平成29年度【第4回講座】西郷隆盛と徳の交わり~今に生きる西郷隆盛の真の思い~

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾

平成29年度講座内容

【第4回講座】西郷隆盛と徳の交わり

   ~今に生きる西郷隆盛の真の思い~

場所
出羽庄内国際村「国際村ホール」(山形県鶴岡市伊勢原町8-32)
放送予定日時
平成29年1月6日(土) 12:30~13:30 ホームドラマチャンネル
平成29年1月7日(日) 06:00~07:00 歌謡ポップスチャンネル

※以降随時放送
詳しい放送予定はこちら(ホームドラマチャンネル歌謡ポップスチャンネル)

講義内容

ナレーション:
みなさんは「南洲翁遺訓」を知っていますか?
西郷隆盛が語った政治論やリーダー論、人生訓など西郷の真意が集約された本です。

実は西郷隆盛は一冊も著書を残していません。この「南洲翁遺訓」は「論語」や「福音書」のように西郷が語った言葉を聞いた人々が、のちに、書き残したものなのです。そういう意味では“西郷隆盛の唯一の著書”と言って良いのかも知れません。

「敬天愛人」
「児孫のために美田を買わず」
「命もいらず、名もいらず」 など

珠玉のフレーズがつづられており、今の私達にとっても心に響くものがあるのではないでしょうか?

「南洲翁遺訓」は西郷隆盛の死後、庄内藩・中老の菅実秀(すげ・さねひで)によって編纂され、明治23年に刊行されました。
しかしなぜ、鹿児島から遠く離れた庄内で作られたのでしょうか?

南洲翁遺訓が生まれた故郷、鳥海山を北にのぞむ山形県鶴岡市。ここに南洲翁遺訓を編纂した菅実秀の屋敷があります。
玄孫の菅秀二(すげ・しゅうじ)さんは、南洲翁遺訓が作られた様子をいい伝えられてきました。

菅秀二氏:
西郷さんの本意、真意、そういったものを我々は世に伝えていくんだとそのためには命をささげようではないかということで、この部屋で修正、修正をしながら深夜までかかって作ったのです。

ナレーション:
西郷隆盛から贈られた書が、かけられた部屋で編纂され続けた南洲翁遺訓。
西郷隆盛の教えを広めたいという強い思いのもと、作られました。

菅秀二氏:
実秀は西郷さんと面談して自分と相通ずるものが非常に強くあったと。肝胆相照らすといいますか、人間が本来もっている部分での近づきなのではないかと思います。

ナレーション:
鹿児島市の西郷武屋敷跡にある「徳の交わり」と名付けられた銅像。
西郷隆盛と菅実秀(すげ・さねひで)が互いに親睦を深め「徳の交わり」を誓い合った事が記されています。
この西郷と菅実秀の「徳の交わり」が  南洲翁遺訓の刊行へつながったのです。

初版の序文にはこの書を記した人として旧庄内藩主の名前を筆頭に菅実秀ら多くの藩士の名があげられています。
庄内藩をあげて編纂し、広めたその理由はどこにあるのでしょうか?

きっかけは戊辰戦争でした。
旧幕府側の主力軍であった庄内藩は、徳川家の譜代大名でもあり、薩長両藩からおそれられた無敵の藩。しかし戦況は、旧幕府軍の諸藩が次々と降伏し、庄内藩もやむをえず、西郷率いる新政府軍に降伏します。

降伏謝罪の受け入れは庄内藩の藩校として知られる致道館で行われました。
かつて、庄内藩は江戸の薩摩藩邸焼き討ちを行ったこともあり、当然、厳しい処分を覚悟していましたが予想に反し、寛大なものでした。
しかも新政府軍の参謀は敗者を侮蔑する態度をとらず、当時16歳だった藩主の酒井忠篤に丁寧に接したといいます。

のちに、すべてが西郷隆盛の指示だった事が分かり、庄内の人々は深い感銘を受けました。
そして忠篤公は、西郷の薫陶をうけるため自ら鹿児島に赴き、軍事訓練などにも参加したといいます。
今も残る酒井氏の庭園。酒井家第18代当主酒井忠久さんが当時の忠篤公の思いを教えてくれました。

