平成24年度特別講座:福岡編~サービス産業の経営者・・・~

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾
岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾 平成24年度シリーズ

講師
岩崎 芳太郎(「政経マネジメント塾)」塾長)
放送予定日時
平成25年3月30日(土) 6:00~7:00他 ※以降随時放送

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岩崎 芳太郎

「政経マネジメント塾」塾長

1953年 鹿児島県生まれ 慶應義塾大学経済学部卒業
2002年 岩崎産業株式会社代表取締役社長
2012年 岩崎育英文化財団理事長
現在 いわさきグループ50数社のCEOとして、運輸・観光・製造など幅広く事業を展開
著書:「地方を殺すのは誰か」(PHP研究所)等

講義内容

岩崎:
会社の規模は、今は3,000人。鹿児島で交通業とか観光業とかいろいろやっていて、九州の中では規模的には大きい会社です。けれど会社としては典型的な負け組の会社です。でも、ある種負け組の会社の経営者の話というのは、勝ち組の経営者の話よりも、ある意味参考になる部分が非常にあるかと思うので、その意味ではそういう目線でいろいろなお話をさせていただきたいと思います。

その負け組の経営者として、まずちょっと不遜なことを申し上げますけれども。例えばバブルが終わって、市場原理主義、その思想的な背景は――お分かりにならない方は後で勉強していただければ――リバタリアニズムという一つの思想があって、それが市場原理主義を生んで、そしてそれがいわゆる新自由主義経済、いわゆる大きな政府じゃなくて小さな政府みたいなことで、彼らが一番強調したのがグローバルスタンダードということです。その裏にはアメリカがいて、日米構造協議の中で規制緩和、いろんなことが小さな政府を要求されてということで。どちらかというと、それでどんどん苦しい立場で商売をしないといけなくなったのが、地方のわれわれみたいな会社だった。一番象徴的なのは、九州においては、オーナー系のバス会社というのが結構多かったわけですけれども、宮崎交通さんもつぶれましたし、九州産交もつぶれましたし、長崎では西肥自動車も、大分では大分バスもつぶれた。ホテルでいくと別府の杉乃井とか。そういう形で、どちらかというと戦後、地方の経済を発展させた、もしくは地方のインフラ事業をやってきた会社というのは、銀行からお金が借りられなくなって――皆さんお分かりのように、どちらかというとキャッシュフロー主義みたいな形で、逆に言えば、規制はどんどんするので、そういう許認可みたいなのが権益にならないということで――どんどんつぶれていったほうの会社です。

ただし、今からちょっと不遜なことを申し上げますけれども、そのなかの一応負け組で、負け切ってないという意味では、私は、経営首班が勝ち組の経営者にそんなに劣っているとは決して思ってはおりません。たまたまそういう会社のオーナー経営者の三代目として生まれたので、悪い環境の中でそれなりに努力をして、今日現在はなんとか会社を支えきっています。

ただ、いまなぜこんな話を申し上げたかといいますと、その私が実は今いろんな意味で悩んでいるというか、自分の会社の経営にかなり悲観的です。どちらかというと負けていった会社が多いなかで、残ったほんとに少ない会社の、そしてそこのオーナー経営者ですから、かなりの自信はあるのですけれども、いま申し上げたように、その私がどちらかというとすごく悲観的な気持ちで、今の日本の経済状況なりわれわれが置かれている環境を思っています。一般的によく言われることですけれども、経営者というのは長期的にはオプティミスティックに、楽観的に、短期的には悲観的にというスタンスで経営に当たったほうがいいと言われておりますので、性格的にだいたいそういう性格の人が経営者に向いています。逆に今日本は、いろんな意味で長期的に、私は悲観的な材料が非常に多いのではないかと思います。そのなかで一番嫌なのは、日本人が劣化しているのではないかというふうに思っているわけです。ひょっとしたらわが社の社員だけなのかもしれませんけれども、たぶんそんなことはないという前提で、「日本人が」と申し上げています。それを経営の面から見ると「人的資源の劣化」というふうに表現できるのではないかと思いますけれども、そこのところをお話ししていきたいと思います。

