平成23年度特別講座:青森編~インターナショナルからインターローカルへ~

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾
岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾 平成23年度シリーズ

【特別講座:青森編】地方経済復権の要諦
~インターナショナルからインターローカルへ~

開催日
平成23年11月18日(金)14:00~15:30
講師
岩崎 芳太郎(岩崎育英奨学会 副理事長 兼 「政経マネジメント塾」塾長)
場所
青森県(ホテル青森「善知鳥の間」(青森市堤町1-1-23))
放送予定日時
平成23年12月24日(土) 12:30~13:30 ※以降随時放送

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岩崎 芳太郎

「政経マネジメント塾」塾長

1953年 鹿児島県生まれ 慶應義塾大学経済学部卒業
1995年 岩崎育英奨学会副理事長
2002年 岩崎産業株式会社代表取締役社長
現在 いわさきグループ50数社のCEOとして、運輸・観光・製造など幅広く事業を展開

著書:「地方を殺すのは誰か」(PHP研究所)等

講義内容

皆さん、こんにちは。岩崎でございます。わが社はあまりいい会社概要を持っておりませんので、今の司会の方のご説明で少し分からなかったところもあるかもしれませんので、簡単にわが社がどういうことをしているかを最初に申し上げたいと思います。

今、従業員数が3,000人ぐらいで、バス会社、ホテル関係の事業、ガソリンスタンドなどの油を売る事業、あとは船会社を経営しております。船でいきますと、ジェットホイルという高速船があるのですけど、これを種子島、屋久島に走らせたり、あと青森に似ていますけれど、鹿児島も大隅半島と薩摩半島で県が分断されていますので、両方を結ぶフェリー会社もしております。あといろいろなことをやっておりまして、ちょっとやりすぎという感じがしております。

7~8年前まで5,000人ぐらいおりましたけど、皆さんご存じのように、今は東京一極集中のなかで、どんどん地方が疲弊してきています。私としては、会社をなんとか持ちこたえさせることが大切だと考えて、社内的には縮小均衡ということで、業容をどんどん合理化することによって体質の改善を図り、5,000人から3,000人まで減らし、もうからない事業を合理化して今に至っております。

ただ、今からのお話につながりますけど、それでもこの国はどんどん国力が衰退しています。いわゆる衰退とはどういうことかというと、経済的に見ますと経済のボリューム感がなくなるということです。これが、均一に厚みがなくなるということだとそれはそれで問題ではありますけど、まだ格差という目線からするといいわけです。経済というのは、そういう全体のボリュームがなくなったときに、東京一極集中という言葉に象徴されるように、厚みがまだ残るところと全体が減ったなかで急激に落っこちるところということでいきますと、地方の経済がどんどん薄っぺらくなります。そのような意味においては、日本の衰退の下降線よりも、地方はより急激に経済力を創出してくるということを私としては考えておりまして、わが社的にはせっかくここまで頑張ったのですけど、これでも足りないのかなというようなことを今考えています。

今日お招きに預かって、どれだけ先ほどの理事長さんのお話のなかで、地域の経済を活性化するために、ためになるお話ができるか分かりませんけど、今日お話br上げたいのは、いわゆる私どもの会社の固有の努力、それはもうここにお集まりの皆さんも似たような環境のなかで固有の努力をされているわけですけれど、その固有の努力だけで本当にわれわれが自分たちの最低限のなりわいを守っていけるのかということです。

そして世の中が難しいのは、そうやって追い込まれる、悪いほうに転んでいくときの状況において、基本的には固有の努力で手一杯になって、その固有の努力以外に大きな意味でシステムを変えたり環境を変えたり、プラスαの何かをすることができなくなり、ゆとりがなくなってしまいます。この悪循環をなんとか打破するためには、こうやって少しでも皆さんとお話をすることが、また、皆さん方も固有の努力をされるなかで、青森のなかでのプラスαを皆さんがされることになり、また、鹿児島でそういう私が努力することと皆さんが青森で努力されることが、1.1×1.1が1.21になるがごとく、少しずつ積み重なるということが大切なのではないかなと思います。たいしたお話はできないかもしれませんけど、お話をさせていただきたいと思います。

最初に申し上げておきますけど、今日のテーマのインターローカルという言葉は、私の造語でございまして、辞書には載っておりません。今からお話しするなかで、どういう意味を持つかもひっくるめてご説明させていただきます。それでは、すみませんけど、座ってお話を続けさせていただきます。

まず、参考資料として結構分厚い紙がございます。これに関して説明するのは時間的に無理だと思います。今からお話しするなかで少し触れる部分がございますので、そういうところでご興味がある方は1回熟読していただいておけば、今後の参考になるのではないのかなというふうに考えます。それでは、レジメに沿って進めさせていただきたいと思います。

最初にだいたいお話ししましたけど、今、私たちはどういう環境におかれているのでしょうか。その下に、時代認識、地理的認識、内部環境認識と書いてあります。時間の問題がありますのではしょりますけど、一言でいえば今申し上げた通りです。本当になったのかどうかは別にして、この国は20年ぐらい前に、ジャパン・アズ・ナンバーワンになったのだと思います。そしてバブルが壊れて、あっという間に10番なのか20番なのか国力は衰退しています。GDPひとつにしても、今年は中国に抜かれました。1人あたりの国民所得も1番か2番といって威張っている時代は夢のような話で、今十何番目ぐらいまで落ちたのでしょうかという状況にあります。