酒井忠久氏:
致道館で(戊辰戦争の)降伏の儀が行われましたけども、その時に非常に礼儀正しく、公明正大に行われた西郷南洲翁の処置に尊敬し、是非とも西郷さんから直接師事をしたいということで、忠篤公は70数名の藩士らを率いて鹿児島に行き3カ月ばかり(軍事)訓練をするわけですね。

俗に言いますけど、西郷さんは「大きくたたけば大きく響くし、小さくたたけば小さく響く」というふうにいろんな意味で懐の深い人だったと思います。
「まことの人」でもありましたし、安心していろんなことをご相談できたんじゃないかなと思います。忠篤公はそこを心から尊敬していたんではないかなと思いますね。

ナレーション:
忠篤公をはじめ、菅実秀ら、多くの庄内藩士が西郷隆盛の下で軍事、兵学、近代産業などを学び、西郷への敬愛が深まっていったのです。
特に、菅実秀との徳の交わりは西郷隆盛と庄内を深く結びつけていったといいます。

菅秀二氏:
実秀は西郷さんのことを自分の後輩や弟たちに話し続けて、庄内の西郷さんへの信頼はどんどん強まっていった。

ナレーション:
さらに、「徳の交わり」は戊辰戦争後の庄内藩の復興も支えるきっかけになっていたのです。
それは明治5年に、庄内藩士ら3000人が刀を鍬に持ち替えて行った開墾事業です。松の木がうっそうと生い茂る原生林を開墾し、桑畑に替えシルクの一大生産地として日本の産業を支えるまでになりました。
ここには、その藩士たちに贈られた西郷隆盛の言葉が今も大切に掲げられています。

山田鉄哉氏:
松ヶ岡では開墾以来「 気節凌霜天地知 (きせつ・りょうそう・てんち・しる)」というものが松ヶ岡の精神として、西郷先生から頂戴した言葉として、今も丁寧に若い人まで伝わっております。

ナレーション:
松ヶ岡開墾場の理事長の山田鉄哉さんによると西郷隆盛が贈った「気節凌霜天地知」という言葉は、開墾の苦労を労ったもので「その大変さを人に話さなくても天はちゃんと見ている」という意味があるといいます。

山田鉄哉氏:
西郷先生なくしてはこの松ヶ岡の開墾もうまくいかなかったんじゃないかなと思います。

ナレーション:
復興で励まされた多くの庄内藩士もまた、西郷隆盛を敬愛し、鹿児島と庄内という遠く離れた地で「徳の交わり」によって結ばれた絆が「南洲翁遺訓」を生んだのです。
この「南洲翁遺訓」への思いが元になってできた神社が山形県酒田市にあります。

水野貞吉氏:
この南洲神社は昭和51年にできました。この神社の御霊は、西郷南洲翁と地元の中老の地位にあった菅実秀の御霊を合祀した神社です。
なぜ、酒田にあるのかといいますと、長谷川信夫さんという荘内南洲会の前の理事長なのですが、その方が「南洲翁遺訓」を勉強していて、是非神社を作って、西郷先生と菅先生を御祀りしてのお参りがしたいと。
ここに長谷川先生のお屋敷もあったわけですので、それらを出していただいて、こういう風に神社ができた。

西郷先生の精神・考え方を全国に広めたのは「南洲翁遺訓」であり、その南洲翁遺訓を編纂し、発行した菅先生のお考えがもとになっているということで考えれば、庄内の果たした役割は大きいと思います。

ナレーション:
戊辰戦争で維新の英雄となり西南戦争で終焉を迎えた動乱の時期に心のつながりをもった庄内の人々。「南洲翁遺訓」に残した言葉はまさに当時の西郷隆盛の真の思いを受け継いでいるのです。

<西郷隆盛と『徳の交わり』シンポジウム>
酒井忠順氏:
みなさん、こんにちは。旧庄内藩酒井家19代酒井忠順(ただより)と申します。
ちょっと会場をあたためるために、質問してみたいと思います。3つ質問をさせていただきたいです。