お話をするために簡単に分かりやすくしますと、3つ劣化しているのではないかと。一つがモラルの劣化、低下といいますか。2番目が意欲の低下。3番目が能力の低下。これは非常に私の私見ですけれども、わが社の社員だけなのかどうなのか。会社で会議をしていてもろくな会議ができない社員が多すぎます。それから情報の共有化というか、コミュニケーション、その能力も非常に落ちてきているように思います。それはたぶん推測するに、一つはよく言われることですけれども、日本の戦後教育が非常に、そういう意味では人材育成に関してどこか欠陥があったのではないかというふうに私は考えています。

こういう講演でよく言うことなのですけれども、ちょっと別な視点からお話ししますと。私はよく言うのですけれども、「秀才は良くない」と言うのです。秀才というのは、人より秀でているということを言っているだけです。今の日本においてはでは能力をどうやって比べるかというと、ほとんどペーパーテストで比べているわけです。いわゆる世に言う偏差値で計っているという意味でいくと、偏差値が高い、そしていい大学を受けるという意味でいくと、そういう人が優秀と言われますけれども、優秀な人イコール必ずしも有能とは限らないというのが私の持論です。

当然皆さんも受験をされていますね。受験の心得の1番目に出てくることが、受験でまず100点を取ろうと思って、すべての教科で100点を取ろうと思う方はいないわけです。限られた時間内で一定の点を取ればいいから、くれぐれも言われることは、できない問題はするなと。そして時間が余ったら、できたところの問題の答え合わせをしなさい、と言われるわけです。すなわち、われわれはある錯覚をしていて、ペーパーテストでいい点を取って、そしていい大学に行って、いい教育を受けてというところに関しては、一つは見方として問題はないのですけれども、その人たちが本当に有能かどうかということに関して言えば、逆にテストの点で計っているという意味では、テストの点を高く取るスキルに関して有能な人を取っているだけです。そしてその人たちは、本人が望んでいるわけではないけれども、できる問題しかしないという習性がついているわけです。ところが今われわれは、特に日本は、できない問題をなにがしかのもので解決していかなければいけない。今風のコンピューター用語で言うと「ソリューション」とか言いますけど、そういう意味においては、さっきも言ったように、韓国もそういう側面がありますけれども、基本的には偏差値教育的な知識偏重型の教育をすると、それを刷り込まれて、志望校の過去問なり志望校の出題傾向の問題だけやって、いざ紙を置けば、できる問題だけ解いていって、人よりもいい点を取ったら「優秀」と言われる。

それ以上にもう一つの問題は、ペーパーテストには全部正解があるわけで、正解がない出題をした出題者はペナルティを食うわけですから。ところが実際は、われわれ経営の世界もそうですけれども、正解というものはないわけです。今のブレーンストーミングというか、このタイプのあれにしますけれど、小さい時からそうやって想像力とか、コミュニケーション能力とか、議論する癖だとか、そういうのはどちらかというと日本は小学校とか中学校で全然やってきてなくて、ただこっちに先生がいて、こっちに生徒がいて、授業が終われば塾に行って、これもだいたい何とか中学校に入るためにはこういう問題を何とか法で解きなさいとやっているわけで。やっぱりアングロサクソンとかユダヤ人とか、そういう人たちは小さい時からそっちをやっている。

日本人は、昔は違ったと僕は思います。やっぱり戦後の日本人という教育をしていると、どうしても知識偏重になっていると、外国でいろんな交渉をしたり、国際会議に行ったりみたいな話になると、――TPPなんかにしても、もともと最初の仕掛けられているところから、彼らは戦略的に、ストラテジックにやっていますけれども、日本自体はきわめて表層的に、TPPがいいのか悪いのか、みたいな議論しかしないわけです――そうしたら絶対そういうのは勝てないと思います。内部的にも、そういう会社からほんとに強い会社になれるかというと、私はすごく疑問に思うところがあります。

皆さん、ちょっと偉そうに言うと、お気づきになってないと思うのですけれども、ちょっと悪い表現を使うと、日本人ってアタマ悪くなっていますよ。なぜかというと、一つは、PCの中にExcelが入っています。データというか情報を、キーボードを叩いて無思考でそこの中に入れると、叩けば何でも出てくるわけです。でも情報というのは、われわれアナログの世界で生きているわけですから、その情報を捉えたときに、まず自分で解釈して、そしてその情報を自分の頭の中で位置付けて、そしてどこかに体系的にしまわないと自分のものとして使えないというふうに私は思います。人間はアナログだから。