政治的な話は一切しませんが、経済力があるがゆえにアジアのリーダーであるというこの国、日本をリーダーだと思っているアジアの国がどれだけあるのでしょうか。あと何年かすると、世界のGDPの25パーセントはアジアが占めるということが予想されて、アジアの時代だといわれるなかで、先に走っていた日本が唯一没落のなかにあるという話になりますよね。

そして、内部環境認識です。これも毎日のように出ておりますけど、今年初めて国勢調査で0.0何パーセントか人口が減りました。私は正確な数字は知りませんが、あと100年したら日本人は0になるという話も出ているわけです。そして、少子高齢化です。数の問題だけではなく、年金の問題もあります。健全な国の人口構成はだいたい三角形と決まっていますけど、この国は逆三角形になりつつあります。その逆三角形がどういう意味を持つかということは、あえて説明する必要はないと思います。

そういうなかで、先ほども申し上げたように、いわゆる経済の厚みを経済の富というふうに言い換えれば、日本の国の富がどんどん減っていって国力が衰退するなかで、富の偏在の問題があります。余談になりますけど、19世紀後半から20世紀いっぱいにかけて、富の分配ということに関して、イデオロギー的にいうと、カール・マルクスという人が考えた考え方をするようになりました。いわゆる共産主義、社会主義、資本主義、自由主義経済のような話です。

今、よくありがちな議論でいくと、日本において国の財政がどんどん悪くなっていくなかで、税金を増やそうといったときに、消費税を取りましょうという話になります。消費税は逆累進課税性が強いので、貧しい人など経済弱者にとっていい税制ではないという話や、今の富の分配の話でいくと、特に日本はそういう部分がひどいのですけど、どうしても社会主義、資本主義のような、私からすると、ひと昔前の論理を前提としてあるべき分配論理を議論するわけです。実際は先ほど申し上げたように、東京と地方の富の分配に関して、あえていえば正義とはなんぞやということに関しては、この国で議論はなされていないわけです。

例えば、最近はだいぶよくなりましたけど、東京都23区に住んでいる人たちは、中学生以下は、医療費はただという現実を地方の人たちは誰も大騒ぎしないというような状況です。国民はみんな平等ですから、国の健康医療制度のなかでは負担は一緒ですけど、東京区民は区が補助していますから、中学生と小学生は基本的に医療費は払わなくていいという状況が起こっているわけです。

上場企業に勤めている人の多くは、東京に住んでおり年収の多い方も多いのですが、その人たちの子どもたちの医療費は0円です。逆に、鹿児島は後ろから3番目ぐらいの1人あたりの県民所得で、離島も山ほどあります。そこで頑張っている人たちが、東京都と同じように中学生までただかというとそうではありません。逆に言えば、医療施設でさえ受けられる医療サービスのレベルでさえ圧倒的に差があるし、なにがしかの負担を強いられることがあります。

日本はどうしても経済的な強者、弱者のなかでだけ富の分配の話がされますけれど、実際は富の分配という話に関しても、東京一極集中という言葉に象徴されるような状況になってきています。先ほど申し上げたように、どんどん薄くなるところが、よりリバレッジが効いて疲弊に拍車がかかり、もう少しするとどうしようもない状況にまでなっていくということになると思うのです。

余談になりますけど、今のような話でいくと学校ひとつもそうです。青森も鹿児島もそうですけど、過疎地が山ほどあり、そういうところは小学校、中学校の生徒が1クラスぶんいないので、学校同士を統合するという話も出てきて、それも配分の正義とはなんぞやという話になってくるわけです。

ここから先はややこしい話になりますので、さらっと流します。プロではないので、90分の時間配分で上手に言うことを言って終わるということはできません。ここをさらっと流して、あとでよく分からなかったというところがあれば、ご質問に答えたいと思います。

レジメのBの2番目のところを先にお話ししたいと思います。国という言葉を辞書で引きますと、順番は覚えていないのですけど、絶対に3つは出てきます。カントリー、ネイション、ステイツというふうに出てきます。一般的に、国際問題がどうだとかみたいな話でいくと、今回もTPPがどうだと騒いでいますけど、だいたいそういうときはカントリーとは言わないです。ネイションということで、国連もユナイテッドネイションといいます。皆さんはというよりは、日本人はネイション、いわゆる国家を真剣に考えたことがある人はあまりいないです。

私があまり好きではない言葉、あえて嫌いな言葉は、ここに書いてある国益という言葉です。ところが、この国は今、国益という言葉を使う人間がどんどん増えてきています。皆さんは、国益とは何かということを考えたことがありますか。国をネイションという英語と同じようにしたときに、国益を英語で辞書を引かないで言える方がいますか。和英辞典を引きますと、イントレスト・オブ・ネイションと書いてあります。イントレスト・オブ・ネイションとはなんぞやという話になるわけですけど、支離滅裂になりますので、さらっと流します。

次に、イギリス、オーストラリア、アメリカと書いてあります。イギリスの正式名称をご存じの方はいますか。ユナイテッド・キングダム・オブ・グレートブリテン・アンド・ノースアイルランドです。それから、アメリカは知っていますよね。ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカです。オーストラリアの正式名称は、コモンウェルス・オヴ・オーストラリアです。

