2023年度【第3回講座】「インドの古代哲学と仏教思想の現代的意義を考える」

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾

2023年度 第3回講座内容

【第3回講座】「インドの古代哲学と仏教思想の現代的意義を考える」

 
ダルマの思想とサステナビリティ

 

講師

丸井 浩先生(インド哲学研究者・東京大学名誉教授)

 

◆放送予定日時 

・ホームドラマチャンネル

ダルマの思想とサステナビリティ 2023年12月16日(土)12:30~13:00

対立あるいは二者択一を超える思考法(前編) 2023年12月16日(土)13:00~13:30

対立あるいは二者択一を超える思考法(後編) 2023年11月23日(土)12:30~13:00

・歌謡ポップスチャンネル

ダルマの思想とサステナビリティ 2023年12月3日(日)06:00~06:30

対立あるいは二者択一を超える思考法(前編) 2023年12月3日(日)06:30~07:00

対立あるいは二者択一を超える思考法(後編) 2023年12月10日(日)06:00~06:30

 

※以降随時放送

 

               スカパー!のホームドラマチャンネル、歌謡ポップスチャンネルにて放送を予定しております。

 

 

             
 
●テーマを基に、丸井 浩先生(東京大学名誉教授)の講義の模様を放送致します。
 

 
 

講義内容

 

インドの古代哲学と仏教思想の現代的意義を考える

~ダルマの思想とサステナビリティ~

 

<オープニング・コメント>

今回は皆さんにとってあまりなじみがないと思われる古代インド思想と仏教思想を取り上げ、特に今の私たちが生きている時代にとって重要と思われるような特徴的な考え方、思想をご紹介したいと思います。聞いている皆さんにとって、一つでも心に届くようなお話ができればと願っております。

お話の柱は二つございまして、一つはダルマという考え方、もう一つは対立するものを一つにまとめる。二つを一つにという考え方であります。

 

丸井と申します。インド哲学を研究しております。人に「何がご専門ですか」と聞かれて「インド哲学です」と言うと、「ああ、すごいですね」という返答を戴くことが多いですが、その後の話が続きません。インド哲学については、一般にほとんど具体的な内容が知られていないからだと思います。

皆さんもインド哲学、あるいは仏教思想についてはあまり馴染みがなかったと思いますので、今日はそういうところからお話しをさせていただきますが、主な関心事はインド哲学あるいは仏教思想が、現代の問題、今、私たちが生きている中でどういう意味を持つのか、これが狙いです。

それでは「インドの古代哲学と仏教思想の現代的意義を考える」というテーマの第1部としまして「ダルマの思想とサステナビリティ」から始めたいと思います。

 

インドの古代哲学からSDを考える キーワードは「ダルマ」

SDとかSDGsとか、これは流行り言葉なので皆さん何度も聞いていると思います。「サステナブル・ディベロップメント(sustainable development)」は「持続可能な開発」と訳されているものですが、この考え方を仏教思想、あるいは古代インドのバラモン教思想、これは仏教成立以前からあって、仏教の成立よりも何百年も前からある古いインドの宗教でが、このバラモン教思想に照らしつつ考えるということで、キーワードは「ダルマ」です。

皆さんは置物の「達磨さん」でダルマという言葉になじみがあると思いますが、これは固有名詞です。インドから禅を伝えたというインドのお坊さんが達磨と言われているのですが、その元になっているダルマという言葉。これはインドの場合どちらとも言えないんですが、宗教、哲学、仏教を含めて最大のキーワードがダルマと言われているものです。キーワードですからたくさんの意味があって一言で言うことは非常に難しいのです。

主だったダルマの意味を挙げても法、法則、理法、真理、存在の基盤、正義、善、慣習、功徳とか、こういったものがたくさんあって「宗教」という言葉もダルマで表現できるんですが、そういう多様な意味を持つダルマの中で一応、二つの系統に分けて考えていきたいと思います。

