠牲にするわけです。その時に友人がこう言ったとします。「ありがとう、悪いね」と言った時に渡しますか。「ええっ使うの?」。要するに私が自分を犠牲にしたんだけども、相手は自分を犠牲にする気はないわけです。「ありがとう、悪いね」といったわけですね。この態度を見た瞬間に絶対にお前なんかにあげないぞと思いませんか、普通は。

普通、要するに自分が犠牲になって人に与えた時に、相手側がちゃっかり「ありがとう悪いね。じゃあ僕使わしてもらうよ」って言ったら、とても嫌な気がして何のために自分が犠牲になったのか、おそらくですけどですね、この時に相手はあなたに対して自分を犠牲にする気がないわけです。この関係って非常に微妙なのはですね、要するに一方が犠牲になる気があっても相手は全く犠牲になる気がない。この場合でも友人に与えますか? どお?

 

与えます。

 

与えます。態度は変わらない。はい、態度は?

 

ちょっと嫌な気がするかもしれません。

 

嫌な気もするかもしれませんね。この時、おそらく相手の本心が見えたかもしれませんね。つまりこの関係って一体何かというとですね、自分が犠牲になるということは相手も犠牲になるということが前提で初めてこの関係性が成立する。自分だけが犠牲になるということで、相手は少なくともあなたを利用しているわけです。要するに「ああ、悪いね。使わしてもらうよ」と。

一方は相手を利益になるものとみなして自分が犠牲になるという、こういう関係って何だろうか。この意味ではですね、要するに悪いねっというふうな言い方だというやつは友達ではない。あいつには自分を犠牲にしようという気なんかないんだと、こんな奴のために自分を犠牲にするのは、俺は馬鹿だというように考えてしまうかもしれませんね。こういうふうな意味で言えばですね、果たして一体友達、あるいは犠牲になる友達って一体誰なんだろうかということは非常に重要な問題で出てくるかもしれません。

(ステップ3)

ここで先ほど大きな形で問題を4つのステップに分けて考えようという話をいたしました。その時に4つのステップで考える時に3番目として、視点を変えてみようということで、今まで友達とはどんな人だろうかということで自分の利益になる人、あるいは自分を犠牲にできる人というのは友達と考えましたけど、今度は視点を変えてみて、友達っていう概念には、当然敵という概念も含まれていて、なかなかこれ考えづらいんですね。というのは子供たちの分かる友達っていう時、なかなか理想的に考えたりとかっていう形で友達関係を考えるのが多いんですけども、でも言葉を考えた時、「友」っていう概念には必ず「敵」と言う、「友、敵」という対概念がある。

例えば道徳だったら善と悪ですね。あるいは芸術だったら美と醜、美しいと醜いと。こういうふうな意味で要するに対概念、要するに対立概念を通して基本的に原理となるっていうのはそれぞれの領域を限定します。そうすると例えば友を考える時に敵を考えなければ友達関係は考えにくい。そうすると友達を考えるためには必ず敵も考えなければいけない。友と敵関係をどうするか。

通常ですけど私たちは友達関係って美しそうに見えます。美しい友情だとか、でも現実的には先ほどじゃないですけど友達と思ってたらいつの間にか敵になってたとかっていう可能性もあります。ですからこうした意味で、要するに友達がこうやってみんな友達だよねという、これだと割と非常に素直な良い関係かもしれませんけど、もしかしたらこの中にですねちょっとだけ他の人と違った能力がある人が出てきたとします。そうするとおそらく皆にとってはですね、こいつは多分、敵になりますね。あるいはもしかしたら他の人たちよりもちょっと劣っている人がいるかもしれません。こういう人も敵になるかもしれません。でこういうふうな意味で自分たちよりもちょっとだけ、出る杭は打たれるではないですけども能力の高そうな人、こういう人はおそらく、周りから叩かれるかもしれない。あるいはちょっとだけ他の人よりも劣っていたり力がなかったりする。そうすると良い塩梅で使われるかもしれません。こういうことを考えると、友というのは実は微妙というか、みんなが同じ一線に並んでおかないとなかなかなりにくいかもしれませんけど、そうじゃなかったら一体どういうふうにするかということを考えると例えばですけども、これは道徳の問題としてよくあるんですけど、ニーチェっていう人が『道徳の系譜学』っていう本を書きましてですね、この本の中で人間のあり方っていうのをこういうふうに説明するわけです。人間っていうのは大体、他の人たちよりもちょっとできる人がいると、そうすると大体こういうできる人がいるわけですね。そうするとどうするかって言うと、他の人はこの人を大体、敵だとみなして、そしてジェラシーを感じてしまう。で他の人、つまり他の人は凡人とします。凡人は要するにそれよりもちょっとできる人、これを敵だとみなして、そして凡人同士で要するに俺たち友達だよねって言って、敵を一斉に攻撃するというスタイルは時々あるかもしれません。ですからその意味で、敵を引きずり下ろして、引きずり下ろすことによって自分たちを要するに絆を強めるという、こういうのをニーチェは「畜群本能」、家畜の「畜」ですね。このような関係というのはしばしば人間関係の中でよく見られるかもしれません。