同じような感覚で日本の正式名称は知っていますよね。ジャパン、これだけです。私は若かりし10年ぐらい前、若かりしといってもあまり若くないかもしれませんけども、経済同友会で講演をしたことがありますが、そのときに沖縄の皆さんにも申し上げました。ウェールズはユナイテッド・キングダムに入っていないので、日本はイギリス流でいうと、「ジャパン・アンド・琉球」ですよね。

これも余談になりますけど、廃藩置県があったときに、沖縄はどういうふうに処遇されたかご存じの方はいらっしゃいますか。その時点では、沖縄は琉球国で日本ではありません。日本中の藩が県になったときに、沖縄は琉球藩になって、その数年後に沖縄県になったのです。そういうふうに考えたときに、雑ぱくなやり方ですけど、国とはなんぞや、そして国とはなんぞやというときに、国益とはなんぞやということになります。

これは私の考え方ですが、国益が日本で論じられるときに、ある種ほとんどが国家益です。もっと詳しく言うと、国家の為政者益です。それは本当の国益では私はないと思います。一番いい例が太平洋戦争です。同じく国家益、国益として戦争を始めたことが、本当に最終的に国民1人1人の利益につながりましたかという話です。ですから、私は国益という言葉自体の定義うんぬんは別にしまして、安易に国益という言葉のなかで何かしよという人間はあまり好きではないという意味で、国益という言葉があまり好きではないのです。今のマスコミ、今の政治家、今の官僚、今の経済大部隊の人たちが、TPPや年金などで国益をすぐ使って己のやることを正当化しようとします。

そういう意味では、私はたぶん太平洋戦争が始まる前、満州国がどうのこうのという議論がある頃に、松岡洋右が国際連盟で演説をして脱退するときに、たぶん同じような形でこの国は国益という言葉を使っていたのではないかと勝手に想像します。僕はあまり好きな言葉ではありません。

私が何を申し上げたいかというと、やはり国とはなんぞやということです。イギリスやオーストラリアやアメリカは、彼らは彼らなりの国という概念を持っています。全員が同じものを持っているとは分からないですけど、少なくとも国民1人1人に奉仕するべき民主主義においては、為政権を委ねられている人たちは、もう少し厳格に定義したものを持って、それなりの思想とか哲学に裏付けられて運営されているけど、日本はこのへんが非常にいい加減という感じがします。これは日本人のおおらかさでいいところだといえばいいのかもしれませんけど、今、グローバルな世界です。

次に出てきますけど、グローバルと言って、グローバルスタンダードだから、日本はこうしなければいけないなどと言っているわけです。そのときに、グローバルと言っている人たちが言っているのは、ネイションというものがすべてであった20世紀から、グローバルが何かは別にしたときに、だからといってネイションはなくなるわけではありません。われわれが日本国民である限りは、国際社会のなかでしかわれわれの立場を守ることしかできないわけですから、グローバルの時代が来れば来るほど、グローバルスタンダードといって、この国の仕組みをこう変えなければなりません。こうなければいけないというような議論をすればするほど、やはりネイションとはなんぞや、日本国とはなんぞやというところを考えないといけないと私は思います。

グローブというのは、ご存じのように、球体という英語の言語があって、それを形容詞形にしたものです。地球は球体ですから、地球のことを示して地球規模といっているわけです。ここに書いてありますように、グローバルというのは、国境がなくなって地球全体でものを考えないといけないというお話だと思うのですけど、国境がなくなるというのは一般的にボーダレスということですよね。でも、実際は国境があるわけですから、グローバルとボーダレスが同義語かどうかは別にして、グローバルとはどういうことなのかということをやはりわれわれは考えなければいけないということです。

次の4番目のところのインターナショナルとグローバルの違いは何かということも意外と重要なことだと私は思っています。先ほど申し上げたように、1から全部ネイションだということで、江戸時代の日本でさえ長崎に出島があったわけです。また、モンローイズムといわれた頃の19世紀のアメリカでさえ、ほかの国となんの関係もなくやっていくわけにはいかないわけです。ネイションが絶対的な単位として成り立っているときも、第二次世界大戦では国際連盟のようなものを作り、戦後は国際連合を作り、そしていろいろな国同士の協議や戦争をしたり、いろいろな条約を結んだりしてきました。国が単位として、しかし世界でいろいろな調整をしていかなければいけないという意味では、日本語ではインターナショナルというのは、国の際(きわ)と書きますけれども、インターナショナルという言葉で、今までわれわれは20世紀の中盤から後半にかけては、インターナショナルにならなければいけない、国際化のような話が言われていたわけで、それとグローバルとはまたどう違うのかなということだと思うのです。

5番目に、ローカルとは書いてありますけれども、とりあえず脈絡がない話をさせてください。ローカルの反対語は何かと思ったときに、セントラルなのかと思います。ローカルというと、日本語では地方と訳しますけど、少なくともインターナショナルやグローバルでは、ローカルとは言いません。国のなかで東京をセントラルとすれば、地方をローカルと呼ぶわけです。

ただ、皆さんに申し上げたいのですが、日本でこういうと、東京がセントラルということになっていますけど、東京もローカルです。理屈っぽい話になって申し訳ないのですけど、東京と言うと分かりにくいでしょうが、東京はセントラルですけど、江戸はローカルです。いわゆるローカルが1個1個の地方だとすれば、アメリカが分かりやすいですよね。アメリカの首都のワシントンDCは、行政区、特別区で、ローカルの州の中にあるわけです。2つの州のちょうど州境のところにあるわけですから、そういう意味では、首都機能はセントラルですけど、東京都というのは1つのローカルだということを申し上げているわけです。つまり、今、日本でローカルと言ってしまうと、東京というところに関して地方ということで言いますけど、私がここで言うローカルというのは、日本語でいうと、地域ということを申し上げているわけです。