だからわれわれ、私もそうですけれども、今単語をひくときも、携帯でもグーグルへでもドーンと入れればバッと出てきます。しかも今のパソコンは、10万円のパソコンが、10年、20年前は億単位ぐらいのメモリをして、CPUの能力も、という機械ですから。そういう意味では能力というものが日本人というのは劣化しているし、劣化した結果、外国との競争の時代なのにもかかわらず競争劣位になってきているのではないのかと。そして怖いのは、われわれは白人コンプレックスがあるから、いま「アングロサクソンやユダヤ人」と言ったときに、あまり皆さん感じないと思いますけれども、逆に日本人というのは黄色人種のなかで唯一植民地化されなかったみたいな思い上がりがあるから、アジアの国の中で妙に選民意識みたいなものがあるから、まだ中国や韓国やタイみたいなところに勝っているみたいな錯覚があって。はっきり言えば、いろんな書き物などでいろんな議論が全部、日本はまだ進んでいるみたいな、まだわれわれは抜かれてないみたいな話をしていますけれども、一人あたりの国民所得は抜かれてなくても、ほかが抜かれてないのかどうなのかは、私ははなはだ疑問だと思っています。

それから、全部つながることなのですけれども、意欲の低下。見方によっては、能力の低下というのは、ある日意欲の低下が是正されれば自立的に上がっていくものです。一番怖いのは意欲の低下だと思います。別の意味でモラルの低下も非常に深刻な問題だと思うのですけれども。

『学問のすゝめ』という本があります。福澤諭吉先生が書いた本です。よく私は1万円を見せて、「この人、何した人か知ってるか」と聞くと、意外と知らないのです。なぜ福澤諭吉が1万円に載るぐらいの人なのかというのは、人それぞれ違うのですけれども、一応私は福澤先生のつくった学校を出た人間ですので、私なりに福澤先生の教えは実践しているつもりなのですけれども。「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ」なのだけれども、現実の社会には貴賤もあるし、富んでいる人も貧しい人もいるし、差があるじゃないかと。それはなぜというと、学問をやって、努力して、向上心を持っていた人と、何もしなくてサボっていた人がいたら、差がつくのが世の中ですよと。だから皆さんちゃんと学問をして、より向上心を持って、レベルの上の人間になりなさいということを書いた。だから『学問のすゝめ』という本は、「天は人の上に人を造らず」というフレーズから始まっていて、「学問のすゝめ」というのはなんとなく変だと思われるのはそういうことなのです。

この『学問のすゝめ』というのは、本で出たのではなくて、「三田」何とかに連載で出たのをまとめたものですけれども、明治4年に出ています。そして当時だいたい100万部ぐらい売れたと言われています。その明治4年に同じく100万部出た本があります。『西国立志編』という本です。それは訳本(中村正直・訳)でして、サミュエル・スマイルズというイギリス人(会場から「スコットランド人」の声あり)――僕が「イギリス人」とオーストラリアで言ったら、「スコットランド人」らしいですけれど――が出した『SELF HELP』何とか、日本語に訳せば「自助論」という本です。これは、2~3年前に東大名誉教授の竹内均さんが再度訳されて出した本で、これも有名なフレーズで、「天は自ら助くる者を助く」という文章から始まるわけです。両方とも、自助とか向上心とかそういう一人ひとりの心持ちが、この国自体を近代国家にして、欧米に負けない国にするのだから、みんなそうやってちゃんとそういうふうな自我を育てていきましょうという本を、一人は自分なりの言葉で書いて、一人はそういう本を訳した。