挙手をお願いしたいのですが、「松ヶ岡開墾場」に行かれたことがある方、挙手をお願いいたします・・・大部分ですね。
2つ目の質問です、「南洲翁遺訓、読んだことがある方、挙手をお願いいたします。多くいらっしゃいますね。
最後の3つ目の質問ですが、西郷先生と菅先生の「徳の交わり」についてご存じである、私詳しいよという方、手を挙げてください。
というわけで会場がすっかり暖まりましたので、座らせて頂きます。

まずは会場の皆様の現況を把握したうえで、3名のパネラーの皆様からお話をいただきたいと思います。
では始めに、松ヶ岡開墾場理事長の山田鉄哉さん、松ヶ岡開墾場の概要・歴史ついてご説明をお願いいたします。

山田鉄哉氏:
松ヶ岡開墾場というのは、みなさんご承知のように3000人の侍が開墾した、というふうになっております。それらについて、戦後の昭和の開拓と同じだろうというような感じで解釈されているような方も多いと思います。
侍が刀を挿しては暮らしていけなくなって、山を開拓して、生活していくために頑張ったんだなという風に思われている向きもあるようです。それについては、若干修正してみなさんにはご承知おき願いたいです。

松ヶ岡は侍が生活のために開墾したというよりも、庄内藩の方針として開墾したということ。戊辰戦争で旧幕府側勢力が負けて、徳川幕府が大政奉還した。旧幕府側の主力であった庄内藩はその当時強かったという事もあって、戦争に負けたという意識がなかった。だけど、負けたことにしなくてはならないというようなことから気持ちがなかなか落ち着かなかったようです。
しかしながら、やはり時代は変わっていくんだろうということで。新政府に対して、天下の模範になるようなことをやって一泡吹かせてやろうというような、そんな思いで300町歩を開墾して絹産業を興したと。その当時の日本の外貨獲得の産業は絹とお茶だったそうで、その絹を取るために松ヶ岡では桑を植え、蚕を飼い、糸を取り、狭い鶴岡管内で反物までつくるというようなそういう努力までされた、現在もそういう風につながっております。

ナレーション:

庄内藩は戊辰戦争で敗北し、「賊軍」という国辱を受けました。当時の武士にとって、「賊名」を着せられる事は最大の恥でした。
そこで菅実秀は、国辱をそそごうと当時の主力産業であった養蚕業を庄内に起こし資金を稼ぎ、国の近代化に貢献しようと考えたのです。
この開墾については、西郷隆盛にも話し、心強い賛同を得ていました。

菅秀二氏:
敗戦後の庄内藩をどのようにもっていくか、実秀は西郷さんに問い、西郷さんはそれに答えた。そしてお互いに論じ合って、まずは失業するであろう庄内の武士団2500人。家族を入れるとその3倍ほどになる訳ですけども、その人たちの生活の場をどうにかしないといけないという事で、松ヶ岡の開墾を指向したということです。

ナレーション:
「国辱をそそぐため、国への貢献のため」と、寝食も忘れ、庄内藩士たちは懸命に開拓地を広げ、約300ヘクタールを2年たらずで開墾したのです。

山田鉄哉氏:
菅先生のこれから庄内をどうしていくのかという考え方と西郷先生の国をつくっていくという考えが一致していたようなことから、松ヶ岡はずいぶん西郷先生からは、俗な言葉で言えば「贔屓してもらった」そういう感じで過ごしてきたようです。

ただし、中央政府では侍達が絹をとるために3000人も集まって開墾したと、単純にそういう風にはみてくれていなくて、いつかまた侍の時代が来るのを待つために戦力を終結させているのではないかとか、そんなことでずいぶん疑いの目もあったように聞いております。

そんなことから、西南戦争が始まる2年前には大久保利通が松ヶ岡に視察に来たんですね。侍としての剣術のことをしているものやら、開墾しているものやら、半信半疑で来たと思います。
松ヶ岡開墾場には今も大きい蚕室が5棟ありますが、その当時、明治のその頃には10棟ありまして、それを見た大久保利通が「おおがかりじゃのう」と感心したようです。蚕を飼うために開墾し、蚕室を建て、頑張っているんだなという事で大久保利通から当時のお金で3000円頂戴したと記録に残っております。