一つは「秩序」あるいは「理法」と言います。「理法」という言葉は皆さん、あまりお聞きになっていないかもしれませんが一種の真理です。「存在の基盤」だとか「法則」だとか、そういう意味もダルマに含まれます。

これが第一の系統で、第二の系統が、「務め」「規範」「正義」や「善」なども含めて「なすべきこと」という意味の系列です。

ただダルマというのはこの二つの系統が一体になっている。秩序と規範とが一体になっている。ここが非常に肝心なところです。これが今日お話をする中心なんですが、ダルマという言葉の根底には動詞があって、その動詞は「支える」とか「維持する」という動詞が元にあります。そこからできている名詞ですが、サステナビリティーのサステナブル(Sustainable)というのもサステイン(sustain)、「支える」「維持する」という動詞から派生しています。これは偶然の一致なんでしょうが、元になっている動詞の意味が共通しているという、言葉の上でも何らかの関係があるという中で、最初にバラモン教のダルマ観を見たいと思います。

 

バラモン教のダルマ観

バラモン教というのは仏教興起以前、少なくとも700年くらい前からある宗教で、『ヴェーダ』という宗教聖典があります。このヴェーダというのは何かというと、人に「なすべきこと」を説く。このなすべきことを「務め(ダルマ)」と言っています。そのダルマを実践して人は願い事を達成する、という考え方が根底にありました。つまり古代の宗教というのは、何らかの意味で人の願望、欲望を満たすための一つの手段ともなっていたのです。

現在で言えば科学技術がそのような役割を果たしているものなのでしょうが、古代の人たちは何らかの宗教的な行いを通じて、願望を果たそうとしている側面がありました。そのような宗教的な行いがバラモン教の場合には、なすべきこと、ダルマでした。

ではダルマの中核は何か、なすべきことの中核は何かというと、神々に供物を捧げること、これが一番の中心的な行為になります。

神々に供物を捧げる、お供え物をあげる。その神々というのは古代の宗教の場合にはたくさんの神々が自然界にいて、太陽の神様とか、風の神様とか、雨の神様とか、それぞれの神様に捧げ物をあげる。

ちなみにそのような捧げ物をするという言葉を「ホーマ」と言って、これは仏教で「護摩を焚く」と言いますが、この護摩の元がホーマです。音を漢字で写した音写語ですが、「護摩を焚く」というのが古いインドのバラモン教の言葉からきているんです。

 

自然界の秩序と、秩序に適った人間の務めが一体的に捉えられている

整理しますと、ダルマというのは宇宙・自然界の秩序・理法であり、さらにその理法に適った人間のお務めもダルマと呼ぶということで、秩序と規範が一体的になっています。神々も実はその務め、つまり太陽の神様であれば太陽の規則的な運行を守ることが務め、あるいはそれが誓いになるということです。

何がダルマか、何が務めか、何が秩序かというのはインドのバラモン教の場合にはヴェーダ聖典の言葉が根拠になっています。つまりバラモン教を信奉している人々でなければ、具体的なダルマの内容を受け入れることはできない、そういう土着性があるわけですが、ただ、このダルマの考え方自体が非常に面白いので注目していただきたいと思います。

『マヌ法典』というのは我々にとっての法律に当たるものですが、インド(厳密にはヒンドゥー教の伝統が根強い地域)の場合には人間が作った法ではなくて予め定まっているもの。元を正せば神様の言葉になっていくわけですが、この『マヌ法典』には有名な言葉があります。「ダルマは人を守る、人がダルマを守るならば」といって、ダルマは世界や社会の秩序であると同時に、その秩序に適った務めを私たちが果たす限り、私たちを守ってくれるということです。お供え物の話をしましたが、バラモン教というのは神々にお供えをする。お供えは人間にとって願い事をかなえる手段であると同時に、神様にとってはそれを戴かないと自分の力を維持できないということでもあります。神様と人間とは相互に依存し合う関係になっているわけですが、しかしダルマを中心にしてこれを考えていくと、こうなります。ダルマというものが私たちを守ってくれます。でも、私たちがダルマに適った務めを果たさなければ守ってくれないという形で、人間とダルマ(理法・務め)が相互に依存し合っているという関係が見て取れるということです。