生活保護者の受給が何百億だ、なんだっていろいろ問題になっていたりしますけれども、今度もいろいろな見方はありますけれども――消費税がなぜ上がったかみたいな話ですと、社会保障みたいなものは大衆受けしますから、いわゆる厚生経済というのは、どちらかというと今、民主主義というのは「最大多数の最大幸福」というのを是として、それが基本ですから、多数決でという意味では――どちらかというと日本人が自助心を忘れる、もしくは向上心を忘れる方向に振れているような気がしているのです。一応、わが社の事業理念の1番目は「自助自立」ということを謳っているのですけれども、実際はなかなか中央と地方の格差がついていて、地方の経済自体がいわゆる分配構造の中に組み込まれていて、なかなかそれが変えられない日本ですから、いくらわが社が単独で、観光だとかそういう、鹿児島県から見れば外貨稼ぎを中心とした自助型の事業をしても、やはりなかなか本当の意味で自助はできないという苦しみはあります。ただまあなんとかやってきているなかで、私が先ほどからぼやきみたいなことを申し上げていますけれども、オーナー経営者として一緒に頑張っている社員の中で、追々、「うちの会社の旗印は自助だぞ」と言うのに、悪い今の日本の一部みたいな社員もだいぶ増えてきたな、みたいな感じを受けています。そういう意味でも、さっき言ったように、今からどうやったらいいのか、大変だなという思いは非常にしています。

最後が、モラルの低下です。いわゆるモラルハザードみたいな話はこの10年ぐらいずっと言われています。このあいだご存知のように東北で地震があったときに、世界中から、日本の政治家はダメだけど、日本の国民は立派で、あのときもよく頑張ったね、みたいなふうに言われた。やっぱり日本の国民はすごいね、と国内でも言われています。たしかにそういう意味では、日本人というのはまだまだ捨てたものじゃないのかもしれませんけれども、わが社だけなのかもしれませんけれど、私はいまいち、私が昔の日本人にある幻想を抱いているのかもしれませんけど、道徳心というか倫理観というものが低下しているような感じがします。

今年のわが社の年頭の訓辞は、「こころで考えろ、今年は」というのが私の念頭の訓辞です。独断と偏見で申し上げれば、日本の強みというのは、日本人の強みというのは、正直と誠実と勤勉だったのではないのかと思っています。独断と偏見です、これは。

最近はあまり言わないのですけれども、数年前によく、入社した人間や内定者に「ジョージ・ワシントンと桜の木を知ってるか」と聞いていたことがあります。意外と知らないのです。アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンは、子どもの頃にいたずらして桜の木の枝を切った。あとで、「これを切ったのは誰だ」と言われたら、正直に「僕です」と言ったと。すなわちアメリカ合衆国大統領、アメリカ合衆国のトップになるべき人間の資質の中に「正直」というのは重要な資質ですよ、というのを教えるためにできた、嘘かほんとかは知りませんけど、そういう逸話で、われわれ子どもの頃はちゃんとほとんど全員習っているわけです。私はよく言うのですけれども、どちらかというと正直よりも、何とかちゃん、なんであなたはそんなに要領が悪いの、もっと要領良くしなさいよ、何とかちゃんは要領いいじゃないの、と親が言う時代です。そういう意味では僕はすごく心配です。

それから誠実。ちょっとニュアンスは違うかもしれませんけれど、太宰治の『走れメロス』ってあるじゃないですか。あれも、戻ってきたら自分は死刑になるのを、妹か何かの結婚式に出るために友人をとりあえず人質においていって、最後はちゃんと戻ってきた、みたいな話です。具体的にああだこうだ挙げられませんけれども、これも、誠実よりもあとの言い訳が上手なやつのほうがいいみたいな世の中になりつつあるのではないかと。

そして勤勉。これに関してはいろんな見方があるのだと思いますけれども、少なくとも一時われわれは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といったときに、働くことは「悪い」とまでは言わないですけれども、働き過ぎだ、みたいな話で。国も週40時間とか。働くのが好きだからいっぱい働きたいみたいな話でも、そしてこっちも「そういう人にはいっぱいお金を払うから働いてよ」というのも、逆に言えば違法行為で罰するみたいな、国としてそっちに振っているわけです。僕もそこまで分析してないのですけれど、勤勉ということは発展・反映にとっては当然で、先ほどの別なモラルとも絡んでいるのですけれども、岩崎丸を3,000人で漕いでいるときに、そのうちの100人でもオールを漕がなければ、それ以上にオールを漕がないで中に浸けられていたら、当然抵抗になるわけですから、スピードが落ちるほうになるわけです。そういう意味では日本は……。