ニーチェはこれを“弱者の逆恨み”、これをフランス語で「ルサンチマン」というものを、これを彼はドイツ語で「ルサンチマン」という言葉で言い換えたんですね。ですからしばしばですね、友情のふりをしてルサンチマンを抱くってことは時々あるかもしれません。こういう場面、時々遭遇したことがある人? 全く知らないという人? 幸せかもしれませんね。 今でもよくあるという。

さらに言えばですね、もしかしたら今のはちょっとだけ秀でた人がいると。そうすると当然そいつを引きずり下ろしたい。引きずり下ろすということによって初めてその他の人たちが友達。

今度は弱者探しをする。こういうところに1人だけ違う人が、例えばそれからちょっと劣ったとみなせるような人がいると。これを敵だとみなす。これを敵だと見なすのは何故かって言うと、敵だと見なすことによって、そうでない自分たちを基本的には同盟関係を結ぶ。これが友であると。そうでない人は敵だよと。これの非常に上手いのは、こうやって敵を見つけると少なくとも同盟関係が非常に強くなりますね。なぜかというと、そこから外れてしまうと今度は自分がその代わりの敵になってしまいますから。そういうふうな意味で要するに共通の敵を作ることで初めて友達同士の結束ってのは測られる。

さらに先ほどのように、自分たちよりちょっとできる人、あるいは自分たちよりもちょっと下だとみなせる人、こういう2つの敵が作れると。こうした形で敵を作ると、今度は自分が敵にならないように弱者いじめを非常によくやるということは、社会の中でよくありますね。ですからよく弱者をいじめるっていうのは非常に優れた人が弱者をいじめるというふうに見られがちですけど、なかなかそうではなくて、むしろ社会的には底辺にあるかもしれない、あるいはもしかしたら社会的には平均以下の人たちが、今度は自分たちが1番最底辺にならないように、そのために1番最底辺にある人を非常に強い形で弱者いじめをするということも、多分ありそうです。

 

(ステップ4)

こういう弱者いじめとしての敵づくりを知ってる人? これはみんな知ってる。この時に自分が敵になると大変ですね、多分。そうすると、まあ友達って一体何だろうかと。結局、敵にならないように友を作る。単純に美しい自己犠牲という世界よりも、もしかしたら友達とは非常に複雑かもしれない。そうすると友達を考えるのはどうするか。でこのためにですね、一応私はここで、スピノザという哲学者がいますけど、これは近代の哲学者で、それを現代の哲学者のドゥルーズって人がこれを解釈したんですけど、どういうのかって言うとですね、栄養物というのは一体何か。要するに栄養物はその人の体に栄養になる物、ということはその人の力になる。あるいはその人のパワーをアップさせるもので、そういうものがその人にとって良いもの、良いということだと。それに対して、むしろその人が例えばそれを摂取すれば、その人の体を台無しにしてしまう。そういうものは代表的な言葉で言えば毒物になる。毒物になるというのはその人のパワーを要するにダウンさせる。もしかしたら死に至らしめる。そういうものは基本的に悪いものである。そうするとスピノザは何のためにこういう表現を使ったのかというと、要するに良いと悪いという通常私たちが道徳的な意味で良いか悪いかって使うこの言葉っていうのは、実は自分のパワーをアップさせるかダウンさせるかっていう、これに基づいて判断できると。ですから例えばですけども、友達の場合、この人は良い人か悪い人か、自分のパワーをアップさせる人かダウンさせる人か、これで選べそうですね。

教師でもそうです。「あの授業どうだった?」誰かに聞かれ、「ああ、いい授業だよ」という時には、多分その授業を聞いて自分のパワーがアップすると思えばいい授業だと言うし、「ああ、あれね、ひどい授業だよ。聞かないほうがいいよ」っていうふうに言う時には、おそらくそれを聞くことによって自分自身のパワーがダウンしてしまう。その意味で要するに自分自身のパワーをアップさせるかダウンさせるか、これ非常に根本的な基準だというふうに私は思いますけども、この2つの対立を少なくとも先ほどの友と敵というこの概念に基本的適用してみようと、そうすると良いとか悪いというのは要するに友と敵にするとですね、要するに自分のパワーをアップさせる人は友である。むしろ自分のパワーをダウンさせる人はこれは敵だと。こうやってみなせば自分のパワーをアップさせるかダウンさせるかというこの基準に基づいて人間関係を作るのが基本的にいいかもしれない。

