平成23年度特別講義:鹿児島国際大学経済学部ゲスト講義

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾
岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾 平成23年度シリーズ

【特別講義:鹿児島国際大学経済学部ゲスト講義】人生について考える

開催日
平成23年12月16日(金)14:40~16:10
講師
岩崎 芳太郎( 岩崎育英奨学会 副理事長 兼 「政経マネジメント塾」塾長)
場所
鹿児島県(鹿児島国際大学経済学部(鹿児島市坂之上8-34-1))
放送予定日時
平成24年1月28日(土) 12:30~13:30 ※以降随時放送

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岩崎 芳太郎

「政経マネジメント塾」塾長

1953年 鹿児島県生まれ 慶應義塾大学経済学部卒業
1995年 岩崎育英奨学会副理事長
2002年 岩崎産業株式会社代表取締役社長
現在 いわさきグループ50数社のCEOとして、
運輸・観光・製造など幅広く事業を展開
著書:「地方を殺すのは誰か」(PHP研究所)等

講義内容

岩崎:
皆さん、こんにちは。今ご紹介いただいた岩崎です。今から16時10分までお話をさせていただきます。学長とお話してプレッシャーがかかっていますので、スタートはちょっと抑え目にいきたいと思います。皆さんにレジュメを差し上げてありますが、これを全部お話していると10~20時間ぐらいかかってしまいますので適当にかいつまんで皆さんの反応を見ながらいろいろお話をしていきたいと思います。

まず、つかみの部分のAから始めます。「なぜ人間は自由、平等なのですか」。指を差して答えさせませんから、これがテストに出たら80点、75点ぐらい取れると思う人は手を挙げてみてください。
だれもいない。

では、次に、この下に「民主主義社会に住む人の常識」とあって、6人の人の名前が書いてありますが、5人まで何をした人か分かる人は手を挙げてみてください。
2人ですね。

ここに書いてありますが「民主主義社会に住む人の常識」というのが何を常識かは別にして、なぜ人は自由、平等なのですか。日本は民主主義の国です。逆に言えば、なぜ人は自由か、平等かということがテストに出て75点ぐらいの論文を書けない君たちが実際はこの日本という民主主義の国で自由と平等を享受しているというのはいいことだとは僕は思いません。やはりあなた方は自由であることをそれなりに享受、いわゆるメリットを得ています。そして、平等であることのメリットはというときに、では、どういう社会のメカニズムの中で自分は自由なのか。そして、その自由はどんな自由なのか。平等とはどういうことなのかと自分なりに1つの考え方を持っていないと、よく言われることですけれども、自由というのは何でも好き勝手していいということではありません。そんなものは子どものころから教えられていることです。

では、どこまでが自由で、どこまでが許されない、身勝手なのかみたいな線引きも人それぞれ違うけれども、でも、常識的な線はどこなのか。その常識がこういう幅があれば、そこに入る1つの自分なりの考え方を持って君たちは生きていないと、どこかで自由をはき違ったりするかもしれないし、平等をはき違えるかもしれない。そういう意味では、やはりなぜというところに関して、少しは学んで自分なりの考え方を訂正する必要があるのではないのですか。

ちょっと難しい話で、分からなければここは忘れてしまって結構ですが、一人ひとりの人間がそういうことに関して、そういう社会の構造になっていて人は平等で自由なんだということを分かっている人たちが大勢を占めて初めて民主主義という社会が民主主義の社会らしくなるんです。この社会は民主主義ですと言っても、社会に住んでいる一人ひとりが本当の民主主義の意味を分かっていて、その民主主義の市民として、構成員としての1つの基準を外してしまえば、その社会はいくら看板が民主主義でも民主主義ではなくなると私は考えています。

そして、私がなぜそんな話から大学1年生の君たちにこの講義に入るかというと、今この国は1億2,000万の日本人がいて、本当になぜ日本が民主主義の社会なのか、民主主義の社会とはどういう社会なのかということをあまりにも一人ひとり自分の考え方を持たない人が増えていっていて看板だけの民主主義の社会になりつつあると私は非常な危機感を持っているので、今日こういう機会をいただいて、皆さんが何がしかの形でそういうことを考える、そして、民主主義社会を守る考えを持った立派な社会人になってほしいからです。

順番に言った方がいいかどうか今、迷っていますけれども、あえて次に飛ばします。話が飛びますけれども、1万円札に載っている人は福沢諭吉というのは知っていますね。福沢諭吉が何をした人かは日本の人は意外と知りません。僕は慶應義塾大学を出ているので福沢諭吉のことを福沢先生と言うわけですが、福沢先生が、いわゆる明治の前の慶應の時代に私塾として学校をつくったので慶應義塾大学というわけです。それは世間に結構知れています。 もう1つはここに書いてある「学問のすすめ」という一応本にはなっているのですけれども、文庫本みたいにシリーズで出たもので、これが現代語訳で、この本を書いたことで有名です。