これは、ひとつは危機感とか現状での日本の豊かさだとかそういうものとリンクする話なのかもしれませんけれども、そういうのは抜きに「働くことは善行なんですよ」みたいな雰囲気が今ないところに、僕は一つの心配を感じるのです。働くことを上位の価値観に置くというのが、少し日本は弱くなっているような感じがします。もちろんいまだに一生懸命頑張っていて、それは素晴らしいことだと言いながら、さっき申し上げたように、要領の悪いやつという解釈があり、上手に立ち回っているやつのほうが賢いみたいなところもちょっとあるじゃないですか。私が申し上げているのはそんな部分です。

日本の企業は日本人を基本的に雇用するわけです。そうすると企業が、小学生からその人を育てているわけじゃなくて、逆に言えば日本国のインフラとしての人材づくり、いわゆる日本国の教育システム、教育制度、そして教育のレベルが、われわれからするとわが社の社員のレベルになってくるわけです。もちろんいい会社はいいほうを採れますし、うちみたいな、鹿児島で、あまり給料を出せないところはそんなにいい人は採れないのかもしれませんけれども、それでもお給料だけじゃなくて、いろいろわが社の理念とかでそれなりに優秀な人も入ってきてもらうわけですから。でも日本の全員のマスが下に下がっている、いろんな意味で。能力的にも、倫理的にも、意欲的にも下がっている。日本の企業自体が全部そのレベルから人を採ったら、その上に上積みするところは自分でしなければいけないわけです。このコストというのは、たぶん今から日本の企業は異常な勢いで負担していくのではないかと僕は思います。東京の大企業、例えば輸出していて儲かっている企業は、そのコストを負担しきるでしょうけど、わが社みたいに鹿児島の企業で、収益もそんな上がってないところが、日本人の全体のマスの、人材としてのレベルが落ちているときに、わが社がわが社だけでも競争優位性をどうやって確保するかといったときに、よく考えると非常に悲観的だというふうに思います。

もう一つ、今日、皆さん経営者および経営者予備軍として来られているので、どうしても申し上げておきたいことがあるわけです。こういう本がありまして。結構前の本です。これはいろんな経済学者があって、私はよく例に取るのですけれど、シュンペーターという人がいます。シュンペーターという人は、資本主義が発展していくと逆に革新性をなくして、社会主義的な経済になって、逆に言えば資本主義は没落しているということを言っています。すなわち、そういう革新的な、前向きな形で取り組んでいく、起業をどんどんやっていくような会社が勝っていって、後ろ向きの会社が負けていって、そしてその会社はどんどん大きくなります。大きくなった組織というのは、どうしても運営は専門家、官僚化された専門家が専門的に効率的にやっていくわけです。でも組織の肥大化ということになると、松下幸之助時代の松下と今のパナソニックがそうであるように、早川何とか(早川徳次)さんの、シャープを作ったときとつぶれかけたときのシャープであるように、やっぱりそれが世の常です。そういう意味ではいま日本的な社会構造もひっくるめて、日本というのは、シュンペーターが予想した、ある種資本主義が進んでいくことによって、巨大な、官僚化された専門家がする大企業、そして逆にそれは望むとは別に、一つの世の中の節理としてそういう起業家意識というか創業意識みたいな、アントレプラナーみたいなものを逆に言えば駄目にしていくみたいな、そういう世の中に少し入ってきているのではないのか。という意味では、どういう表現が適切かどうか、ぜひ皆さんは頑張って、日本が駄目になっていくのを食い止めていくのは、やっぱり一人ひとりここいらっしゃるアントレプラナー、いわゆる起業家、もしくは小資本家という人たちが頑張ることだと。なかなか経済学的に見れば、小資本が大資本と互角に戦うというのは難しいことですけれども、だからこそここのこれが「知恵の場」というように、知恵で、アイデアで戦う、そして意欲で戦うみたいなことが一つは重要なのではないかと。

イメージは悪いのですけれど、戦前の日本教育の中では「修身」という科目があったわけです。辞書でひきますと、天皇への忠誠心の涵養と、孝行、従順、勤勉などの徳目を教育する科目。明治政府からずっとやられてきたわけです。戦争に負けてマッカーサーの統治下になって、修身が天皇への忠誠心の涵養というところが引っかかったから、修身はなくなったのですけれども、悲しいかな、後半の孝行、従順はどうか分かりませんけれど、勤勉などの徳目を教育するものが……。私の頃は「道徳」というのがありましたけれども、今はたしか道徳はないんじゃないですか。だから親孝行みたいなのはたぶん習わないのだと思うのですけれども、僕は知りません。こっちがなくなったのが、さっき言った、ひとつ日本の弱みになっていったのではないのか。