ナレーション:
開墾後もたびたび偵察に来ていた新政府に異を唱えたのが西郷隆盛でした。
庄内藩の懸命の努力を訴え、謀反の疑いを晴らしてくれたといいます。

山田鉄哉氏:
西郷先生いればこそ、松ヶ岡の開墾も順調にきたのかなとそんな風に思われます。絹、蚕、糸、それらについては群馬県の島村(伊勢崎市)で蚕の飼い方、富岡で糸取りなどを学んだわけですけども。それも西郷先生からあそこにいってみなさいと紹介があったということで、今もありがたく感じております。

そんなことで、今でも松ヶ岡では「南洲翁遺訓」は定期的に子供たちに教えているわけですが、お祭りとか、運動会とか、そんなときの夏のTシャツの背中に「凌霜」と書いて、お母さん方、お父さん方、子供も凌霜っていうTシャツ来てちょろちょろして運動会で騒いでいる感じで、松ヶ岡の結束を他の集落に見せている…そんな感じであります。これからも「気節凌霜天地知」の考え方と言うものは、子供達、孫たちにも伝えていきたいなと考えております。

ナレーション:
代々受け継がれる西郷への敬愛の思い。この松ヶ岡地区ではほとんどの家に、西郷隆盛の肖像画があり、西郷隆盛をいかに大切に思っているかが分かります。

酒井忠順:
次は旧庄内藩中老・菅実秀玄孫、菅秀二さまに庄内の民風、庄内人の気質についてお話をいただきたいと思います。」

菅秀二:
東北人は一般的に辛抱強い、粘り強い、そして頑固であると。良きにつけ悪しきにつけそういったことが言われておるわけでございます。それにプラスして庄内人は江戸時代、元和8年以降でありますが、酒井忠勝公の入部以降、従来の東北人気質にいわゆる三河気質が加味されているではないかというふうに思います。三河気質と言うのは、酒井家初代忠次公が家康の面倒を見ながら日々生き残るための努力をしたと、その中で優先すべき目標に向かって地域全体で、士農工商という身分制度を乗り越えてひとつの意識を共有しひとつのまとまった活動のできる風土があったのではないかなとそういう風に思います。

この幕末から明治以降の部分で、そういった気質が出ている部分を例として、3件ほどあげてみたいと思います。
一つは天保11年の「三方領地替え阻止運動」でございます。庄内の地域全体で農民、商人そして僧侶、それぞれにリーダーシップを持って、本来ならばやってはいけない徳川幕府への直訴をやって、これが天保11年11月に発令されますけども、翌年の7月に転封が中止されたわけでございます。老中・水野忠邦天保の改革の最中だったわけですけれども、これによって失脚しまして、天保の改革は失敗だったと。これがまず第一の例でございます。

その後、慶応4年戊辰戦争が始まるわけでございますが、その時の庄内兵の総兵員は4520名ということでございました。この中には農民・商人も含まれ、決して侍だけが戦った戊辰戦争ではなかった。そして連戦連勝の中での降伏謝罪になったと。これがまずまとまった部分の第2番目でございます。

そして、その後3番目の理由となりますが、明治3年、先ほど山田さんの方からお話がありましたように開墾事業をやると。当然士族のみならず、開墾でございますので農民の方の技術、道具の支援、商人の方からは資金援助、あるいは物資の援助と言うものがなされてはじめて、短期間でこのような開拓が成功したということがございます。

このように地域全体で団結してその時々の課題を前向きに解決していく風土と、それ以外にもう一つ言えることは、元和8年以降、庄内の藩士は酒井家であったわけで、その酒井家の歴代の藩主の善政にあるのではないかと思います。歴代の酒井藩主は地域に密着し、領地・領民を大切にし、また致道館と言う藩校に置いても身分制度を越えた領民の入学が可能であったと。そして個性重視、各人の能力、やる気を育成したと。庄内藩もまさに知行合一をめざした藩でございます。そういったものの表れが現代に至っているということで庄内人の気質といわれるものではないかなと言う風に考えている次第でございます。