そう考えると、一体友達をどうするかと。さらに言えばですね、これは非常に重要なことですけども、私としては現代の社会の1つの状況から考えると、自分にとってパワーをもたらすかどうかっていうのは、別に人間に限定する必要はないわけです。人間って面倒くさい場合もあるでしょう。もしかしたら、こいつと付き合うよりももっと面白いことがあるとかですね。

ということで例えば普通はだいたい面白いもの、あるいは自分のパワーをアップさせるというのは、もしかしたらその時はもしかしたら人かもしれません。あるいは同性かもしれない。あるいは異性かもしれない。別に同性で関係ないって可能性もあります。さらに言えば別に人間に限定しなくて動植物かもしれない。これが逆に自分のパワーをアップさせる源になるっていう人がもちろん世の中にたくさんいますから、さらに言えば別に動植物ではなくて自然物かもしれない。さらに言えばAIだとかロボットだとか、あるいは人工的な世界かもしれません。別にこの中でどれを友達にしますかという時に、別に限定する必要は基本的ない。なぜかと言うと要するに人間であれ動植物であれ、敵になる場合ももちろんあります。自然物であっても敵になる場合があります。そうした意味で言えば、私たちは友達という概念をもっと広げて使ったらいいかもしれません。人間に限定するというこういう世界っていうのは、そろそろやめたほうがいいかもしれない。

さらにもう1つ。友達を考える時に私達って大体こういう悪い癖がある。あいつは友達か友達でないかという、ゼロか百かで考える可能性があります。こういうゼロか百かで考えるというよりも、むしろこういう友か友でないかとか、あるいは友か敵かということよりも、まあ多分ですね100%の友達ってのはですね、多分ですけどもありえない。もしかしたら裏切りの可能性はいつでも持ってる。そうした形でしか友達と付き合えないということもあります。そう考えるとむしろ友達であるということも、あるいは敵であるっていうことも含めて、常に段階的なもの、だから程度問題があると。だから100%選んで60%ぐらいが友達かもしれない。でも40%くらいは敵かもしれないというような、そういう程度の差として友達を考えると。

これは結構、ゼロか百かで考える友達関係よりも視野が広がる可能性があります。単純に相手に利益を求めることは基本的に友達ではないというふうに否定する必要はないわけです。要するに役に立たない人と付き合いますか? 役に立たない人と付き合いますかと言われたら? 付き合いはしないですよね。そんなこと言ったら「え?じゃ、利益を求めて友達と付き合うの?」って悪口言われそうですけども、少なくとも相手に利益を求めるということを否定する必要はないわけです。当然のように。だからその意味で相手に利益を求めるということは当然だとしても、さらに言えば自分の利益だけで動いたら、多分友達できないですね。なぜかと言えば多分見えますから。「ああ、あの人自分の利益のために近づいてきてんだな」とよく見えるでしょ。そうするとそれを見た瞬間に、例えばチヤホヤしてる人がいるとします。「なかなか僕のこと評価してくれるんだな」と思って仲良くしてたとします。だけどよくよく見ると、その相手の例えば裏が見えてしまったらゾッとするでしょ。利益を求めてきてるだけなんだと見た瞬間に、当然その人との関係性とは消えますね。だから逆に言うと、友達関係っていうのは一方で利益を前提にする。そして利益を求めても構わない。にも関わらず自分の利益を犠牲にするっていうことも可能。あるいはそれをある程度前提にしなければ多分ですね、友達関係は多分できない。その意味でゼロか百っていう可能性ではなくって段階的な形で基本的友達を考える。その意味で友達の問題っていうのは友か敵かというこれだけではなく、そして人間だけってわけでもなく、利益だけってことでもなく、犠牲だけってことではなく、様々な形で段階あるいは程度問題という形で友達との関係ってことを考えるということは非常に重要かもしれないというふうに思います。

 

 

 「仕事を考える」

これからテーマはですね、仕事をテーマに始めさせていただきます。よろしくお願いします。

本日の仕事に関するテーマですけれども、多分皆さんが大学生ということでなかなかその仕事そのものに従事するというのは、バイトは多分あるかもしれませんけど、どういう仕事に就きたいかということは一方であるかもしれませんね。それを含みながら少し考えていきたいと思います。

仕事は必要なのかというここから少し考えていって、働くとはどんなことかという、こういう問題を基本的に考えていきたいと思います。

ステップとしては4つのステップを踏みながら最終的にどういう方向に考えていくかということを一応方向づけしたいと思います。ということで早速ですけども、仕事に関する1つの前提を考えていきます。