これもまたちょっと飛びます。その下を見てください。
「自助論を読んだことがありますか」。自助論というのは、たしか19世紀、1800年代にサミュエル・スマイルズという人が書いた本で、同じく、この「学問のすすめ」が明治4年か5年に出ているのですけれども、そのころに「西国立志編」(「西洋立志論」)という名前で、これは中村正直という人が訳したのですが、この2つが明治の時代の、ちょうど徳川幕府が倒れて封建時代が終わって新しい西洋型の国になったときに、なんと100万部以上出た本です。今と違って、日本中に本屋さんもないわけですし、100万部というのは感覚的に今の日本でいけば数百万部だと思います。

両方とも、ある種、封建時代の士農工商の人たちが全員平民になって、そして、近代的な国家になったときに一人ひとりの国民はどういう考え方を持って生きていくべきかみたいなのを、イギリス、ヨーロッパとかアメリカの考え方を書物を訳したり、自分なりに書物にまとめて出した本がこの2つです。最近でいくと、竹内先生という東大の名誉教授が君たちでも読める口語文に直して今、出しています。興味がある人は読んでみたらいいと思います。

話を元に戻しますと、「学問のすすめ」に関して最初の文章が皆さんのレジュメにあります。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、ここは有名だから皆さん知っていますね。世間の人は意外と「学問のすすめ」でこの最初の文章で勘違いしている人が多いのですが、天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずというところは、人間は先ほど言った平等ですよというところをうたっていて、そういうことを書いてある本だと思います。

それから、「しかし、この人間の世界を見渡してみると賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も金持ちもいる。また、社会的地位の低い人もいる。こうした雲泥の差と言うべき違いはどうしてできるのだろうか」とあります。すなわち天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らなかったのに現実の社会は人の上に人がいたり、人の下にいたりみたいな、そういう現実のギャップは何でできるんですかというところで、もう皆さんお分かりのように、だから、学問を薦めますよと書いてある本がこの「学問のすすめ」です。

2ページ目を見てもらえば、最初から読みますと「西洋のことわざにも天は冨貴、豊かで尊いを人に与えるのではなく、人の働きに与えるという言葉がある」。つまり人は生まれたときには貴賎や貧富の差はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは社会的に地位が高く豊かになり、学ばない人は貧乏で地位の低い人になるということだということで、これは明治のころですから極めてシンプルに書いてありますけれども、今の社会はそこまでシンプルではありませんが、でも、学問とは何かは置いておいて、基本的には何がしかの学問という努力をしないと、せっかく平等に天がつくってくれた我々は差が出ますよ。そうやって福沢先生は近代国家になって、士農工商という身分があった日本の人たちに努力すれば別にお百姓さんでも、努力しないお侍さんよりも高貴な人間になれますよと説きました。

レジュメに戻り、dのところで自助論の一番最初に書いてある文章は「天はみずから助くる者を助く」。受験の英語でよく出た関係代名詞、Heaven helps those who help themselves、このthose whoというのが関係代名詞で、ここを括弧に入れるみたいなのを覚えている人がいるかもしれません。こちらは同じような話ですが、この世の中は自分で努力する人がちゃんとそれなりにやっていけて、他人を頼る人はだめになっていきますよということを説いた本が自助論です。

一部読みますと「自助の精神は人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根づくなら、やはりそれは活力にあふれた強い国家を築く原動力ともなるだろう」という部分があるのですけれども、この話と最初の自由、平等の話とどう関係があるかを補足します。

自助心、みずから助くるために頑張ってる人を天が助けるんだよ。人を頼って生きることに重きをしてはだめだよ。私はそういう気質がこの国はすごい勢いでなくなっているような気がしています。「学問のすすめ」にもそういう自助心を学問するということで具体的に書いてあります。併せてその中に、そういう自助をする「学問のすすめ」、自分で努力して進めていく人間が最後、勝ち取るものは己(おのれ)の独立、自尊を持った人間がそうなれるのですよ。他人に依存することによって自分のプライドもある程度犠牲にしてしまうような卑屈な生き方をしないですむのですよというのが、この2つの本が大きく言っていることです。

皮肉なもので、お侍さんの士農工商の時代から、みんなが平民になって平等な世界の中で、今の民主主義とは違って全然不十分でも、当時の近代国家の民主主義的な政治を大日本帝国憲法をつくったりした日本がそうやって日本人一人ひとりが、そういう社会の日本人というのはどうあるべきかみたいなのをこうやって本を読んで一人ひとり自覚を持ちながら学問をしたり、自助の努力をしたりして、最後はアメリカに戦争に負けてしまうわけですが、いいかどうかは別にして日清戦争に勝ち、日露戦争に勝って、そうやってアジアの国の中で唯一西洋の国の植民地にならない独立国家として守ってきた日本が、皮肉なもので、当時の民主主義とは100倍ぐらいもっと民主主義らしい日本になって、豊かさも1万倍ぐらい豊かになって、そして、一人ひとりの教育レベルも、日本人の100人に40人か50人ぐらいまでが大学まで教育を受けられるような時代になったにもかかわらず、逆にこの国は民主主義の国として何かを失っているのではないか。この国はそういう民主主義国家としての一番基本の一人ひとりの人間が独立心、自尊心を大切にして自助の気持ちで努力していくという気持ちがちょっとずつ薄くなっているのではないか。