この国は中央集権官僚国家という社会システムだということを前提とすると、東京もひっくるめて中央集権の国の日本を運営する組織が東京に集中していて、そこが首都として特別なものを持っていて、そこに役所があったり国会があったり、という意味ではそこはセントラルです。ただ、ローカルという意味では、所詮日本も地域の集まりで、その地域をローカルというのを呼ぶのが英語のローカルだということです。どうしても日本がローカルを地方と訳してしまうので、中央集権の東京に対しての田舎みたいな話がローカルだと思ってしまうのです。ですから、私はここでローカルとセントラルということをあえてお話しした次第です。

ここから先は強引なお話になるのですけど、地理的なローカルも存在しますけど、地理以外のローカルも存在するわけです。例えはふさわしくないですけど、お医者さんだけを集めて、これもお医者さんというのはローカルだという考え方もあります。

ここまで全部ひっくるめて私は何が申し上げたかったかというと、参考資料に書いてあるなかに、ナショナリズムというところがあり、そのなかに想像の共同体ということが書いてございます。これは、ベネディクトアンダーソンという人が言い出した話です。ナショナリズムというと、どうしても日本だと国粋主義みたいな話になるのですけど、ここで言うナショナリズムというのは、そういう広義なナショナリズムではありません。先ほどからるる申し上げているように、国家とは歴史的にどういうふうに形成されてきたかみたいなことをいろいろ研究したりしている人たちがいます。私も学者ではなく、時間もないのではしょりますが、だいたい想像の共同体というのが、最終的には先ほど申し上げた国連などに出てきたときの国と国のような話のいわゆるネイションです。国民国家というふうにいろいろな経緯があって成り立っていったのだということで、実際そういう典型的なパターンは世界中それほどないわけです。民族が違ったり、同じ地域に宗教が違う人が入り乱れて住んでいたりいろいろしますけど、ここでずっと言っているのは、何気なく形成されているイギリスという国やアメリカという国です。アメリカなどは歴史がはっきりしていますけど、だいたいそういうものは想像の共同体というベネディクトアンダーソンさんが考えた、歴史的な研究のなかでの国家の形成のなかで、結局、日本人の想像の共同体として日本国ができあがっているというような話です。先ほど日本人ほどあまりネイションに関して意識がないと言いましたが、歴史的、宗教的に見て、本当は100パーセントそうではないのですけど、想像の共同体が日本人には空気のように最初から入ってきているので、日本国のようなものをあまり厳格に考える日本人はいないという話なのだと思うのです。

しかし、歴史を元に戻していきますと、日の丸はいつできたか知っていますか。鹿児島の人は結構知っているのです。君が代はいつできたか知っていますか。日の丸は、島津藩のマークが丸に十の字ということを知っていますか。丸を書いて、薩摩の島津藩マークを赤く塗りつぶしてできたという説が最も有力で、国家も国旗も明治維新でできているのです。国旗は、私が知る限り、日本人が船を作って外洋に出て行くと、当時の国際ルールでは、どの国の船かということで、国の紋章を掲げろということが決まっていて、それを掲げていないと、極端なことを言えば、海賊船だという話になるのです。よって、薩摩藩が船を作ってどこか外洋に行こうとするときに、とりあえずどういうマークをつけようということで始まったのが日の丸だという話です。

では、当時、藩が1個1個国だと思っていたかというと、違うわけです。全員かどうか知らないですけど、ある程度みんな日本という国のイメージがあったわけです。では、その日本の国を統治しているのは誰なのか、幕府なのか、天皇なのか、もしくは藩主なのかという話は置いておいておきます。なんとなく日本というイメージがあって、少なくともそのときに100人にアンケートしたら、琉球国で王様がいたわけですから、沖縄は日本ではないと答えたと思います。

しかし、今の日本人はいつの間にか沖縄まで入れて、日本には最初から国家に象徴されるような国があったという話になっています。実際は、今、われわれ日本人が持っている統一的な国民国家の形態というのは、明治のときに出てきました。その前の日本がばらばらだったかというとそうでもなく、各藩は各藩で日本のために、鹿児島では薩英戦争を起こして攘夷だと言って戦争をしてぼろぼろに負けてそこから開国に転向したり、長州は長州で同じようなことをしたりして、やはり日本という国のなかの薩摩藩のようななかでみんなやっていたわけで、全く国の概念がなかったわけではないわけです。

1番のBのそれを考えるための基礎というところで、いろいろな国にいろいろな歴史で最後に国民国家になっていく歴史があります。共通して言えることは、やはりコミュニティというのをどんどん積み上げていって、最終的には先ほどの想像の共同体ではないですけど、1つの国としてここだけまとまった国という共同体というのが、国民のコンセンサスができた国の塊だということになります。

そういう考え方の反対側にあるのが、こちらは長く話しませんけど、いわゆるロックから始まったルソーからずっときて、社会契約説みたいなものがあって、民主主義ということで、基本的人権がありというような話で、どんどん積み上がっていったわけです。その両セットで今の国があって、特に民主主義のようにできていった国がアメリカですから、イスラム教の国が民主主義ではなかったらけしからんというようなことで戦争をしかけていくというような話です。