ケインズという経済学者、非常に有名な経済学者ですけども彼が1930年に行なった予測といわれるものがあって、彼がどういうことを言ったのかと言うと、20世紀の末までにはイギリスやアメリカのような国々ではテクノロジーの進歩によって、週15時間労働が達成されるだろうと、要するに週15時間っていうと、5日間働くとすれば1日3時間、それだけでおそらくイギリスやアメリカのような国々はそれがスタンダードになってるというのが彼の基本的な予想だったわけです。その要素に対して基本的にテクノロジーの観点からすれば彼の予想は根拠があったというふうに言われています。にもかかわらず、実際イギリスやアメリカで週15時間労働が基本になってるかって言うと実際にはどうもそうなってない。もちろん日本もそうです。1日3時間、午前中か夕方ですね。まあそれを働いてそれで生活ができるということであれば一体どうだろうかということです。

このケインズの予想に対してどういうふうに考えるか。1930年代のケインズの予想に対してですね、今度はもう少し、現在ケインズの時代よりも AI とかあるいはロボットだとか、こういうものが非常に進化してますから、そういう意味で言えば、もしかしたらケインズの予想ってのは実現するかもしれない。例えばですけども人間の仕事っていうのは AI やロボットによって肩代わりが可能であるというのは、最近は10年ほど前からしばしばいわれてますし、それは具体的には機械に置き換わる人々、そういう人々によってもしかしたら今度は仕事がなくなる、そういう可能性がある。

今、社会がこういうふうな人数構成になってるとしますね。その中で例えば AI だとか、あるいはロボットだとか、こういうのが出てきて、この中でこの部分ですね、要するに例えば8人の中で6人の部分が機械化される。そういうふうになるとこの人たちは基本的には失業してしまう。その代わり一体どうなるかというと社会としては、残りの2人と、それと今度は機械化されたAIやロボットをここに導入すれば、これで今までの社会の生産と言うか仕事はこれでまかなえると。そうすると基本的に今までみんなで働いたものが、要するに大半の人々が働かなくてよくなる。これは一体どういうふうなことを考えればいいかと。

これは幸せなことなのか、それとも不幸なことになるのか、それを考える時に

次のようなお話、皆さん多分よく知ってると思いますけどアリとキリギリスの寓話ですね。これは夏の間せっせと働くアリさんがいて、それに対して夏の間は遊んで暮らすキリギリスがいる。こういうものを見た時にですね。結論としてどうなのかって言うと、夏の間はそれで一応やり過ごしたのだけど、今度は冬になったらキリギリスは食べ物がなくなってしまった。何故かというと遊んで暮らしたから冬になった途端に慌ててしまって食べ物がない。そうするとどうするかっていうんでここから出てくるのが、だからこそ私たちは決して遊んで暮らすんではなくってせっせと働き、そしてせっせと働くことによって将来を蓄えとかなければいけないという、こういうふうなものを、基本的には「労働倫理」というふうに言います。苦労して働けと。逆に言うと苦労して働くことはいいことである。逆にこの時にですね、普通この話がされる時にですね、あなたはアリさんとキリギリスさん一体どちらの生活がしたいですかという問いを出された時に、一体どうだろうかと、ちょっと聞いてみてもいいですか?どっちの生活しますか?

 

生きていけるのならキリギリス。

 

生活できるならキリギリス

 

私もどうにか頑張ってキリギリス

 

という話ですね。キリギリスでやれるかどうかが問題なのかもしれませんね。

ということで、今現在この話って多分子供の時に大体普通される時にはですね、「だから後になって困らないようにしっかり働いておくんですよ」というのが今までの話だったわけです。ところが最近もしかしたらキリギリスのようなスタイルでもやれるかもしれないというようなこういうような話が出てきて、それは、人間は働かなくなると本当に堕落するんだろうか、要するにやれるかどうかっていう問題だけではなくって、働くことはいいことだという前提が一方であるわけです、労働倫理というのはですね。

だから楽して儲けるというのを非常に嫌う、例えば国民感情があります。「え?ほとんど働かなくて儲けちゃったの?それって身に付かないよ」みたいな感じで、「お金はやっぱり苦労して働いて初めて身に付くもんだから」みたいな発想があるんですけども、今から考えれば、「いや、そんな発想って古いんじゃない?」と。

 

(ステップ1)