そして、その結果としてジャパン・アズ・ナンバーワンと1990年代には言われたわけですが、たった20年ちょっとでいろいろなランキングでももう2けたになりつつあって、非常にいろいろな人が危機感を持っている時代になっていて、鹿児島で3,000人の社員を抱えて経営をしている私はいろいろな意味でとても苦労しています。

でも、そういう社会になってしまったので、それはそれで経営者は現実主義者でやっっていかなくてはいけないので、その中で会社をつぶさないように最大限の努力をしているのですが、ただ、今日、僕はここで90分ぐらいお話をしろと言われたときに、まず皆さんに申し上げたかったのは、我が社は鹿児島という地域と密着して今後とも企業経営を続けていく会社ですし、もちろん一人の日本人として日本国が沈んでもらったら困ります。という意味では、こうやって今日、僕の話を聞いてくれている人たちの何人かでも、この機会に民主主義の社会に住む一人の日本人として立派な民主主義人という言葉はないけれども、強い気持ちで独立、自尊心を持って頑張ろううと思うきっかけになったらいいなということで、まずはお話を引き受けて、ここから入りました。本来だともっとやわらかいつかみの話から入って、こちらに引きずり込んでから、色々お話をするのが筋ですが、時間もないですし、非常に堅い話から入りました。

決してやわらかい話にはならないのですが、bに移ります。「人はパンのみに生くるにあらず」。これもよく聞く言葉ですけれども、これはだれが言ったか分かりますか。言ったかどうか聞いたことはないですが、これはイエス・キリストが言いました。人はパンのみに生きるのではなくて、ちゃんとキリスト教を信奉しろよとキリストは言ったわけですが、これをもう少し普遍的にとらえると、そういう人はパンだけに・・・パンというのは生活の糧です。別の言い方をするとお金だとか、そういう物欲的なものです。もちろん人間はパンがないと生きていけないわけですが、それだけではなくて何かが人間だったらあるでしょう。すなわち何がしかの精神社会といいますか、キリストの場合はキリスト教という宗教がないと人間として生きていけないでしょう。逆説的に言うと、宗教というか、そういう哲学だとか宗教だとか内面的なものがあって、片やパンを食べないと餓死してしまうわけですから、そういうものもあって両方があって人間でしょうというみたいな話を言ったわけです。

このbの下の方に、先に飛びます。実は先ほど、皆さんにお話をするに、皆さんが理解できる内容、皆さんが興味を持つ話をしないといけない。では、どれぐらいの理解力を前提にお話をすればいいのかなと、いろいろな方と意見を闘わせておりました。ちょっと確認したいのですけれども、僕は皆さんにお話する前にこの高校の倫理の教科書を3時間ぐらい読んできました。

私がここで言いたいのは、人はパンのみに生きるものにあらずという意味において、それが宗教なのか、哲学なのか、もしくは思想なのか、価値観なのか別にして、何がしかの自分のそういう価値基準とか、そういうものがないと・・・もし興味のある人は、もしくは今後、僕の話を全部聞き終わって、僕があなた方に伝えたメッセージに1つの共感を覚えて自分なりに何かしようと思ったら、こういう倫理の教科書でも買って読んでみれば分かると思いますが、人間というのはいろいろな哲学者が出たり、いろいろな宗教家が出たりして、そういう宗教家が言った思想の中に今度は経済学者が出たりして、そして、政治学者が出たりして、民主主義社会ができて社会契約説みたいなのができて、契約という概念の中で、そうやって経済というものが出てきたりして、先ほどから言っている今の社会が当たり前のように最初からあったわけではなくて、いろいろな人がいろいろなことを考えながら、いろいろなことが起こって積み上げられていったわけです。

今、実態は別にして日本の民主主義は形はどこの民主主義に近いか言える人はいますか。実はいろいろな民主主義があるのですが、一番の正統派はどこかみたいな話ができます。いろいろなことが起こって、フランス革命とそれ以上に大切なのはアメリカ独立戦争です。もちろんヨーロッパにもイギリスとかフランスとかあるのですけれども、アメリカ独立戦争の後に独立宣言ができて、そして、ブッシュのころにアメリカの民主主義が一番の正義だみたいな話でイスラム国家をテロ撲滅だと攻めていって、アルカーイダをやっつけるときに誤爆してみたいな話でいくと、非常に話が難しくなってきますが、何が言いたかったかというと、アメリカの民主主義が一番標準の民衆主義みたいなイメージに今、世界がなっていて、しかも、アメリカが一番力がある。確かにアメリカの民主主義は一番自由と平等が実現されているという意味ではある種理想に近いかもしれませんが、それが絶対的な正義で別の文化を攻めるという世界が今、起こっています。