Q.庄内人の気質に大いに影響したという藩校・致道館での教育。その教育方針とは?
酒井忠久氏
藩校・致道館は9代目酒井忠徳(ただあり)の時に創建されまして、その時に徂徠学というのを主導して入れたわけですけども、それは個性の伸長と自発学習の推進ということがもっぱらでした。だから、自ら学びとらないと全く付け焼刃だということで、先生も教え過ぎにならないようにし、出来るだけ自ら学ぶようにするという教育方針だったみたいですね。それから得手不得手人はあるから長所を伸ばすようにという教育方針もありました。

自発教育ということで、句読所(小学校)、それから終日詰(中学校)以上になりますと、全部お互いに議論し合いながらする“会業”という、今でいうゼミナールと言う制度ですね、
それから先輩たちが後輩に教えるということもありましたし、藩士(侍)の学校だったけれども有為な人材には、士分の身分をつけて入学を許可して、その人たちは地域に戻ったらそこで塾を開いて、先生たちもそれを手伝うという事をやっていた。
そういった意味でゼミナール形式みたいなそれは(薩摩の郷中教育に)似ているんじゃないかなと思います。

酒井忠順氏:
次は公益財団法人荘内南洲会理事長水野貞吉先生、西郷先生の教えを庄内で継承しているご縁について。南洲翁遺訓についてよろしくお願いいたします。

水野貞吉氏:
明治3年から8年までの間に、忠篤公をはじめ、旧藩士の方々が鹿児島に行って、軍事・兵学を学び、近代産業を学び、そして西郷先生からいろんな教えを学びました。明治3年には忠篤公と藩士76名、そして明治8年には、菅先生を先頭に8名が鹿児島へ行きました。

鶴岡から歩いて東京まで行き、東京からその当時桜木町まで鉄道が通っていた、そういうことでその間は汽車で行った。同行したひとの表現では「その早きこと、鳥の如く」という表現でつづられております。そして汽車を降りてからはまた歩いて大阪までいって、大阪から神戸、神戸からは船で長崎まで行って、長崎から熊本までも船、最後に熊本からは歩いて鹿児島にいった。「千里を遠しとせず」という古語があるわけですけども、当時の庄内の人の「学ぼう」「教えをいただきたい」そういう強い気持ちの表れが、はるか遠いところまで歩いてでも行って、是非教えを学びたい、この意気込みが感じられるわけです。
菅先生一行は2月28日に鶴岡を出発して5月17日に鹿児島に着いたと。途中、東京で1ヵ月滞在しておりますが、実際に歩いたり、船に乗っている日数として50日もかけて鹿児島まで行ったんですね。

そしてこれは菅先生が言われている事ですけれども、向こうに行って西郷先生から教えを学ぶには、自分の心を白紙にして教えを受けるという“態度”が大事だと。ちゃんと正座して前に手をついて西郷先生からの教えを受ける、こういうことまで言われております。そういう風に西郷先生からの教えを学んだ人はそれだけ自分のものになったのではないかと感じております。
そういう風な庄内と西郷先生の交流があって、“心の交わり”“道の交わり”、それが今「徳の交わり」と言う表現になっているのだと思います。

この会場に「徳の交わり像」をご覧になった方いると思います。荘内南洲会の境内にありますが、同じものが鹿児島にもあります。
庄内の像が建立されたのは平成13年の9月で、鹿児島の像は平成3年の年に出来ております。庄内では(鹿児島の)10年後にできたということです。

ナレーション:
酒田の南洲神社にある「徳の交わり像」は鹿児島の西郷武屋敷跡と同じものが建立されています。この「徳の交わり像」は、荘内南洲会の創始者長谷川信夫さんの遺志を継いで、鹿児島より10年あとに建てられました。

水野貞吉氏:
長谷川先生は中学校2年生(旧制)の時に南洲翁遺訓に出会って、その後、私費で南洲翁遺訓、当時岩波文庫から出ていた「西郷南洲遺訓」という小冊子を無償で配布して、なんとか多くの人に南洲翁遺訓を広めたいと活動をされた方でございます。

ナレーション:
南洲神社に併設された南洲会館には長谷川さんが私費で収集した数々の貴重な資料とともに庄内藩士が書いた西郷隆盛の肖像画があります。
この肖像画には庄内藩士の並々ならぬ思いが隠されていたのです。