さらに言うと働かなくても基本的に儲かる、そういう職業があったらもっといい。あるいはそれで生活できるような社会システムだったら、もしかしたらいいんじゃないかと、そういうようなことを考えてみて、果たしてアリなのかキリギリスなのか、どちらの立場に立ちますかということを考えてみた時に、働くって一体どんなことなんだろうということを考えますと、普通、働くってのは自分のしたいこととそれと労働と言うか、普通働くっていうのを英語で表すと一方ではこちらの方です。苦労する。労苦とか骨折りだとかですね。これは英語でlaborという言葉で使う時に、これは元々骨折りだとかっていう、苦労をするとかっていうのが元々の語源になってる言葉で、それに対してもう1つの英語でworkという言葉ですね。これは例えば芸術家だったらworkは作品になりますから、その意味で自分が望んだ物を作品として作り出したものは作品。例えば本でもその人が書いたものは全集だったらworkですからworksになりますからね。その意味でこれは要するに人から強制されて嫌々ながらやったわけではなくて、自分の自己表現、自己目的のために作った物がwork、だからworkというのとlaborっていう、もちろん現在これが厳密にこうやって2つ綺麗に区別されてるわけじゃないですけども、要するに自分のしたいこと、それがまさに実現されたものとしての仕事という意味と、それと自分では望んでいないんだけれども嫌々ながら生活のためにせざるを得ないような苦役とか、あるいは労苦というようなこの2つの、例えば働くという言葉にあってですね、この時にどちらのイメージで考えるかと、そうすると1つはですね生きるために強制された苦役、要するにしたくないもの、したくないんだけども生きていくためにはせざるを得ないという意味で、例えば苦役として働くってことを考えるのか、それともう1つは自己実現ですね。それは当然こういうものがしたい、こういう表現がしたい、それによって要するに作り出したもの、作り出されたもの、それが例えば他人から賞賛されるというようなことがあるかもしれません。

さてアリとキリギリスの対立っていうのは結局何だったのか。考えてみますとですね、アリの行動というのはこれは要するに苦労だとかあるいは苦役だとか労苦という、これを「労働観」というふうに呼べばですね、それに対してキリギリスの行動というのは遊んだり歌ったりとかっていう、これはある意味では制作するとか表現するとか自己実現という、これがそういう意味での仕事観、そうすると労働と仕事っていうことを非常に厳密に2つ強く分けてしまえば、結局1番私たちに望ましいのは、もしかしたらキリギリスのような行動によって生活できるようにする。それができるようなビジネスモデルが果たして可能かどうかと。今まではそうしたことというのはもともと不可能だったんだけども、そういうものを可能にするようなビジネスモデルがあるんじゃないかと

今から考えてみてもですね、それってもしかしたら現在でも、例えばドラマかなんかでも結構流行ってるビジネスって大体こういうイメージが非常に強かったり、要するに嫌々ながら長い時間長時間労働して、やりたくもないことを朝から晩までやるのではなくて、楽しみながら遊びのようにやりながら、にも関わらず非常にお金がある程度裕福になってしまうと、こういうビジネスができるんだったら、もしかしたらそれが1番いいんじゃないというような発想を考えれば、そうすると例えば生活のためにしたくないことをする。

例えば3Kとか6K だとかって日本で言われて、例えばよく知ってるきついとかですね、汚いとか、苦しいとか、これが3Kと言われるものですね。それに6Kと言われるのが給料が安い、休暇が少ない、かっこ悪いと。さらにKが入って6Kになると。こういうふうに考えれば大体こういうのってあまりやりたがらない。なぜやりたがらないかっていうと、おそらく報酬も低い。それに比べるともっと自己実現ができて、報酬も高くて、こういうかっこいい仕事がいいかなというふうに、普通は大体考えるかもしれません。

 

(ステップ2)

これを例えば考えた時にですね、どういうことを考えればいいかって言うと、これ現代の社会学者ですけども、バウマンという人の現在の人々の仕事観はどうなってるかって言うと、どっちの仕事がいいですか、laborとworkの違いじゃなくてですね、ともかく仕事っていうふうに対する時ですね、1つは退屈である。要するに単調である。まぁルーティンが多い。繰り返しが多い。自己実現の機会がすっかりない。そういうような仕事と、それと面白い。変化に富む。冒険の余地がある。ちょっとだけリスクがある。とっても大きなリスクだと危ないかもしれませんけど、ちょっとだけリスクがあってハラハラドキドキ、そして変化に富んでそうするとそれをやってること自身が、1つの楽しみだという、これは先ほどのアリとキリギリスの違いに考えればですね、アリさんの仕事ってのがおそらく退屈で単調で繰り返しが多く、そして結局やったからといってなんか自分の自己実現が少ない。それに比べるとキリギリスの、例えば歌ってそして踊って、そして何か例えば人前で例えば自分の表現をすると皆から褒められる。

問題なのは結局それで生活ができないっていうのが結局アリとキリギリスの問題で、逆にキリギリスがそうやったら、みんな「おお、すごいね」って言って、じゃあキリギリスにみんながこうやって様々な形で援助しようって人がいっぱい出てきたらですね、それが一番いいんじゃないっていう発想になるかもしれませんね。ところがなかなかそういうふうな形でアリとキリギリスの話を私たちは教えてこなかったと言うかですね、教えられてこなかったという。今の仕事を考えると、結局どんな仕事を私たちが望むかというと、少数のスターに憧れる。要するに憧れの仕事はというのを尋ねるとですね。

尋ねてもいいですか?どんな仕事に就きたいですか。職種です。どこどこの会社という形じゃなくてどんな仕事がいいですか?