そして、そういう中で日本というのは不思議な国です。民主主義というのはアメリカ独立戦争もそうですし、イギリスの無血革命を除けばフランス革命もそうだし、革命が起こって王様を殺して市民が権利を勝ち取る。血が流れて、それまでにもいろいろな段階を経て得たものが民主主義です。

でも、日本の民主主義は、100分の1ぐらいの民主主義が明治のときに始まったのですが、戦争に負けてアメリカからこれでやりなさいと言われたのが日本の民主主義です。だから、先ほどなぜ人は自由なのですか。なぜ人は平等なのですかといったときに、皆さんが70点ぐらい以上の論文が取れるのかどうなのかと自信を持って手が挙げられなかったのは皆さんのせいではないのかもしれません。

この日本という国が、政治家の人もひっくるめて与えられた民主主義です。あなたはこの看板で今からお店を経営しなさいと言われた。与えられた看板でやってきているから、本当にやっていることは何なのかみたいなのは実は分からないところがあったりします。でも、それはそれでとてもいいことだったわけです。そして、結果的には10年ぐらい前まではそれで日本は繁栄して日本人は皆幸せだったわけですから、それ自体が悪いことではありません。

でも、先ほど言ったように、与えられた民主主義だったら、その民主主義社会を構成する一人ひとりの我々日本人がなぜ社会の仕組みがこうあるべきなのか、なぜこういう原理で自由なのか、なぜ平等なのかがいまいち分かっていないと、ちょっとずつやはりおかしくなっていきます。

そして、そのおかしいところから、今、日本という国はちょっとずつ沈没しそうになっているし、もっと怖いのは日本という船に乗っている人が何で沈没しそうになっているか自体が分かっていないから沈没するという危機感もあまりない。そういうことに非常に、もっと心配になっているのが僕の率直な気持ちです。

皆さんは何のために生きているか、ここで答えられる人がいますか。指しませんから手を挙げてみてください。

ここで手を挙げる人がいたら、挙げる方がおかしいと僕は思います。なぜなら、皆さん今大体18か19です。浪人していて二十歳ぐらいで、俺はこういうために生きていると手を挙げて発表できるほど確固たるものを持っているのは、逆に言えばおかしいと思います。超天才がいたらそういう人もいるのかもしれません。ただ、自分はなんのために生きているのか、30歳ぐらいまでの間に答えができるようなつもりで毎日を生きるべきだと思います。

そういうこともこの教科書には書いてあります。高校でちゃんと勉強した人は、ああ、書いてあったなと思うと思います。僕は今その質問を受けたら、こういうふうに答えることにしています。自分が棺桶に入るときに、自分の人生を振り返ったときに、ああ、俺の人生は悔いない人生だったねと思えるように生きよう。哲学的にそういうことを言っている人もいます。人間は死ぬために生きている、よりよく死ぬために生きている、そういう話は難しくなってしまうのですが、ある人から聞いた話で、この間亡くなったアップルコンピュータのスティーブ・ジョブスは毎日朝起きて鏡の前に立ったときに、僕が明日死んだら、それをしたこと、しなかったことで後悔するかどうかを考えて今日一日の行動を決めるみたいなことを言ったらしいです。

参考になるかどうか別にして、皆さんももう既にそんなことは考えておるわいという人もいるでしょうけど、もしあまりそういうのに頓着ない人がいるのだったら、そして、僕の話を今日聞いて、今からそういうふうに思いながら生きてみようかな、焦らないでぼちぼち考えるようにしたらよりよき人生が送れるのではないかなと私は思います。

人はパンのみに生きるにあらずという部分で、では、自分はパン以外のところはどういう価値観を大切にしていくのか。そして、そういう自分の生き方を貫き通すためには、そういう己(おのれ)のプライドを守るためには自助、己で己を助けていけば、天もそれを見ていてくれてどこかで天は助けてくれるだろう。道が開けていくでしょう。そして、そのためには、福沢先生ではないですが、やはりちゃんと勉強をして・・・勉強というのは別にテストの点を高める勉強のことを僕は言っているわけではないです。いろいろなことを学んで・・・学ぶだけではないです、日本では勘違いがあって、日本は学ぶとか勉強というと知識を習得するだけです。知識というのは使うものだから、知識だけ習得しても何の役にも立ちません。もちろん知識を習得しないと、使うものがなければ使い方を知っていてもだめです。知識を習得して知識の使い方も学び、そして、知識と知識を足して、1+1を3になる知恵を、想像力を鍛える、そういうのをトータルで私は学ぶと言っています。

ここまでで一段落します。レジュメの2ページ目のgを見てください。「カレーライスとライスカレー、どちらが英語ですか」。この質問に関して答えは4つあります。両方とも英語ではないが1つ。両方とも英語だが1つ。カレーライスが英語だが1つ。ライスカレーが英語だが1つ。