酒井忠順氏:
では最後ですが、菅秀二先生に西郷先生と庄内藩士とのご縁、「徳の交わり」についてお伺いしたいと思います。

秀二氏:
はい、それでは私の方から西郷さんとのいろんな交流、あるいは薩摩のどんな人と話しあったか、等々について簡単にお話申し上げたいと思います。

まず、西郷さんと菅実秀が最初に面謁(めんえつ)したのが、明治4年の4月でございます。場所は江戸でございます。

「一見果たしてこの人なりと。交情日に厚く、実秀の西郷を敬すること兄の如く、西郷の実秀に親しむこと弟の如し」

と言うような最初に会った時の実秀の感じを隣で見ておりました赤沢と言う方が「臥牛先生行状」という本で、述べております。これから私が話することは、この赤沢さんの「臥牛先生行状」あるいは、加藤景重さんの「臥牛先生遺教」という大変難解な書籍なんですけども、それから拾ったものとして皆様にお伝え申し上げたいなと思います。

まず最初に会った日の感じがこういうことでございました。「実秀は熱烈に気迫を持って今後の進むべき庄内の道・日本の道を問い、西郷はそれに応え論じ合った。西郷の理想とする国家社会は道徳的なものに基礎を置き、文明・文化があまねく行われる世界であり、絶えず進歩・進化する政治を志向した。」ということでございました。

明治4年の4月から9月の末までの間、それから先ほど話がありましたように明治8年の5月17日から6月12日までの間、これが特に西郷さんとマンツーマンで会って、いろんな教えを請い、議論されたということです。
期間的にもそれからお会いした時期につきましても非常に微妙な時代背景の時でございました。

実秀は当然、鶴岡の致道館で勉強しておったわけですけども、実秀自身も、西郷さんと会う前から、いわゆる庄内を「徳治国家の国にしたい」と思っていたわけであります。実秀のいう「徳治国家」と、西郷さんのいう、「道徳的なものを基礎にした文明論、あるいは政治」というものが全く合致したということでございまして、お互いにこの部分については「肝胆相照らす仲」であったということがこの徳の交わりのきっかけになっているところでございます。

一方当時の明治政府ですが、岩倉、大久保、伊藤、大隈、井上、そういった方々は、有司専制の「警察国家」あるいは「密偵国家」と言われるようなそういったようなものを基礎に日本を強国にしていこうという時代だった。こういうようなことで、西郷さんのお考えあるいは実秀の考えと言うのは明治国家からは非常にうさんさく見られたことでございます。それがさきほどの開墾の時の態度が露骨に分かる部分でございます。

それからちょっと雑談みたいなものに入りますけども、明治4年の、西郷さんとのあるいは薩摩の方々との面談の場所でございますが、これは庄内藩の御用米問屋、越後屋喜左衛門という米問屋が庄内の江戸屋敷に出入りしているわけですけども、それを実秀はいろんな意味で男臭いというか侠気のある商人だということで、面倒をみておったらしいのですが、その人を4月に会って間もなく、西郷さんに紹介するんですね、そして西郷さんもこの人の気性を大変気に入りまして、それ以降明治4年から下野される明治6年の9月ごろまで西郷さんの家計の一切は、この越後屋喜左衛門がみていたんです。

そしてこの越後屋喜左衛門の向島の別宅、小梅村にあるその別宅で鹿児島藩士の人達と庄内藩士の人達は面談をしていた、論じ合っていたということでございます。実秀は明治4年の9月の末に庄内に帰るとき、最後の送別会もこの場で西郷さんが主催でやってくださいまして、その時、いただいた詩と言うのが、落款もない詩でございます。“西郷隆永拝”とあり、小文字の楷書の漢詩でございますけれどもその送別会の場で、気張った格好の詩ではなくて、西郷さんの別れを惜しむ切々たる気持ちを、我々でいうボールペンのように、小筆を使って楷書で書いてくれたというような漢詩が残っておるわけでございます。