 

「持続可能な開発」という考え方の由来と系譜

このようなダルマの思想が、SD(「サステナブル・ディベロップメント」)とやはり密接に関係があるというところを見ていきたいと思います。

まずサステナブルの意味ですが、一つは「長期間にわたって続けられる、維持できる、持続可能な、持ちこたえられる、耐え得る」、それからもっと限定的には「環境を破壊せずに持続可能な」という意味合いがあります。一方、ディベロップメントというのは「開発」とか「発展」とかあるいは「成長」です。

サステナブル・ディベロップメントの言葉が生まれる歴史があって、元を正すと今から50年程前にローマクラブが『成長の限界』を発表した段階では、経済成長と環境保護はプラスマイナスゼロと考えられていました。経済成長を優先すると環境は保全できない。環境保護をしようと思ったら経済成長を抑えざるを得ない。こういう非常に深刻なレポートが50年前に発表されたんですが、その後15年経った1987年、ブルントラント委員会の時には持続可能な開発・発展、「サステナブル・ディベロップメント」という言葉が国際的に認知され始めました。それは「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」ということです。 

これを打ち出したのが1987年。経済成長と環境保護はゼロサム関係ではなくて両立可能であるということで、15年経って大きな発想の転換が来て現在に至っています。その5年後にはリオデジャネイロで地球サミットと一般に称されている国際会議が開かれ、ここでいわゆるSDが、国際的な人類の行動計画の中の重要な目標として掲げられましたが、この時12歳の少女セヴァン・スズキの衝撃的な演説がありました。これは皆さんも学校で習っていると思いますが、改めてこの言葉をあとで確認したいと思います。

 

セヴァン・スズキの衝撃的な演説

現在でもそうですが、ヨーロッパで記録的な熱波があったり、あるいはイラク戦争で環境を破壊するような劣悪な爆弾がまかれたり、それから気候問題。いわゆるパリ協定が2015年に結ばれている中で、現在も国際的に深刻な戦争が起こっていて、果たして2030年に目標が達成できるのか分かりませんが、とりあえずこのセヴァン・スズキの演説を一部だけ読ませていただきます。

「今日の私の話には、ウラもオモテもありません。なぜって、私が環境運動をしているのは、私自身の未来のため。自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとはわけがちがうんですから。私がここに立って話をしているのは、未来に生きる子どもたちのためです。世界中の飢えに苦しむ子どもたちのためです。そして、もう行くところもなく、死に絶たえようとしている無数の動物たちのためです。

オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか。そして、今や砂漠となってしまった場所に、どうやって緑の森をよみがえらせるのか、あなたは知らないでしょう。どうやって直すのかわからないものをこわしつづけるのはもうやめてください。

もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えば、この地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけど、そのことを知っています。学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたたち大人は私たち子どもに世の中でどうふるまうかを教えてくれます。

たとえば、争いをしないこと 話し合いで解決すること 他人を尊重すること ちらかしたら自分で片づけること ほかの生き物をむやみに傷つけないこと わかちあうこと そして欲ばらないこと。

ならばなぜ、あなたたちは、私たちにするなということをしているんですか。みなさんはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めているんです。

父はいつも私に不言実行、つまり、なにをいうかではなく、なにをするかでその人の値うちが決まる、といいます。しかし、あなたたち大人がやっていることのせいで、私たちは泣いています。

あなたたちはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、いわせてください。もしそのことばが本当なら、どうか、ほんとうだということを行動でしめしてください」

非常に痛烈な言葉ですね。今でも彼女の言葉、訴えは強く私たちの心に響くわけです。

 