ちょっとアンケートを取ってみます。

カレーライスが英語だと思う人。

ライスカレーが英語だと思う人。

両方とも英語だと思う人。

両方とも英語ではないと思う人。

僕の独断と偏見があるかもしれませんが、ライスカレーは英語ではありません。ライスアンドカレーが英語です。カレーライスは、日本語でカレーライスを和英で引くとカレーライスかカレードライスが出てきますからカレーライスは英語だと認定していいのではないか。ただ、僕は3年ちょっとアメリカにいましたけれども、大体基本的にはカレーアンドライス、アンドを入れます。辞書にはウィズと書いてありますが、カレーウィズライスなどとはあちらではあまり言いません。アンドを入れる方がポピュラーだと思います。

何が言いたいかというと、昔習ったと思うのですけれども、日本は外国から、特に中国から、仏教も儒教もいろいろなものを入れて、そして、漢字を入れて、ひらがなに変えて非常にいい文化がアップしました。日本は外来からの文化を吸収して日本人的にそれを進化させ、そして、日本人的に変えてよりよき文化にして高めていくと皆さんは習いました。

中国語は今、共産主義になって以降、漢字などは少しシンプルにしたり、韓国も国粋主義的なものがあって今の若い人は漢字が読めなかったりするのですが、基本的には中国、韓国、日本は漢字の国として千何百年きたわけです。僕はあまり詳しく知らないのですけれども、韓国はハングル語があり、中国は漢字しかないわけです。僕は中国語はしゃべれるわけではないのですけれども、日本はひらがなとカタカナがあります。例えば民主主義、英語でDemocracy、カタカナでデモクラシーと書いても通じます。こういう言語の体系を持った国は僕の知る限り日本だけです。逆に中国は漢字、そういう当て字はすごく難しいらしいです。

何が言いたいかというと、日本という国は外から入ってきたものを吸収して、それを日本流にアレンジして強みにしていくみたいな話です。言い換えればすごく軽いです。フランスはすごい厳格で、ほかの国から入ってきた言葉などは簡単に入れない国です。「韓流」にしても、言葉は正しくないかもしれませんが、意外と無批判にさっといきます。アメリカ文化も、何の抵抗感もなく、もう君たちはファーストフードを文化の方が馴染んでるわけです。1週間に1回はマクドナルドを食わないと落ち着かないとか、そういう雰囲気です。だから、日本人は軽いとわざと言うのですが、軽みが強みです。

でも、日本人はそういう受容性みたいなものが逆に今、弱みになっているのかなという感じがします。例えば今、カレーライスとライスカレーの話をしましたが、そういうことに関して、いい悪いは別にしてあまり深く考えません。カレーライスとライスカレーなんて、こんなばかげた話をすること自体、どちらでもいいではないか、ご飯の上にカレーが乗っている、言っているものは同じなのだから、日本はそういうところがあります。

でも、冷静に考えるとカレーは日本の食べ物ではありません。しかも、インドのカレーは基本的には、私の知る限りご飯とはミックスしません。インド人は日本でブームになっているナンというパンみたいなピザの生地みたいなものに付けて食うし、実際カレーのルーだってインドのカレーと日本のカレーは微妙に違うし、ましてやインド人は牛、豚は食わないのだからビーフカレーはあり得ません。

カレーだから、こういう議論をしていても、しょうもない議論するなという話になりますが、またちょっと堅くなるような話ですが、では、デモクラシーという社会制度が日本に入ってきたときに、それはデモクラシーでも、民主主義でも、カタカナで書くデモクラシーでも、英語で書くデモクラシーでも、アメリカのデモクラシーでも、イギリスのデモクラシーでも、デモクラシーだったら何でもいいかという話にはなりません。

今、例はたくさんありますが、そこだけで止めておきます。

その次の◎にHowとWhatとwhy(When,Who,Where)と書いてあります。これは5W1Hの話で習ったわけですが、iPad、iPhone、どこが違いますか。例えばiPhoneは、本当に何にも知らない人・・・火星からやって来て、地球人とほぼ同等の文明を持って、ある程度共通のコンセプトを持っている。iPhoneはなかったとします。そして、君に「おまえ、それは何だ」と聞いたとします。そのときに「わあ、そうか、それはこういうものなのか」と火星人が納得するように、ちゃんと説明する自信がある人は手を挙げてみてください。

そして、その隣にiPadが置いてあったとします。その火星人に「単に大きさが違うだけか。このiPadでもしもしするのは大変だろう。極端に小さいのと極端に大きいのとで、この真ん中ぐらいは何でつくらなかったのか」と質問されたら皆さんはどう答えますか。

iPadを持っている人は手を挙げてください。大学1年生ぐらいだと、あまりいませんね。iPadを持っている人で、携帯の回線を契約している人はあまりいませんよね。iPadはコンピュータでiPhoneは電話でという話ですけど、でも、実際はiPhoneでインターネットもできるわけだから「これはコンピュータではないか」と火星人に聞かれたら、そうだ。これは、だから、携帯電話とコンピュータの小さなやつが2つ載っている機械だ。でも、これは大きいやつだけど、大きいから携帯電話の方は契約していない、だから、これは、パソコンなのだと答えるのが正解なのかもしれません。