 

企業の企画とか、マーケティングとか。

 

かなりハラハラドキドキ、自分の発想がうまくいくとなかなか自己実現とかありそうですね。

 

どんな仕事がいいですか?

 

テレビ局とかで、番組を作っていけたらなと。

 

形を変えたキリギリスの世界ですね。要するに歌を歌って、みんながこう「すごいなあ」みたいな形でというような、そうした形で要するに様々な形で企画し、そして放送を流し、そして多くの形で賞賛されるというような、自分がこういうのもの作っておきたいなっていう形で企画して、それが発表するとみんなからいい企画だと言って。

 

どういう仕事がいいですか?職種として。

 

あまり決まっているわけではないですが、正直、ちょっと安定したって言うか、アリ的な方に惹かれてるところがあるかもしれないです。

 

はいわかりました。

安定したといってもきついのは嫌だと。それはありますか。それは言わせようと思ったわけではないですが。

 

どんな職種がいいですか?

とてもあいまいですけど、直接、人の役に立ててるなと実感できる仕事がいいかなと思いました。

 

わかりました。

もしかしたら後の問題と関わる可能性がありますね。ありがとうございます。そうしたことを考えてみるとですね、1つの仕事の職種として、現在の1つの大きなモデルというか憧れの職業はと子供に聞いてみるという形でやるとですね、多分スター性がある、あるいはみんなから賞賛され、「わあ凄いなあ」という形でみんなからそれに集まってくるという形で考えればですね、例として、もうちょっと時代が古くなったかもしれませんけど、ユーチューバーとかあるいはインフルエンサーだとか芸能人だとかスポーツ選手だとか、あるいはそういう人に取り巻くような形での例えば職業とかっていうような、こういうものを考えてみた時にですね、そういったものは多分ですね、1番大きいのはごく一部の注目される人である。それは多くの人がみんななれるわけじゃない。スポーツ選手にしても芸能人にしても本当にごく一部です。だからキリギリスのような立場の人は、要するにスターを目指して、そして他人からは、これが一番なのかな、注目されそして賞賛され、そして何よりも良いのは報酬が高い方がいいですね。安くなくて。そうすると非常に楽に生活できるかもしれません。そうやって考えてみるようなその仕事を考えてみれば、もしかしたら現在の仕事を考えると、仕事と遊びという形で今まで対比された言葉があります。

以前だったら仕事にあたるものは労働と、これは苦しみであり忍耐であると。それに対して例えば遊びというのを考えると、遊びというのは楽で、そして自由である。そうすると子供の頃から「遊んでばかりじゃダメよ」と言って「勉強しなさい」とかっていう対比でやられるのはですね、一方は苦しいもの、それで耐え忍ぶものであると。もう一方は遊びの方は楽なもので面白い。そして自由である。この対比ってのは労働と遊びという対比の中でやっぱり仕事っていうのが一方でですね、苦しみと結びつくってのがまあ昔はあったんですけども、今後、仕事の未来っていうのはこうなるかもしれない。遊びのような仕事、あるいは遊びをやってるようにいながら、もしかしたらそれがビジネスとして成立するような、そういうような意味で自由な活動で、今まで仕事と遊びっていうのが対立して、だからこそ例えば仕事は短時間、3時間働いてそれ以外は仕事しなくてもいいってのはこれはケインズのイメージです。ところがそうやって仕事と遊びを対立させるんじゃなくて、仕事そのものがまさに遊びのような形でできるようなそういう活動になるという、そういう仕事が私たちにできればそれがもしかしたら1番いいかもしれないという形ですね。

つまり仕事をすることが苦しみではなくて、むしろ楽しみになる。このパターンのイメージってのはですね、多分芸術家とか、あるいはクリエイターとか、あるいは開発者とか、あるいは研究者とか、こういうような人たちがもしかしたら、例えば仕事と遊びというような、ですからこういうタイプの人達っていうのはですね、どんなに長時間やってたって、自分の楽しみのためにやってるか全然苦しみがないといえば嘘かもしれませんけど、要するに作り出す苦しみは一方であったとしても、それはある意味で自分の好きなことをやってるというスタイルですね。そういう意味での芸術家・クリエイター・開発者・研究者たちの、遊びといえば遊び、仕事といえば仕事、自由な活動であるようなこういう仕事ってのが、もしかしたら今後の1つの大きな目標になりそうになるかもしれません。それ以外の仕事っていうのは、労働っていうのはですね、 AI とかロボットに任せればいいんじゃないかと。

そうすると最終的に例えばアリとキリギリスの話だったらですね、キリギリスのようなそういうスタイルがいかに今後私たちの社会の中で実現するかっていう問題になるかもしれない。

 

(ステップ3)