バラモン教のダルマ観から、SD、SDGsを考えると

次に17の目標(SDを実現するために地球規模で達成すべき17のゴール=SDGs)です。全体を5つのPに分ける分類法があります。People、Prosperity、Planet、Peace、Partnershipというように17の目標を整理していますが、日本の最古の憲法である十七条憲法と比較するとだいぶ違います。十七条憲法というのは、むしろ我々が守るべき基本的な考え方、倫理・道徳の柱を示すものであって、その代表が「和を以て尊しとなす」という言葉です。他方、SDGsの17目標の中にはそういう思想的、倫理的、道徳的な響きはほとんど入っていません。

では、こうしたSD、SDGsと、先ほどご紹介したバラモン教のダルマの思想をつなげるとどんなことが言えるのかというと、SDとは「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」のことです。

SDを実現するためには、地球資源、地球環境の保全と両立するような開発が絶対条件として必要です。地球環境は私たち人類の成長の基盤そのもので、どれほど科学技術が発達したとしてもその事実は変わらないでしょう。地球を脱出しない限り地球環境というのは我々の成長の基盤そのものです。

地球環境を守り、自然界からの恵みを受け続けるために、私たち人類の側がなさなければならない行動規範があるという事実は変わらないはずです。これが地球環境とか環境倫理と言われているもので、こういう言葉が生まれるということは、従来の倫理観に収まりきらない問題が科学技術の発達によって浮上したということですが、これは割と西洋中心の考え方なんです。つまりキリスト教というベースがあって、それが中世以降の西洋世界の倫理、道徳の基礎をなしていたわけですが、科学技術の発達によってキリスト教的な倫理が当てはまりにくい問題領域があれこれと浮上するようになり、新たな環境倫理や地球倫理が必要になったということです。

古代人が我々と違うのは、高度な技術が発達していなかった彼らの時代は自然環境の変化に左右される度合いが非常に強かったということです。今よりもはるかに自然に対する依存が強かった。しかしその分、自然環境を守ることの大切さをより肌感覚で自覚していて、何らかの意味で持続可能な環境保全につながる思想・文化・生活様式、インドでいうと宗教ですが、それを保持していたのではないかということから、バラモン教のダルマの思想、世界の秩序と人間は互いに支え合う関係であるということが言えます。

 

仏教のダルマ観 縁起思想と心の制御

次に仏教の話に入りましょう。仏教も実はダルマと関係が深いんです。

仏教の開祖はブッダ、より厳密にはゴータマ・ブッダ(あるいは釈尊などとも)と言いますが、そもそも「ブッダ」というのは「目覚めた方」という意味です。では何に目覚めた方かというと「ダルマに目覚めた方」ということで、目覚めたダルマは一般に「真理」とか、少し難しい言葉で「理法」と訳しています。

それでは仏教のダルマとSDGsとはどのようにリンクするのかということです。

仏教のダルマ(仏法)というのはブッダが覚った内容であり、それを説き示す仏教(仏の教え)全体を表す言葉にもなりますから、それが何かということは一言では言えませんし、多様な見解がありえますので、これを一つの結論に絞ることは難しいです。したがって今は議論を単純化したいと思います。

仏法とSDGsとの関係は、今後、諸方面で盛んに議論されるべき重要課題ですが、今はさしあたり仏法、つまりブッダが目覚め説き示した真理を、その核心的な位置を占める「縁起」という理法と、自己中心的な欲望からの解放を目指す「心の制御」という仏道の二つを基点として、ごく簡単な考察をスケッチするにとどめたいと思います。

 

仏教の縁起思想と環境問題

「縁起」という言葉は、縁起が良いとか悪いとか日常の中に定着していますが、元々は仏教の最も重要な、仏教で説くところの真理に相当するものです。仏教は絶対の神というものを立てませんが、その代わりにこの縁起の理法というものがあります。