また変な話をして、こいつ何を言いたいのだろうと思うでしょうから次に行きます。

では、逆にiPhoneを使っている人はいますか。

あまりいません。

携帯でもいいです。その火星人が「これはどうやって使うのだ」と聞いたら、これはこうやって、こうやって、こういうこともできるんだよみたいなのは全員自信があるでしょう。「メールの仕方を教えてよ」「メールもできねえのかよ」。「面倒くさいわね」とか言って皆さんお母さんとかお父さんに教えるでしょう。そして、皆さんの世代のお父さん、お母さんは一緒に来るこれぐらい分厚い説明書を読みながら「よく分からないわ」なんて言うけど、皆さん方はほとんど説明書を読まないでしょう。そして、いじりながら、そのうちに身につけていて、分からないときはたまに友だちに聞いて「おい、こんな使い方、知ってるのかよ」「知らなかった」「こんなこともできるんだぜ」みたいな話の世界で皆さんは使っていますよね。

これを僕流に解釈すると、日本はよく言われるハウツーの時代になってしまっているのです。だから、皆さんはハウツーはめちゃくちゃ強い。小さなときからたたき込まれています。ハウツー、テストでどうやってよい点を取るのか。ハウツー、どうやったらいじめられないか。ハウツー、携帯電電話、どうやったら人より上手に使えるか。ハウツー、いい就職をするためにはどうなのか。そういう情報は山ほどあふれています。あなた方の親はあなた方が幸せになっていい暮らしをしていくために、いい人生を送るために、一生懸命お金をかけてハウツーは一生懸命インプットしてきて、あなた方もそうやって一生懸命やってきました。悪いことではないのです。

でも、どちらかというと、今の時代、そして、先ほどの民主主義の話にまた行ってしまうのですけれども、僕は特に個人的にWhy、なぜというのを大切にしてほしいです。今、技術が進んでしまってなかなか難しいです。でも、別に本当の意味で技術的なものをマスターしなくても、やはり「なぜ」という部分に自分なりの理解を持ってほしいし、先ほど言ったように、Whatです。What is itと言われたときに、やはり自分なりにThis is 何とか。This is 何とかと言ったときに、This is カレーライスでは困るのです。This is カレーライスといった、そのThis is カレーライスの本質のこれは何なんだ。ただ、こういう形をしてこんなものはカレーライスと呼ぶんだよという知識は与えられているけれども、それは何なんだみたいなところは、結構今、日本の教育では教えてくれません。でも、これはひょっとしたら習うものではなくて、自分で自分なりのWhatをつくっていくものです。

一番究極はWhat is your lifeなんです。逆に言えば、皆さんは幾つで死ぬか知らないけれども、最後、What was my lifeと言ったときにMy life was 何たらかんたらと言えるような人生を送るみたいな、そういう生き方が大切なのではないかなということを先ほど申し上げたのですが、そういう人生も結構マニュアルチックな知識だけではなくて・・・携帯も上手に使いこなせないといけないわけですから、それも必要ですよね。でも、100%そこだけで勝負するのではなくて何%かはやはりWhyとかWhatというところに少し意識を持っていくのは大切なことだと僕は思います。

ひとつとりまとめ的なものをしないといけないのですけれども、学長さんからも会社を経営する人間として、日ごろ僕が個人的にどう考えているか、どんなことで苦労してきたかみたいな話が皆さんの参考になる、そこはぜひ話してくださいと言われましたので話をしたいと思います。

僕は高校時代からこういう理屈が好きなもので、受験とは関係なく、倫理社会とか政治経済は結構熱心に勉強しました。俺は何のために生きてるのかみたいな話は自分なりに結構問題意識を持ってやっていました。今、経営者になって、そして、日本の国の会社の日本人としている中で、しかも鹿児島という地方で、最も地方らしく、地域でやっている中で、そして、十数年前にアメリカからグローバリズムで日本の社会制度自体が、おまえの国の社会制度はおかしいのだ、こういうふうに変えなさいと言われて、それに賛同する日本の政治家とかメディアがいて、そして、日本は大きく変わった中で結果的には東京が、大都会が一人勝ちして地方はとても貧しくなった。人も少なくなって、当然そこで経営している会社はどんどん儲からなくなって赤字が出て、若い人は皆東京に出たくて、人さえも満足になかなか欲しい人が採れないみたいな中央と地方の格差。そして、先ほどから言っている日本の国の衰退みたいな中で会社を経営したときに、経営者だからリアリスト、現実的に日本の社会が悪いからけしからんみたいな話だけ言っていても会社はつぶれてしまうわけです。