最近、また気づいて、私がちょっと凝っていることがあります。儒学には朱子学と陽明学というのがあるのです。で、日本の漢学として採用されたのが朱子学です。で、陽明学というのは亜流になったのですけれども、一説に言われることは、明治維新の幕末の志士はほとんど精神的に朱子学ではなくて陽明学を、ひとつの心の中の価値観に置いていたということらしいです。朱子学と陽明学がどう違うかとみたいな話は端折ります。ご興味のある方は勉強してください。

一つだけ、陽明学のほうに私は関心があるのですけれども、陽明学のいくつか有名なフレーズがあるわけですけれども、究極は「知行合一」、知ることと行動することは一致させないといけないですよ、と。朱子学的なのは、逆に知識を究める、まずは勉強ばかり一生懸命しろ、みたいなイメージです。西郷さんも陽明学を勉強していたという説がありますし、吉田松陰は間違いなく陽明学を学んでいたと私は理解しています。そしていろいろあるのですけれど、私からすると地方負け組の経営者でここまで頑張ってきたなかで、ここからどうやって反転攻勢しようかといったときに、周りの環境はまだ十分ハンディばかり背負っているなと思うなかで、やはり私自身もそうですけれども社員にも、「知行合一」じゃないですけど、自分の知っていることを、知っている、で終わらせるのではなく、行動するし、行動することによってまたそこから、今風に言えばフィードバックがあることによって自分の知というものがレベルアップする、その相乗効果でしょうと。

それともう一つ、日本が規制緩和と言いながら、実際は、規制はこの十何年でガンガンに増えているわけです。何かあると規制緩和と書くマスコミが大騒ぎするから、国もどんどんしていて、どっちかというと規制緩和どころか、そうやって縛られていくわけです。

どっちかというと性悪説なのです、それは。ある政治家が何か悪いことをしたから、誰かが悪いことをしたからといって、全員がそうしないようにといって新しい法律をつくるとか。性善説、性悪説、どっちを取るかみたいな議論とは別に、陽明学の基本は、われわれはまず生まれながらにして良心というものがあるじゃないのかと。よく分からないですけれども、いじめの話なども、全員がほんとにいじめを能動的にしていたかというと、分からないですよ、報道とか分析的な部分を見ていると、みんな嫌だと思いながらも、いじめないと自分がいじめられるみたいな言い訳をしています。

私は少なくとも、生まれつきの悪人もいるのかもしれませんけれど、基本的には生まれついて良心があるという意味では、今年の年頭訓辞は「心で考えろ」と。まだ2月で、年頭訓辞、心で考えろといったわりには、毎日社員に「おまえは心で考えてない」といって怒っていますけど(笑)。そのときにどう言うかというと、「心で考えろ」というあまりにも抽象的な言い方ですから、どうやって怒るかというと、「おまえ、右手を左胸に当てろ」と。「胸に手を当てて考えろ」とよく言いますね、皆さん。そうすると、「じゃあそれどう思うか」と言ったら、「はい、わかりました」ってウソでも言いますよ、社員は(笑)。ここだけでソロバンを弾くのではなくて、ここに手を当てて、もっと大きなところでものを考えて、かつ動く。「できない理由を言うな」とよく言うんです。そしてこれもよく言うのですけど、「キミは本当に、できない、もしくは言い訳を考えるのは天才だな」と。

最近、日本人は、言い訳とか、なぜ先に行かないかみたいな話のほうに関して知恵が発達して、そしてもう一つは、今日はそっちのほうはあまりお話ししませんでしたけれども、マニュアルというか、いつの間にかマニュアル社会になっています、日本は。マニュアルというのはアメリカから始まったもので、どちらかというと日本は、マニュアルがいらないぐらい日本人一人がレベルの高い国だったわけです。そしてアメリカは文盲率も高くて、ちょっと人種差別的な発言ですけれども、プエルトリカンとか、ヒスパニック系とか、黒人とか、彼らが教育的に差別を受けていたこともあって、そういう意味ではマニュアルを展開しないとシステマティックな経営ができなかったという意味では、マニュアルというのは決してポジティブな経営手法ではないわけです。日本人は、逆に今よく言われる、経産省あたりがどこまで突っ込んでやっているのか知らないですけれども、今日本が一番恐れているのは、日本が戦後何十年か蓄積した「暗黙知」というのが異常な勢いで消失していることです。