どんな考え方かといいますと、すべてのもの・ことは必ず相応のそれなりの原因、それもたくさんの原因がある。一つや二つじゃない。この原因になるものは非常に広くて、例えば邪魔しないものまで原因であるというふうにして、どんなに些細なもの・ことでも、ある意味で全てのものが関わっていると言ってもいいわけですが、相応の原因があって起こるものであり、またすべての存在は他のもの・ことに依存してあるという考え方のことを「縁起」と言っています。

裏を返せば、原因もなく他の何かに依存しない独立自存のものはこの世にはないということです。つまり仏教では万物を創造した全知全能の神は認めません。しかしこの世界で起こる出来事、これを「器世間」と言い、「世間」というのも仏教用語です。漢字の言葉というのは仏教起源のものがたくさんあって気づかないだけですが、器としての世間、それから人間を含むその中で生きる生類、これを「有情世間」と言います。有情というのは命あるものです。

器世間にせよ有情世間にせよ決して偶然の所産ではなく、いずれも相応の原因があり、他のもの・ことに依存してあると仏教では考えるわけですが、この意味での「世間」というのが、今で言うと環境に相当します。広い意味での環境で、なぜ今のこのような地球環境があるのかというと、それには必ず原因がある。これからこの地球環境がどうなっていくのかにも原因がある。その原因の中に私たちの行いが関わっているということなので、私たちの行い次第で世界、環境は変わっていく。他方、私たちのあり方も、とりまく環境のあり方に左右されるということも、縁起の考え方から導き出されますから、世界と私たちは相互に依存し合い、影響を及ぼし合いながら絶えず変化し続ける、ということになります。今日の環境問題を考える上で、このように仏教思想の中心をなす縁起という概念は、非常に重要な役割を果たす可能性があると言えます。

 

心の制御とSDGs

もう一つは「心の制御」です。

縁起の教説はさまざまな形で仏教の実践道やその背景となるものの見方、考え方の思想的基盤となっています。しかし、では私たちは何をなすべきか、どのように生きるべきかについて具体的な方向付けをするのは縁起思想ではなく、「心の制御」の重要性を説く考え方ではないかと思われます。

仏教の実践道の大きな特徴の一つは自己中心的な欲望、貪り、怒りなどの煩悩と言われているものからの解放をはかる「心の制御」です。これは「心の統一」とか「心を浄める」という表現も使われていますし、「心」の代わりに「自分」とか「自己」、「自己を整えよ」というような言葉で表現される場合もありますが、仏教とはどのような宗教なのかといえば、心をコントロールする、心を制御する宗教だと一般に言われています。

SDGsに掲げられた17の目標を実現するためには、何らかの意味で個々人のライフスタイルを転換することが求められています。自己中心の欲望を満たすためにひたすら物的な繁栄を求めることをよしとする価値観は曲がり角に来ているかもしれません。

ライフスタイルを転換するためには意識の転換が求められ、この意識の転換へと導く実践道が仏教では「心の制御」などと呼ばれているのです。

 

開発・成長という観念の見直し ─「下に成長する」

「持続可能な開発」(sustainable development) の「開発」あるいは「発展」「成長」などとも訳せる言葉「ディベロップメント」について、SDという問題が浮上し始めた当初は、ディベロップメントって何だ、「発展」とか「成長」って何だという議論がありましたが、その後、国際的に多様な価値観がせめぎ合う中で考え方を一つに絞ることは難しいということもあったのでしょう。現在では経済的な成長、開発という意味にかなり一本化されてしまっていますが、やはり成長、発展、ディベロップメントとは何かということをもっと考えるべきかもしれません。何らかの意味で全地球規模での大きな転換が不可欠だとすると、開発、成長とは何かについてもっと議論を行い、意識を高めていく必要があるのではないでしょうか。