でも、それはそれで置いておいて、なぜ日本はこんなにだめになってきたのか、何が悪いのか、そして、その影響がうちの会社にどういうふうに出ているのか、そして、うちの社員が何でこういう仕事ぶりなのだろうか、いろいろなことで考えたときに、大きくくくって日本の国がこういう問題を抱えていて、だから、こういうふうになっていて、だから、人のせいにするわけではないけれども、経営者として楽な経営もできたかもしれないけれども、何でこんな苦労をしなければいけないのかみたいな。でも、こうこうこうだからなんだな。そういうことが本当に大きく日本をすぐ変えることはあり得ないけれども、では、ここに来て皆さんにこういう話をして「そうか、俺はやっぱり鹿児島のために、自分をまず独立自尊をしなければいけないのだな」と思う人が1人でも増えることが鹿児島がよくなるきっかけだし、鹿児島がよくなれば日本もよくなっていく。地方がよくなれば日本もよくなるという話です。

日本は戦争に負けて何もないところから立ち上がったわけですが、そのときに、だれが考えたのか、ひょっとしたら、だれも戦略を考えない国だから、だれも考えなくて、結果論かもしれないけれども東京とか大都会に人間、お金、もの、情報とかの資源を集めて、そこで車をつくったり、鉄鋼をしたり、鉄をつくったり、肥料をつくったり、コンピュータやテレビをつくったりしてそれを輸出する、徹底的にそういうものの強さでと言って1990年ごろは世界でトップまでいったわけです。

皆さんちょっとここは覚えておいた方がいいですが、人間というのは、怖いのは1つ既成概念にとらわれて大失敗をするケースがあります。もう1つ、日本人はこれが多いのだけれども成功体験、あることをして1回成功するとその戦術、戦略、そのパターンで成功するとまた2回目でこの2匹目のどじょうをねらうみたいな話です。

日本は戦争に負けて、爆撃でやられたところから、そうやって東京を強くして、製造業を強くして、人間をそこに集めて大会社をつくって、そして、その下に下請け企業をつくって、トヨタができ、ホンダができ、がんがん輸出してGMをつぶし、クライスラーをつぶし、それで勝った、ざまあみやがれ。ところがアメリカはその日本を分析して、こうやってこうやって日本をこういうふうに変えて、日本のいいところを学んで逆に日本の強いところをくじいて、あっという間に20年間またこうです。そのときに、日本はその成功体験が捨てられない。相変わらずです。間違っているかもしれないけれども、その成功体験では日本は復活できません。逆に先ほど言ったように東京だけを強くするのではなくて、地方が強くならなければということになります。そして、最後はやはり会社の強さ、国の強さ、そして地域の強さというのは人です。そして、その「人」は一番大切なのはどういうマインドを持っているのか、どういうハートを持っているかです。

ということで、ちょっと話は反れましたけれども、僕はもともと高校時代からこんなことが好きなので、理屈っぽいことでずっといろいろなことを考えながら、そういう負け組の地方のバス会社とか船会社、観光客が激減した指宿や霧島のホテルの経営者として、負け組の企業として闘ってきたわけですけど、やはりどうやって我が社を強くするのか。どうやってその基盤となっている鹿児島を強くするのかみたいな会社の経営者が民主主義の話をするのは変だと皆さん、思うでしょう。

会社の経営者が人はパンのみにあらずに生きるものにあらずなんて。どちらかというと会社の経営者はパンはどうやって増やしたらいいですかみたいな話です。でも、そこは今の日本の大きな間違いだと僕は思います。この教科書の中に自己実現とか功利主義という部分があります。功利主義というのは最大多数の最大幸福ということで民主主義が多数決でなっているのの基本的な原理になるわけです。そういうのが載っているのですけど、この中に、人間というのは自己実現、自分の創造的なものをするとか、そういう自分の価値観の高いもので、こんなことをやったのだみたいなもので大きな幸福を得て、おいしいものを腹いっぱい食べた、ああ、食った、食った、満足というのも人間にとっては1つの幸福感ですけれども、例えば、皆さんだったら文化祭で何かやって非常に大成功をしたときの幸福感、満足感も自己実現で、人間というのはそういう2つの自己実現欲求というものをどうバランスよくするかみたいなのが究極のテーマだと思っています。

だから、私はうちの会社は営利企業だから、どうやったらパンをいっぱい食べられるようにしますかという話の中で、もう1つは悲しいかな地方のそういうあまり利益の出ない企業の経営者というのは、それだけだったら、給料もたくさん出せなければ社員はだれもいないですよね。そこで大切なのは俺が頑張ってるから鹿児島県の交通は基盤が持っているのだとか、俺が頑張ったからたくさん観光客が来て鹿児島県も少し潤ったのだとか、そういうパンとは違うプラスアルファのところに、やはり1つの、うちの社員が自己実現欲求が満たせるような、そのバランスを取った会社にして初めてうちの会社は存続が継続的になるということが担保されるのかな。