その是非は別にしまして、今、言ったように民主主義やソ連が衰退して以降、自由主義経済、資本主義が発展し、社会主義、共産主義は、経済的に成長できず失敗した例だという話になりました。イスラム教のように宗教を前提として人権を無視するところは国ではないという話で、国連で責めてというような話になりました。先ほどからその是非は別です。基本的には全部そういう国は、いろいろな宗教や民主主義もある種のイデオロギーだとすれば、そういうなかで共通のコンセンサスができていったということだと思うのです。

しかし、ずっとそれを逆回しといいますか紐解いていきますと、最後はやはり日本でいうと、藩に象徴されます。藩にはそれなりにいろいろな歴史があり、もちろん藩のなかもいろいろなものがあるのですけど、そういう歴史や伝統など共通のコミュニティのものが出てくるということです。先ほどお話を聞いていたら、青森県は津軽藩と南部藩というお話で、津軽藩も南部藩も日本国であることは間違いないわけです。廃藩置県のときにどちらかというと、明治政府が日本国という国民国家の枠組みをきっちり作ろうかというふうにしたので、共同体のような集合体として、歴史や文化の統一性があり、想像の共同体に近いものですけど、白人の国に対抗するために、中央集権官僚国家を作っていったということだと思うのです。

次に、私たち日本、地方はどうなっていくでしょうかというレジメに飛びます。先ほどからるる申し上げているように、誰が考えてもこの国は衰退中であり、どうしたらいいのかということは、いろいろな人がいろいろなことを言います。私も名案があるわけではないのですけど今ばらばらに話したようなことを取りまとめて申し上げます。

時代的な認識という部分にもなるのですけど、先ほど申し上げたように、藩がばらばらで鎖国してイギリスやアメリカからちょっかいを出されていて、内政的にもいろいろな意味で行き詰まって、徳川幕府が倒れました。欧米をまねて中央集権官僚国家的なものにして、士農工商をやめて、藩をやめて、絶対的に強い中央集権型の国を作って、日清戦争などで同じアジアの大国を破って、やはりおれたちはいいシステム改造をしましたというような話で、ロシアにまで勝ちました。今度は調子に乗ってアメリカと中国に進出したけれど、上手にできなかったので、アメリカとイギリスと戦争して、徹底的にやられて、そのあとにアメリカが入ってきて、アメリカ流の社会システムの変更を強要されたというと語弊がありますけど、それを受け入れました。

それがうまくいって、気がついたら20年ぐらい前、アズナンバーワンといわれて、世界で一番すごいというような話になっていったわけです。さらに、うまくないことが起こって、少しずつ衰退して、気がついたら内部環境、人口構成などいろいろなものがひっくるめてうまくまわらなくなりました。

アジアの国のほうが、勢いがあるというようなとき、私は国とはなんぞや、この国はどうやって出てきたのか、どうやって成功してきたのかといようなことを考えました。予見的に負け組に完全になりつつあり、原点まで考えたときに、先ほどセントラルとローカルと申し上げたように、ローカルというのは、田舎という意味ではなく、地域です。地域という日本語はあまりぴんとこないので、あえて僕はどちらかというと地方を使うわけです。中央に対する反対語は地方だからです。

しかし、その地方といったときに、都会と田舎の田舎ではないという意味で、私は申し上げているのですけれども、いわゆる地方をあえてローカルと読み替えて、ローカルをどうやっていくのか、そして、ローカルの集合体として、ローカルというコミュニティの集合体としての国家がどうやって力をつけるか。つまり、今は国家、国益といって、先に国のフレームから入って論じても、基本的になんの解決にもならないということです。

明治のときに作って、アメリカに負けたあとも温存された中央集権型、そして、官僚主導型の国家運営は完全に今、上手にまわらなくなってきているわけですから、あえて言えば、レジメの最後に書いてあるように、私は県をやめて藩に戻すぐらいシステム改造をしないと、僕はこの国の国力復元というのはないのではないかなというのが持論でございます。

では、今、中央に集まって死に体寸前のローカルが、どうやって復権していくかということに関していえば、インターローカルという考え方を具体的に推し進めていかなければいけないと思います。インターローカルという説明をさせていただいたあとに、その考え方を理解していただいて、かつ、賛同していただくときに、インターローカルをどうやって進めるか自体は、皆さん1人1人が考えることですよというのは、先に申し上げておきたいと思います。

2番目の主権というところは時間がなくなったのではしょりますけれども、1つだけ申し上げておきたいのが、Dのところの共生他尊でございます。他尊というのは、辞書には載っていません。これは福沢先生の言葉で、慶應義塾の幼稚舎という小学校のところには載っているのですけども、一言でいうと、独立自尊、そしてこの前提となるのは、自助だと私は思っています。

逆に言えば、自助と独立をしなければいけないという固い信念のなかで逆境でも頑張れるというのは、やはりそこに自尊というものを持っていかなければいけません。自尊はどういうところからくるかというと、先ほどからるる申し上げていたように、やはり歴史や伝統、文化などです。また、藩というのは当時のお殿様がいた藩自体を言っているわけではないですけど、シンボリックに言いますと、藩でくくられたような歴史なり文化などのコミュニティみたいなもので、皆さんでも私も鹿児島人だというプライドがあるわけですよね。それを歴史的にずっと紐解いていくと、こちらの藩が2つに分かれていますけど、「南部藩だ」「津軽藩だ」あるいは「私の3代前は津軽藩士の何々で」などという郷土の文化の守り手でというようなものが全部つながってくるわけです。