でもこういう考え方に対してですね、「ちょっと待ってください。それでは困るんじゃない?」というのがそれに対する批判。それは何かって言うとですね、これを苦役に対して尊厳を与えようという、それは例えばですね、先ほど3Kとか6Kとかっていうふうな表現をすると、非常にそういう形でやると楽なことばっかり人間が求めていくのは間違いないんじゃないかと。そもそもみんなが嫌がるような、例えば3Kとか6Kの仕事がなくなったらどうするか。そう考えると社会そのものが存続できないんじゃないかと。確かにそうです。今でも例えばこういう3Kとか6Kのような仕事ってのは日本の人達があまり従事する人が少ないので、外国から基本的に労働者をこちらの方に導入したいとかっていうのがあったりしますね。そういうふうな意味で、コロナがあってこちらの方にですね導入できないから困るとかって話があったり、これキング牧師の言葉ですけど、「私たちの社会がもし存続できるなら、いずれ清掃作業員に敬意を払うようになるでしょう。考えてみれば、私たちが出すゴミを集める人、こういう人は医者と同じくらい大切です。なぜなら彼が仕事をしなければ、病気が蔓延するからです。どんな労働にも尊厳があります」。つまり3Kとか6Kというような苦しいとか安いとか、そういうような形で基本的にそれを回避すると、結局そういう仕事っていうものは一体誰がするのと。

最近コロナになって非常にしばしば言われるような言葉が、“エッセンシャル・ワーカー”という言葉があります。これは実はこういうような形でよく言われるようになったものです。つまり新型コロナ感染症によってですね、エッセンシャル・ワーカー、社会そのものを基本的に基盤として支えるような人たち。この人たちはそれはもしかしたら楽な仕事ではないし、しかも報酬は高くないかもしれない。さらに社会そのものにとっては、社会そのものが存続するためにとっては不可欠である。実際上ですね、ゴミの収集の人が基本的にその職種の人がみんな辞めてしまう。それをしなくなったらどうするか。社会そのものが基本、成り立たないでしょ。にも関わらず、果たしてその人たちにそれだけの社会を存続させるほどのエッセンシャルな仕事をしてるというにもかかわらず、十分な報酬を与えてるかってとそうじゃない。つまりここで要するに行われているのはですね、おそらく先ほどどなたかが言っていた使命感とかですね、他人のために何か自分自身の仕事が役に立つようなと。派手ではないかもしれないけども、注目もされないかもしれないけども、楽でもないかもしれないけれども、にも関わらずやっぱり社会にとって重要な仕事なんじゃないか。こういうものを指して例えばエッセンシャル・ワーカーというような言葉が最近コロナの感染症によって使われるようになった部分はあります。

そうやって考えてみればですね、結局、苦役は誰かがやらなくてはいけない。そういうふうに考えられる。一方ですね、苦役というのはほとんど誰もやりたがらない。ほとんどの人がやりたがらない。にも拘わらず誰もしなかったら当然社会が存続できなくなる。じゃどうするかということで道徳的に賞賛する。つまり使命感がある。あるいは他人のために、例えば自分を犠牲にしてでも仕事をする。あるいは報酬を高くする。じゃあ エッセンシャル・ワーカーに当たる人たちの給料を上げるという形で十分な形で上げたらどうなるか、可能かというとなかなかそうも社会もいかないみたいです。

 

(ステップ4)

そうやって考えると、道徳的に賞賛すると言っても、道徳的にも素晴らしい仕事ですねって言っても結局報酬が低かったら、誰もやり手が少なくなる。さらに言えば報酬を高くするっていうこと自体が社会的に不可能だと。そうするとどうするか。どんな方法があるかということを考えれば、最近の1つの方向性としてはですね、AIとかロボットを活用しましょう。そうすると人間が嫌がる労働は機械に任せようと、これで済むかどうか微妙ですけども、

少なくとも労働、今まで働くというのは2種類あった。

一つは苦役、要するに労苦という。それともう一つは仕事、制作とか実現だとかですね。当然のようにこの仕事と労働の違いというのを、これを一方で機械や AI やロボットに任せようと。

もう一方を人間が行おうと。そうやって考えれば結局今まで仕事っていうのを、労働と仕事という形で要するに苦役に携わらざるを得なかったというこういう時代、これを多分ですね、いろんな思想家たちはみんな同じような表現を使ってます。マルクスはどう言ったかというと、今までの人間の歴史っていうのは苦役とかあるいは労苦というものに携わらなくてはいけないという時代だった。でもそれ以降は人間の前史、前の歴史が終わるという表現。ケインズだったら労働時間が短縮されると。