今、事業経営の世界では継続性という言葉、横文字でサスティーナビリティと言います。日本自体がサスティーナビリティがうたわれる時代に、中央と地方の格差にあれば、鹿児島のサスティーナビリティ自体の危機感がある中で、当然、鹿児島を基盤とする我が社のサスティーナビリティを経営者としてどう確保するかは私の使命なわけです。そのときに、パンだけではない、そこにうちの社員全員がそういう企業活動の中で、地域との関係で1つのそういう自己実現欲求の満足感を感じてくれる、ちょっとかっこよく言えば同志をどれだけ集められるのかみたいなのが私は我が社を守ることになるのではないのかなと思って経営をしております。

経営の話で参考になったかどうかは別にして、gを言わないと完結しないので、最後ものの考え方を皆さんに偉そうに教えて終わりにします。

なぜなら、先ほどから言っているように日本はハウツー教育が先行してしまって知識だけをただインプットしています。脳というのは記憶もあるけれども、重要なのは論理的な思考をするとか、1+1を3にするような発想をする、そういう方にも脳を使わないといけないのですが、皆さんはあまりそちらでは教育を受けていません。だから、そういう脳の使い方を日本の教育はどこかで曲ってしまったのですけれども、サイバナティクスという学問があって、30年か40年前ぐらいにできた学問で、これは何のことはない、いわゆるロボットをつくりましょうみたいな話になったのです。

いわゆる人間の動き、目から情報が入って、そして、脳に行って、そして、出てきて、もしくは、皆さんの態度を見ながらして、脳がある判断をして、口から言葉を発せられる。そういうふうに人間というのは情報を外部と内部とやりとりして、そして、ここで最後、判断をして外にまた出していって、その判断が戻ってきてみたいな。言い換えれば、コンピュータで言えば私もシステムですよね。岩崎芳太郎というシステムを、これは内部環境と呼んで、ここの周りを外部環境といえば、まず、岩崎芳太郎というシステムは皆さんに言葉を発してアウトプットするわけです。そして、その外部環境からフィードバックがあって、インプットされて、脳に行って判断をしてみたいな。皆さんだって実は同じことをしています。ある種、人間が生きるとか、人間がものを考えるとか、マネージと書いてありますが、ここでいけばマネージというと経営ですけれども、皆さんだっていろいろなことを仕切っているわけですから毎日をマネージしているわけです。人間が生きる、人間がものを考える、人間がそうやって経営をする、マネージしているということ自体はそうやって外の環境と自分という内なる環境とを情報をインプット、アウトプットしながら、それをフィードバックと呼んで判断していくということです。

そのときに、先ほどの話のカレーライスに出てきて、皆さんにインプット、タナカハナコさんという人のシステムにカレーライスというインプットがあったときに、先ほど言ったように、それはカレーライスという言葉でとらえてインプットしてしまうと判断ミスをしてしまいます。カレーライスという言葉というか、その単語が言っている本質的な意味は何なのかというのを、まず自分が判断して、そして、HowではなくてWhyとWhatというところの目線で自分なりにものを考えて、では、だから、こうだからと言って、何かアクションを起こしてみる。そのアクションに対してリアクションは当然あります。そうしたら、それをまたフィードバックして、あ、違った、違ったみたいな話になっていくわけです。

戻ってきたときに、その最初の情報がカレーラースというのとライスカレーが実は違ったり、一緒なのかみたいな話で、そこが分かっていて返ってきた話がカレーライスとライスカレーは一緒のものではない世界の中でカレーライスとライスカレーは一緒だという前提条件で情報を判断していれば、一緒ではないから予想と違ったリアクションが返ってきます。その予想と違ったリアクションが返ってきたときに、カレーライスとライスカレーは同じものだと思っている人間は「えっ、何でこんな反応はあり得ない」みたいな話になるわけです。

でも、カレーライスとライスカレーは実は違うのだ。そして、ここで今入ってきた情報はカレーライスなのか、ライスカレーなのか。これはライスカレーだと思ってしたときに、それは品質として「あ、違うわ。これはライスカレーではなくてカレーライスだったのだ」と思えば、次の情報はひょっとしたら的確なリアクションができるとなるわけで、意外と日本人が陥りやすいのは情報のその定義、概念みたいなところをやはりきっちり分析してものを考えた方がその次のアクションからリアクションに関して、それが間違ったときに次の判断が正しくできやすいところがあります。

最終的に支離滅裂になりましたが、最後ぜひ時間をかけて自分が何のために生きているかを考えてください。そして、日本が間違った方向に行かないような、民主主義の貴重な、重要な、正しい民主主義人としてどうあるべきかというのも少しは考えてください。そして、皆さんが何十年か先に棺桶に入るときに俺の人生はよかった、満足いくものだったと思いたければ自助心、独立自尊ということを大切に思って頑張ってほしいし、学問をすることをお薦めいたします。

以上です。
ご清聴ありがとうございました。