ナレーション
こちらが西郷隆永と本名で書かれた非常に珍しい書です。
「菅先生の帰郷を送り奉る(おくりたてまつる)」とあり、明治4年の4月に江戸で初めて会い、9月に帰郷する菅実秀との別れを惜しんで贈られました。

菅修二氏:
「菅実秀は西郷さんの勲業、実績、そしてその名声等に目を奪われずに、西郷その人の真髄に迫り、そこに打ち込んでいた数少ない人間のひとりであったろう」と臥牛先生遺教のほうには、そのようになっております。実秀が庄内の人々に対して、伝えた西郷像の根底になっていると思われる文章がございますので、お読みいたします。

「南洲翁は偉大な徳量と卓越した力量を兼ね備えた賢人であって、権力や謀略を持って一世を圧倒する人達とは本質を異にする人物である。また人は南洲翁の功業の盛んなことを賛美しているが、自分はそれとは違う。先生の気韻の高尚なること、そして克己の学を堅忍・力行されていることを仰慕するものである」というふうに臥牛先生遺教には載っております。実秀は西郷さんの評をこのように考えておったと、そしてこの深い根っこ、この深い根を基盤として鹿児島と庄内は結ばれていったわけでございます。
明治政府、当局者たちは、極めて低い次元でこうゆう仲を誤解し、疑惑したと。それが形に現れるのは征韓論、遣韓論、そして西南戦争における政府の正当性を一般国民に押し付け、死せる西郷さんを誹謗し、庄内を疑惑化していったと、こういう経緯でございます。

ナレーション:
西郷隆盛と庄内の交流は明治10年の西南戦争が起こるまで続いていました。

菅秀二氏:
西南戦争が起こりました。2月ごろ、2/15に鹿児島を出発されるわけですが、3月ごろにはそういう情報が庄内にも入ります。その時に松ヶ岡の開墾場の若手の侍達、お城の中にいる侍達も西郷さんに当然同調して一緒に立とうという意識の人がほとんどでございました。そして実秀も自分の心のどこかには一緒に立てたらいいなと、今こそ立つべき時期なのかもしれないということを感じながらも、但し、西郷さんが自分の本意から立たれたのであれば、自分には必ず連絡があるはずだと。明治8年に実秀が武村(鹿児島市)の西郷さんを訪ねて行ってかなり深いところ、今後の日本をどうするか、日本政府をどうするかというような、深いところまで二人で話し合ったと言われております。その内容ははっきり書面では残っておりませんけども、そういうような関係で明治10年の2・3月、自分には何の連絡もないから、これは西郷さんの本意からきたものではなくて、私学生徒に対する情の部分で自分の体を預けたのだろうということを、後々、西郷さんの真理が明らかにされる以前に感じとっていたということです。

ナレーション:
そして西南戦争で明治10年、命を落とした西郷隆盛。
庄内では、その死を悼んで命日にはしのぶ会を開いていました。
そして、明治22年に逆徒の汚名が解かれたのを機に、西郷さんの本意を今こそ伝えたいということで南洲翁遺訓の編纂が始まりました。

菅秀二氏:
賊を解かれた今こそ、明らかにすべきだと、西郷さんの本意を世の中に知らしめようということで、それまで、明治10年までの間に、実秀を始め、庄内の人達はいろんな方が西郷さんにお会いしていますし、西郷さんを支持している鹿児島の村田新八、桐野利明、篠原国幹とかいろんな形で交流していたわけで、そういったものをまとめたものが南洲翁遺訓となった。明治22年の2月から早速スタートしまして、12月ごろまでで編集し終わるわけですね。何度も何度もこの部屋で修正をしながら深夜までかかって作ったと。出来上がったところで、副島種臣の序文をお願いして、2月には印刷が終了しておりました。

ナレーション:
南洲翁遺訓の初版は東京・築地で印刷されたといいますが、菅家には手書きの原稿が残っていました。一文字一文字心を込めて丁寧に書かれています。
南洲翁遺訓が刊行されると、酒井忠篤の指示で旧庄内藩士が全国に配布し、広めたといいます。