最近、歴史家として非常に有名になったハラリさんという人は、ホモデウスというのがおそらく今後誕生するというような、こういうスタイルを考えればですね、そうすると人間が行うと。ただ大きい問題は誰でも行えるかどうかです。それを考えてみた時ですね、1つのモデルを考えるとこういうことかもしれない。ギリシャ時代をイメージしますと、ギリシャ時代ってプラトンとかアリストテレスというような哲学に携わった人達っていうのは、学問というのはヒマ人がやるという前提ですから、ヒマ人がやるって言うことは、一方で奴隷たちが仕事をしてるということです。奴隷たちが必要な仕事に従事して、そして彼らは要するに必要な仕事はしなくてもよいということで、それこそが自由人で、政治を行うのも自由人だけど行えた。むしろ社会的な生産とか様々な物っていうのはこの奴隷達が行ったっていうのがこれが要するにギリシャ時代の1つの発想なんですけどすね、要するに奴隷たちが生活を支えた。現代はおそらく、この自由人にあたるのが、もしかしたら人間のごく一部の有能な人々で、それともう1つ、奴隷達に当たるのが AI とかロボットがこれが要するに人間の生活を支えるようになるんだと、そういう形によって基本的に全員がもう働かなくてもよくなりますから、そうすると無用な人たち、要するに失業者たちですね。その人たちが要するにたくさん出てくる。その人たちを要するに監視するシステムが必要で、これがAIとか使って監視なくちゃいけないし、さらに言えば有能な人間たちがこの無用者階級を管理しなくてはいけない。つまり社会としては現代社会は有能な人間と AI とロボットがあれば社会としては十分で、あとは無用者階級をAIを使ったりして監視したり管理したりするというのが、もしかしたら未来社会なのかもしれない。

これはあのハラリさんの描いた未来予想図ですけど。こういうようなことを考えれば、最終的にですけども未来社会ってのはどうなるかと、つまり仕事も含めてですけども、マルクスっていう19世紀の社会思想家は人間が労働から解放される社会を想定してるわけですね。だからこそ彼はこれを未来社会として、理想社会とイメージ描いたんですけど、これを彼は共産主義社会と呼んだわけです。この共産主義社会って彼にとっては機械が十分発達して人間の労働が少なくなるというのが大前提です。マルクスの共産主義社会は平等な社会です。それに対してテクノロジーの発展というのは、マルクスもそれから現代の例えばハラリさんも同じように前提にしてて、これ多分みんな前提にすると思いますけど、歴史家のハラリさんはテクノロジーが発展した未来社会っていうのはむしろ有能なホモデウス、ホモデウスというのはですね、神のような能力を持った人間と、AI とかロボットによって駆逐されて、もう仕事しようにも役に立たない無用者階級というこの2つの対立が生じてくる。その意味で大格差社会というふうに予測するわけですね。

今の未来予想というものを聞いてみてですね、皆さんどう考えますか?
これからまず聞いた後、そして今回の話に対するご質問を受けます。

まず最初にこの未来社会像ですね。2人の未来社会像を考えて、いずれかでも結構だし、あるいはそうでないような形でも結構です。誰でも結構です、どうぞ。

どちらの方がリアリティがありますか?

 

後者のハラリさんのほうが。

 

どうぞ。

 

ホモデウスと無用者階級が必ずしも対立すると思わないので、どちらかというと労働から解放されてるって観点から見れば前者の方が正しいと。

 

ですからマルクスの場合は理想社会なんですね。その意味で共産主義っていう形で考えた理想社会のイメージですね。それは労働から解放されるんですね基本的に。

はいどうぞ。

 

前者のほうは歴史的に見て結果的に失敗したっていうので、厳しいのかなっていうのがあって、そうなると後者かなと思うんですけど、ホモデウスと無用者階級についてちょっと考えたことがあるんで、後で質問させていただきます。

はい。いかがですか?

 

同じく共産主義はおそらくこのままでは成立しないと思うんですけれど、ただその後者の方で無用者階級を完全に管理できるかといえばそうではないと思うので、そこからの秩序が乱れた後として、再び共産主義が唱えられてもおかしくないんじゃないかなと考えます。

一旦は大格差社会が生じて、そしてその後非常に反乱が起こって、その後で共産主義と、その後の共産主義というのは、結構、権力的な厳しそうな社会のようにイメージがありますね。

わかりました。もちろんこれは未来社会ですからハラリさんの前提そのものもどうかってのはですね、まあ単純には考えられませんけど、少なくてもここで大きくポイントになっているのですね、私たちの仕事のあり方っていうのが、今まで仕事をするっていうのは人間が仕事をするというのが大前提で、機械を使うってのはあくまで補助だったのです。ところがその補助だったそういう機械がむしろ人間そのものの仕事そのものも肩代わりする。あるいは人間そのものももしかしたら仕事を不要にするという、そのレベルにそろそろ21世紀になって立ちそうだというそういう可能性を語り始めたってことですね。これは結構非常に重要で、逆に言うと「機械が仕事してくれるんだったら、私たち仕事しなくていいんだったらこんないい社会ない」というふうに考えることも当然できるわけですね。その時にじゃあ私たちどうやって生きていくのかっていうのがちょっと大きい問題になるかもしれません。