最後は付け足しですが、ゴータマ・ブッダが覚ったのは大木の下で、それを菩提樹と言っています。その後バンヤンという木に移っていくのですが、このバンヤンという木が面白いのです。

これはワイキキにあるバンヤン樹ですが、広がった枝から下に伸びているのは根っこです。気根と言います。このバンヤン樹はインドの古い言葉(サンスクリット語)で「ニャグローダ」と言います。「下に成長するもの」という意味です。枝を張った後は下へ根を張っていって下に成長するからです。

成長と言えば上へ上へという方向をイメージするのが一般的かもしれませんが、しかしバンヤン樹は下に成長することで、自らを支える基盤である土壌へと帰ってきます。そして基盤へと帰流ことによって、さらなる成長を遂げます。これを現代の環境問題に当てはめて考えるならば、人類の繁栄を支えてくれた地球環境に私たちなりの「気根を下ろす」ことが求められているのかもしれません。

そして私たち人類にとって、「気根を下ろす」とは基盤をなす地球環境の尊さを改めて認識し、その認識を全地球的に深め合うことではないかということです。

これまで、ダルマの話から現代の環境問題へつなげてどのようなことが言えるのかについて、古代インドの宗教と仏教のお話で皆さんに考えていただきたいと思って話題を提供いたしました。

 

 

<質疑応答>

 

(学生)

私自身、あまりダルマについて詳しくないのですが、バラモン教のダルマにおいてもSDGsと同じように持続可能な環境保全につながるような生活様式や人などがあるとおっしゃっていましたが、現代に生きる私たちにも生かせるようなものが何かあればご教示いただきたいと思います。

 

(丸井)

科学技術が発達した現代において、古代の宗教思想をそのまま当てはめるということはやはりギャップがあると思います。

ただ、我々が何を失ってきているのかという環境との関係性を取り戻す上で、古代人の発想に戻って我々の不足しているものを補っていくということになると思います。

その時に、例えば環境というものを我々がどのようにイメージするのか。都会に行くとビルの谷間です。この人工環境をどう捉え直していくかという発想は古代人にはない発想だと思いますが、でも結局、人工物にしても元をたどれば物質なわけです。ですから、やはり元は一つです。それに手が加わって人工環境ができているあけですが、しかしそれも環境の一種であるという中で、その人工環境といかに共生し合うのかという点は応用問題としてあるのではないかと思います。

 

(学生)

今日のお話では現代のSDGsを仏教、あるいは更にもっと古い歴史、バラモン教などのダルマという観点から見直した内容だと思いますが、SDGsの各目標がただのお題目になっているのではないかという問題もあると思います。それについてはどのようなお考えでしょうか。

 

(丸井)

コロナが4年前に大きな国際問題となって、世界はすぐに反応しました。でも気候変動についてのアクションはコロナに比べると対照的です。つまり環境問題というのをなかなか身近に感じることができずにいます。

一方においては自分の命が危ないかもしれない、おじいちゃんおばあちゃんの命が危ないかもしれないといった命の危機に対して我々は敏感に反応します。

しかしコロナで全人類が破滅することはないかもしれないし、今までの人類の歴史の中で疫病が起こって人口がガタっと減ったということもありましたが、それも医療の発達によって人命は随分救われるようになってきたわけです。

コロナはいわばチャレンジングな病気ですが、それでも地球はもしかしたら気候問題の方が、海面が上がるみたいなこちらの方が壊滅的かもしれないのに危機感が持てないでいるというこの現状が、自分も含めて何とかしなければいけない、つまり意識を変えていかなければいけないと思います。

確かに気候変動はいよいよ深刻な問題にはなってきつつありますが、それでもなお科学者の中には「いや、あれは政治的な背景があるんだ」というような、いまだに科学としての一つの結論が出ていないという、この辺りに非常に複雑な感じを持っています。

答えにはなっていないかもしれませんが、本当に命の危機に、何か身近でないと感じているものについては反応が鈍いと思います。