何が申し上げたいかというと、そのように独立して自尊心があって、そしてその独立と自尊心を現実に守るのが自助だということです。この悪循環に入ったときに、それを抜け出すつらさ、そしてそれをいいほうにまわし出したときは、それがどんどんうまくいくという地獄と天国みたいな世界なのです。しかし、その悪循環を最後に止めるのは自尊心です。そして、自尊心だけだったら唯我独尊といいましょうか。ただ、どうしようもない話ですけど、その実態を変えていくためには、どうやって自助していくかという話になるわけです。

そういう人たちは、逆に違う考え方、違う文化に関して、自立、自助しているだけに、そして、己の自尊心が強いだけに、逆に言えば、相手のプライドも相手の考え方も尊重するし、いいところはいいと認めて、吸収するぐらいの度量があります。これは、福沢先生が作った言葉ですけど、自尊心があるからゆえに他尊できるし、相手を尊ぶがゆえに、初めてそこで共生などという話になってくるわけです。

今、るる申し上げたことを横文字にすると、ローカルというのは、グローバルのなかでは、ネイションに対してのローカルです。ですから、地球規模でローカルがあるのか。ひょっとしたら、この地球が基本的にアングロサクソンの考え方で、どちらかというと、先ほどのイスラム教が人権を守らないというような話で、民主主義とあるべき国家の理想に近いアメリカが攻めていいですよというような話でいくと、明らかにアングロサクソンが考えた民主主義やシステム、国連だってそういう人たちが牛耳っているわけですから、そういう意味では、グローバルという視点からすると、日本なんか典型的なローカルですよね。いわゆる地方というかはずれという意味です。

しかし、そこで国という縛りを取って、国内だけではなく、ほかの国のローカル、いわゆるインターナショナルに国と国同士が際でいろいろ考えたり、いろいろするようになりました。先ほど申し上げたように、幕末時代には、薩摩藩は日本国としてパリの万博には出していません。薩摩藩として出展しているのです。東北でも何件か藩として外国にアクセスした藩もあります。

そして、人材面でいくと、意外と私は今から重要なのは藩校的な教育だと思うのです。江戸時代末期、各藩は藩のための人材育成を藩校や私塾でしていました。しかし、ひと昔前にこういうことを言うと、「お前はなぜそんなに考え、了見が狭いんだ」と言われました。鹿児島県の人材育成をするのは了見が狭い、日本国の人材を育成しろというわけです。でも、私は今、堂々とローカルの人材育成に徹底的にすべきだと思っています。

1つは、先ほど言ったように、中央集権的に人材も中央に集めて、そこで一点突破するというような話は、今の世界に通じないですし、完全にそのパターンで負けているのは目に見えているわけです。そして、幕末がそうであったように、各藩のいろいろな人材が脱藩したりして飛び出し者もいたかもしれませんけど、そういう人材が最終的には藩のことだけ考えて行動しましたか。逆に、共生他尊でも想像の共同体ではないですけど、日本という国家が藩の集まりであり、ある藩の藩主が自分の藩だけのことを考えて動いたり、諸外国と出会っていろいろな経験をしたときに、やはり守らなければいけないのは、想像の共同体である日本というものがあるわけです。そういう意味では、最終的には藩をやめて日本にしましょうというところまでいってしまったわけです。

最初の頃は、先ほど言ったように、倒幕か勤皇か、攘夷か開国かというような話をしていたわけです。最後に、攘夷も開国も勤皇も基本的に全部なくなってしまいました。海音寺潮五郎や司馬遼太郎のようにあれだけの議論がされたかどうか、現場にいないので分かりませんけど、少なくとも日本国はどうあるべきかという議論があったので、あのような形で日本が西洋の国に植民地化されなくて済んだという話をわれわれは習ったので、私はそう思っています。

そういう意味では、私はグローバルな時代でローカルが再生するときには、インターナショナルということで、国同士がやるとTPPみたいな話になったり、所詮国同士はボーダーレスの時代のボーダーをつけている人間の当事者ですから、超えられないですよね。では、どうしたらいいのかと言うと、日本国が日本国の国という単位のなかで、国内的にいろいろしがらんでいるなかで、逆に、われわれローカルが国境だけでなく県境を越えて、どうやってネットワークを構築していくのか、そして、先ほど申し上げたように、居直ってという言葉をあえて申し上げます。

青森のための人材育成をするのが日本のためになるというぐらいにローカルに徹底した戦略を展開していくということです。そして、それは徹底的に己の自尊心を磨くことであり、己がどうやって自立したらいいのか、どうやって自助したらいいかということを徹底的に考えることですので、表面的には相手と利害が反する話のように思ってしまうのですけど、実は違うということです。徹底的に青森のことだけと言うと語弊があるのですけど、それは徹底的にそこに徹すれば徹するほど、逆に言えば、それを徹していた人間同士は尊重しあえるということです。特にグローバル、ボーダレスの時代ですから、そうやってネットワークを作っていくというようなことが重要なのです。