例えば家電商品で、あっという間に中国勢に追いつかれて、追い抜かれたみたいな話も、団塊の世代とか、日本の会社にポイとされた人たちが、技術者のプライドがあって、しかも三顧の礼をもって中国とか韓国の企業に迎え入れられて、彼らがあっちで自分たちの持っている暗黙知をそういう工場で全部やっていったから、あっという間に抜かれているわけです。

そして少子高齢化で、今そういう人たちがどんどん定年退職していく。そしてその人たちはマニュアルがあったわけじゃないです。アメリカに追いつけ、追い越せとか、アメリカの商品を買ってきて、隠れて分解して。私は三井物産のニューヨークにいたのですけれども、私がいる頃じゃないです、もっともっと前、冨士フィルムは、三井物産のオフィスに借りているゼロックスのコピーマシンを夜中に分解して勉強したそうです。そんなことをしているわけでしょ。逆に私が1980年にアメリカに赴任した最初、いきなりスパイ事件です。FBIのおとり捜査で、日立とかNECの人たちが全部捕まって、最後は司法取引です。圧倒的優位のIBMのメインフレーマーの、何とかという世界を席巻している機種のOSか何かをパクって云々みたいな話です。それは推測ですけど、新日鉄の人も、何とか化学の人も、全部現場でいろんなことをしながら、高炉を何度に上げればどうやってと、全部気づいてきたわけです。そんなのはマニュアルがなかったわけじゃないですか。かなり日本というのはそういう意味では冒されているのかなと思います。

マニュアルも整備されてない会社としてはあまり偉そうなことは言えないのですけれども、でもマニュアルだけでは済まない業種が多いもので。ホテルだって、ホスピタリティ云々みたいな議論が、おもてなしとか、日本は多いのですけれども、僕は正直言ってあまりその言葉を出して会議室で会議するのは好きじゃないです。やっぱり究極は、さっきからずっと申し上げているように、うちのホテルでいけば、うちのホテルの従業員の最後、彼の人間性、彼女の人間性、その教育をどうできるのか、みたいな。そのスキルの部分は別です。そこまで行ってないのであまり偉そうなことは言えないのですけれども、と思っています。

最後に、これもまた話が飛びますけれども、私の父が去年亡くなりまして。お別れの会で私が「父を偲んで」と書いた一文のところを。私の父は実存主義者だったのです。大正14年生まれで。皆さん実存主義というのがどういうものか、分からない方もいらっしゃるでしょうし、ご存知の方もいらっしゃると思います。結構実存主義というのは、いろんな観念的な哲学は分かりやすいのですが、フニャフニャしていてよく分からないところがあるのですけれども。ちょっと最後読みます。

サルトルは、人間は自分が選択したわけでもないのに、気づいたときはすでに常に状況に拘束されている。しかしこれを常に自分が状況によって拘束されていると見なすべきではないとし、人は自分がどのようにありたいのか、またどのようにあるべきかを思い描き、目標や未来像を描いて実現に向けて行動する自由を持っている。自己が主体的に状況の存在に関わり、内側から引き受けなおすことができる。このようにして現にある状況から自己を解放し、新たな状況のうちに自己を拘束することをアンガージュマンと論じている。

サルトルの奥さんというか彼女はボーヴォワールというのですか、彼女は女性ですけど、「女として生まれたんじゃなくて、女になるんだ、ひとは」と彼女が言っているように、皆さんも経営者として生まれたというか、経営者に自由な意志でなるんだ、みたいな意識が。先ほどの起業家としての意識も、状況に拘束されるのではなくて、自分の意志としてそういう状況に能動的に関わっていくという意識はいろんな意味で非常に大切なのではないかと思いますし、私自身はそういうふうに心がけているつもりです。できればわが社の社員も全員そういう、経営者ではないですけれども、わが社の社員であることを能動的に状況と捉えるような社員にしたいなというふうには考えています。

あまり結論のないお話でしたけれども、一応これで私のお話は終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。