菅秀二氏:
鹿児島の人から良く言われることが、「なんで南洲翁遺訓は鹿児島でなくて、庄内で作ったんだ?」と。今後も言われると思いますけども、それは今言ったように戊辰戦争があって寛大な処置をいただいて、その処置を指示したのが西郷さんだったというところからのつながりでございます。そして、西郷さんの真の姿、真の考えを最大限に、それなりにといいますか、学び取ってそれを文章化したのが南洲翁遺訓だという風な説明をなされてもいいのではないかなと言う風に考えている次第でございます。

ナレーション:
そして南洲翁遺訓とほぼ同時期、恩赦を機に計画がたった東京・上野の西郷隆盛の銅像。忠篤公は銅像建立の発起人のひとりにもなりました。
庄内からもたくさんの寄付が寄せられ建立資金の6分の1を賄いました。

致道博物館の中には、庄内藩と西郷隆盛の関わりをとく展示コーナーがあります。
ここに飾られた肖像画にも庄内の人ならではの西郷さんへの敬愛の念を感じるエピソードが隠れていました。

酒井忠久氏:
西郷さんが西南戦争で亡くなってから、庄内は西郷さんへの恩義をずっと感じていまして、西郷さんと菅さんを偲ぶ会を今でもずっとやってます。だけどもご存知のように西郷さんは写真が嫌いで写真がなかった、像がなかった。やっぱりお祀りするにも肖像画が必要だということで、石川静正と言う庄内藩士が思い立って、西郷さんの肖像画を描くわけです。ところがプロの画家ではないので、周りの西郷さんのところに行った同僚たちに全部聞いて回って、西郷さんに似ているかとみんなに聞いて確かめて、西郷さんと似ているということになったんだけども、そこでも、庄内の人らしいところは、それでも満足できなくて、わざわざ東京まで行って西郷さんの未亡人や大山さん、樺山さんとか錚々たるメンバーに全部聞いて回るんですね。西郷さんに似てるかどうかというのを。そして樺山資紀さんから黒田清輝さんを紹介されて、黒田清輝さんに本格的な肖像画を描いてもらえないかとお願いをして、黒田清輝さんから肖像画の得意なお弟子さんの佐藤均さんを紹介してもらって、佐藤均さんに立派な肖像画を描いてもらった。つまり石川静正さんが描いた絵を元にして佐藤均さんが西郷さんを描いた。今年も来年も西郷さんを偲ぶ会をやりますけども、その時は佐藤均さんの肖像画をかけて、礼拝しております。
今の我々には分からないほど、計り知れないほど思いが強かったんじゃないでしょうか。

酒井忠順氏:
当時の方々も思ったとは思うんですけども、もし戊辰戦争のあと、西郷隆盛さんが政権の中枢にずっといて、活躍されて、遣韓論でも下野せずにずっと明治政府にいて下さったら、こうはなっていなかったかもしれない。ただ、松ヶ岡開墾も含めて南洲翁遺訓も生まれなかったかもしれない。歴史的なことを考えて、非常に感激と言うか感動を覚えました。
本日はありがとうございました。そしてパネラーの皆様もありがとうございました。会場の皆さんもありがとうございました。

Q.あなたにとって西郷さんとは?

山田鉄哉氏:
器の大きいところ。こせこせしないというか、やはり西郷先生みたいになりたいもんだなとそういう風に思ってます。

水野貞吉氏:
「大きい人」。大きいという意味は、仁とか、慈しみの心をとかそういったことを徹底した方ですので、そういう人間の大きさということにひかれている。

菅秀二氏:
私の西郷さん像というのはある面で政治家です。軍人でもあります。そしてそれ以外に宗教的な部分、あるいは哲学的な部分、そこまでの広さを持った方だろうと思います。

酒井忠久氏:
西郷さんがいなかったらたぶん私もここにいないだろうし、庄内がどうなっていたか、今とは全然違う形になっていたと思います。そういった意味で大恩人であろうと思いますし、やっぱり「真の人」であろうし、懐の深い人、ゆったりとした人であったろうと思います。

ナレーション:
戊辰戦争後の出会いから150年。
庄内の人々に敬愛され、全国に広められた西郷隆盛の真の思い。
西郷が明治維新で果たした役割の根底には、今の私達が教訓にすべき熱い思いが込められているのではないでしょうか?