ですから、よく日本人が中国などと言いますよね。われわれはですからインターローカルでいくと、中国と言ってはいけないのです。中国にもローカルが山ほどあるわけです。中国を論ずるのは、日本国を論じている人間だけでいいわけです。例えば、中国でも青島をどうしよう、大連がどうだとかいうことがあります。あえて失礼なことを言いますけど、そういう大都市だと青森では手にもてあますという話だったら、青森だったらうまくいけそうな場所を中国のなかで見つけてきて、そこで何かやっていくなど、われわれは相手を国で見てはいけないのです。相手もローカルの集合体だと思っていろいろやっていくことが重要です。先ほど言葉足らずだったのですけど、ローカルというのも、地理的なローカルだけではなく、1つのコミュニティというふうに言い換えれば、日本横断的にやっている人たちとやりとりをするというような話も重要です。私がインターローカルにこめた意味は、今、十分ではないのですけど、そういうことでございます。非常にお話が下手で十分説明しきれておりませんが、以上で私のお話を終えさせていただきたいと思います。

もしご興味がある方は、先ほど言ったように、いまだに日本人というのは、社会主義、共産主義、そしてソ連の崩壊からさも自由主義経済が勝ってというような話のなかで、十年ぐらい前に唐突に規制緩和や市場原理主義などが出てきて、グローバリズムが出てきてというような話になっています。

私のレベルの低い勉強の程度で言わせていただければ、リバタリアンニズムというものがあります。一時、NHKで有名になったマイケル・サンデルさんという人は、ハーバード大学の政治学の学者ですけど、この人はコミュニタリアンなのです。リバタリアンの反対側にいて、アメリカの民主党の人たちは新自由主義です。実際、新自由主義というのは、ほとんど社会主義に近いぐらいの発想です。しかし、ロックやルソーから始まった民主主義や自然人という意味では、社会主義とは全く違うのですけど、結果的には富を平等に再配分するような、政策は社会主義に近いというような話になるのです。

オバマさんはどちらかというと新自由主義に近い学者さんをベースにしていますし、ブッシュは完全にご存じのようにリバタリアンで、ミルトン・フリードマンに代表されるような小さな政府で何もするなといようなことで、結果的には貧富の格差が全部広がってしまうというような話があります。

日本だともっともらしく全部経済学で正しい論理のように入ってきますけど、実際は市場原理主義にしろ、今申し上げている経済学論理というのは根底には哲学が違うからなのです。そして今、日本の政治でそのへんがきっちり整理できていないから、民主党は右往左往したり、税金がどうだ、財政がどうだなどというのを見ると、まず全員ちゃんと勉強しなさいと私は思います。

そして世界の趨勢や民主主義という枠組みのなかで経済政策をどうするかというようなことは、実際は先ほど言ったみたいに、経済的な強者と弱者の配分をどうするか、国の役割をどの程度に抑えるか、そして思想的な裏付けはどうなのかというようなことは、実はアメリカとかヨーロッパでは、いろいろな学派がいて喧喧諤諤やっているわけで、最後それを選挙で選択するのは国民ですよね。しかし、今のところ日本は、国民がその選択に関して基礎知識を何も与えられていなくて、ただ最後の帰結の部分の、しかも曲げられたところだけ与えられているので、ぜひ皆さんはこのへん少し勉強されたら、自分なりの考えがきっちり持てるのではないかなと思います。

私はコミニタリアンを支持するわけではないのですけれども、先ほど言ったように、社会主義的な悪平等の話から、自由主義経済の理念からずっと突き詰めていくと、変な話、社会主義の政策を支持するみたいな話になります。一時の日本の小泉さんがそうであったように、弱者切り捨てのような市場原理主義、その真ん中にコミニタリアンみたいなのがいるというような単純な話ではないのですけど、バランスですし。原点はそういう切り口だけではなく、先ほど申し上げたように、地理的なものなどいろいろなことを考えたときに、やはり地方の人間であればあるほど、こういうことを少し理論武装するほうが重要なのではないかと思いました。参考資料が厚くなりましたが、そういうことでございます。

非常に話が雑ぱくなりまして、申し訳ございませんが、これで終えさせていただきたいと思います。よろしいですか。

(質疑応答)

質問者A:
正直申し上げまして難しいお話で、インターローカルという言葉自体、私は今初めて耳にしたのですけれども、例えば、日本語で表現するとすれば、なんという言葉に置き換えられるのでしょうか。一番適切な言葉は見つかりますか。

岩崎:
厳しい質問です。インターナショナルを国際と訳すと、そのまま使うとなんでしょうか。地際になるのでしょうか。でも、あまりぴんとこないので、インターローカルというふうにさせていただきました。別な言い方をすると、ローカルネットワークという言葉でもいいのかもしれません。いわゆるローカルとローカルが国を超えて、ともかく人的なネットワークから始まって、そういうものを構築していくということをあえてインターローカルと言わせていただいています。

質問者B:
今、ウェブ上の世界で、同じ趣味や目的を持った人がコミュニティを作り上げていわゆる聴聞会をやっていますよね。ですから、国という1つの中央集権国家といっても、そこを飛び越してやっています。そういった形に近いのですか。

岩崎:
ご指摘のようにバーチャルの世界では、完全にボーダレスじゃないですか。そして今おっしゃったように、どちらかと言うと、バーチャルの世界では、地理的なローカルではなく、趣味もひっくるめて、いろいろな共通の価値観のコミュニティ同士がやりあっているということですから、おっしゃっている通りだと思います。

ただ、実際、最終的に経済などにつなげていくのは、インターネットの世界だけでは所詮上滑るわけですから、われわれの物理的な行動のなかでやらなければいけないという意味で、インターローカルというふうにあえて強調させていただいています。情報の世界だけでのローカルネットワークの構築だけでは、根本的なものは変えられないですよね。

事実、新幹線が通ったことによって、人流、物流、特にまず人流から始まるわけですね。人流イコールインターネットの表面的な話だけではなく、いろいろな部分での情報の交換と異文化との交流が行われます。鹿児島の私がここに来て何かしゃべるのが異文化の交流というほど大げさなものなのかどうかは別にして、触発というのはそのようなものだと思います。

質問者C:
私の仕事は中小企業支援なのですけれども、今、事務所のなかで話し合っているのが、この経済のなかで、国にはどんどん注文をつけるけれども、国に頼るなということです。今後、東京電力の福島原発の収束に向けて30年というまずは長い期間があるわけですけれども、青森県として30年後の姿を考えたときに、東北でいえば青森県が残っているのかどうかということを職員に投げかけています。

そのなかで青森県は地産地消を含めて、食糧自給率も高いわけで、自国という形で県単位では生き残れると私は思っているのです。県外、さらに国外からはものを売って外貨を獲得する。さらに必要なものは安く手に入れるという方向で、青森県を育てて、人口が減っているなかで、人を含めて生きていこうという進め方をしているのですが、これは極論すぎるのでしょうか。最終的には私のなかの極論でも、青森県だけは東北で生きていける、生きていくぞという意識を持ってこれから過ごしていきたいと考えています。

岩崎:
逆に言えば、私はそういう意識を持ったところだけが生き残っていけるということだと思います。ただ、私の個人的な趣味で言わせていただくと、あくまでも青森県というのは行政単位ですから、青森というローカルと同義語ではないと思います。ここは私の趣味、おたく的な部分なので強調はいたしませんけど、先ほどから申し上げているように、ローカルの自助、自立、それに対する確固たる信念があって、できればそれにローカルのリーダーを含むメンバーの1つのコンセンサスを得られた長期戦略があり、その戦略を前提として各人がアクションを起こしていくということが重要だと思います。

そういう意味で、先ほどおたく的に申し上げましたけれど、青森県の中期経営計画のようなものは、私は何も意味がないと思います。地域としての青森のそういう戦略、そしてそれにのっとったアクションプログラムが重要なのではないかと思います。それは僕からすると必然であり、持つべきだと思います。

余計なことですけど皆さんは、新幹線が通ったということをもう少し重要視されたほうがいいと思います。日本全体が負け組のなかで、鹿児島にせよ、青森にせよ、今までハンディキャップ戦を戦わざるを得ませんでした。それでもハンディキャップはまだありますが、新幹線が通ったということで、かなりスクラッチの戦いができるようになってきたわけです。

先ほど富の配分の問題を申し上げましたけれども、どうしても日本人は一極集中突破型で東京に富を集めて人材を集めて、輸出立国型でやって、その再配分として、無意味に大きな政府を作って、それを配って、それが県単位で配られてみたいな話ですよね。今から配るお金が少なくなっているわけですから、なんとか自分で稼いでいかなければいけないときに、稼ぎ方もワンパターンではないですよね。

私は広義の観光という言葉を作りました。狭義の観光というのは、来ていただいて、宿屋に泊まってお代をもらってご飯を食べて食事代をもらって、せいぜいお土産を買って帰るぐらいの話ですよね。しかし、北海道の観光は、空港の物産のところで山ほど買って宅配便で送り、その記憶をもとに、日本中の百貨店で北海道物産展をやって、1回観光客で来た人に毎年ダイレクトメールを送って、通販で受注してということになっています。今、観光と第一次産業とトータルでビジネスだと思って、どうやって利を取っていくか、どうやって事業を拡大するかということを考えている人が、この国では非常に少ないのですけど、純粋な狭義の観光だけでは成り立ちません。

広義の観光のもう1つの世界的な成功者、強者は、ディズニーランドです。ディズニーランドは入園料でもうかっているわけではないですよね。あそこに行って、中国製のTシャツを10倍ぐらいの値段で買ってもらってもうかっているわけです。それぐらいビジネスモデルを少し考えられたらいいわけで、そのときに3時間10分から首都圏の大市場から人が行ってみたくなる距離に完全に入ったということです。

今のところどうやって来させるかということだけを考えていらっしゃいますけど、今のビジネスモデルで少々来ても産業として十分にはならないです。どうやって来させるか、どうやってビジネスで取り組むか、どうやって来たときにお金を落とさせるかということだけではなく、帰ったあともどうするかというところまでトータルで考えていかなければいけません。私は社内的にそれを広義の観光と呼んでいます。やはり従来のやり方が通じなくなっているときは、今から新しいやり方を地域で戦略的に考えていくことが重要だと僕は思います。

東京には日本で最も多くの人が住んでいて、しかもその人たちのお金を使う量は、われわれ地方の人間とは全然額が違います。今まで青森はアクセスしたくてもできなかったわけですよね。残念ながら鹿児島はアクセスできないわけですけど、少なくとも九州新幹線が通ったことで、関西までならアクセスできるのは非常に大きいことです。ハンディキャップ戦からスクラッチまではいかないのですけど、それをどうやってするか、戦略的にどうやってアクションできるかというのが重要なことだと思います。