2019年度【第1回講座】明治維新150年 再検証 西郷隆盛~現代日本の礎を築いた明治期の西郷~

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾

2019年度講座内容

【第1回講座】 明治維新150年 再検証 西郷隆盛 ~現代日本の礎を築いた明治期の西郷~

講師
町田 明広氏(神田外語大学准教授)
場所
三州倶楽部(東京都品川区上大崎1丁目20-27)
放送予定日時
2019年09月21日 土曜日12:30~13:00 ホームドラマチャンネル
2019年09月22日 日曜日06:30~07:00 歌謡ポップスチャンネル

※以降随時放送
詳しい放送予定はこちら(ホームドラマチャンネル歌謡ポップスチャンネル)


町田 明広(まちだ あきひろ)
神田外語大学准教授(日本研究所副所長)/明治維新史学会理事

1962年生まれ。長野県長野市出身。歴史学者:日本近現代史(明治維新史・対外認識論、特に幕末の薩摩藩)。神田外語大学准教授(日本研究所副所長)。
上智大学文学部ドイツ文学科、慶應義塾大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科修士課程・同博士後期課程修了。2009年「文久期中央政局における薩摩藩の動向」で文学博士。明治維新史学会理事などを歴任。
主な著書:
『グローバル幕末史 幕末日本人は世界をどう見ていたか』(草思社, 2015年)
『歴史再発見 西郷隆盛 その伝説と実像』(NHK出版,2017年)
『薩長同盟論』(人文書院,2018年)

講義内容

 

西郷隆盛というとどうしても幕末期の英雄、明治維新を成し遂げた大偉人という形で語られることが多いわけですけれども、実は西郷というのは一人の人物の中に革命家であり、あるいは政治家であり、教育者であり、いろんな側面を持っております。

その西郷を十分に語るためにはやはり明治期の西郷を理解しなければいけないというふうに考えております。

特に史実だけではなくて、西郷がどのようなことを考えて、そしてまた何を目指して行動していたのか、そういった西郷の内面について深く言及していきたいと思います。

そして西郷が果たした役割を日本の近代史、あるいは現代史の中で位置づけて、西郷という存在がその後の日本にどのような影響を与えたのか、そこの部分について特に深く掘り下げていきたいと思います。

 

<藩政改革>

戊辰戦争が始まり江戸無血開城が終わったところで、西郷の軍人としての役割はいったんここで終了いたします。西郷はその後鹿児島に戻りまして藩政改革を行うことになりました。

この西郷の藩政改革というのは、まさに封建制度にまず最初の風穴を開けるような大改革といってもよかったかもしれません。というのも武士階級の中には薩摩藩だけではなくて非常に大きく階級が分かれていましたけれども、西郷は門閥、いわゆる貴族階級ですけれども、そういった大きな大名の禄高も8分の1程度に抑え、そして基本的にはすべての薩摩藩士の俸禄を平等にするというような改革を行いました。そして薩摩藩を軍事大国に仕立てていくわけですけれども、これは将来の新しい戊辰戦争、第二の戊辰戦争に備えるようなところもあったかもしれません。

西郷のこの藩政改革というのは、革命家である西郷、封建制に穴を開けていき、武士の平等化を図る、そういった西郷の側面もあったわけですし、それを実現していった西郷の政治家としての力量も非常に評価されるべきところであると思います。

その先の廃藩置県につながっていくような、西郷の大きな活動のスタートであったというふうに考えることができると思います。

 

<廃藩置県>

藩政改革を実行していた西郷ですけれども、西郷をそのまま鹿児島に留めておけないような状況が新政府の中で起こっておりました。新政府は財政難でもあり、そして中央集権化がなかなかできない状態にありました。当時の日本は明治維新を迎えたといっても、まだ300ぐらいの藩が存在していて、国の中はバラバラな状態にありました。そこで廃藩置県を実行しようと新政府は考えていましたが、それを実行するリーダーがいませんでした。

そこで明治3年に岩倉具視と大久保利通が鹿児島にやってきて、西郷を引っ張り出すことに成功します。

西郷は明治4年に上京しましたが、この大改革を行うためには新政府に兵力がない、これが一番大きな問題であるということに気がつきます。そこで西郷は薩摩、長州、土佐という明治維新を成し遂げた3つの藩が協力をして、そして朝廷の新しい国家、明治国家の天皇の軍隊、「御親兵」を作ることによって一気に廃藩置県を実現しようとしました。

しかしこの廃藩置県ですけれども、実は明治維新といっても世の中がほとんど変わったわけではなくて、実際にはこの廃藩置県こそが「維新」といっていいような大変革になりました。すべての大名が潰されてしまい、そして天皇のもとに新しい国家がスタートするということになります。当然そこには大名による反対であったりとか、あるいは反乱というものが予想されていたかもしれません。そこで西郷は御親兵を用意したわけですけれども、新政府の中でどうしてもそれに対して反対意見がたくさん出ました。というのは、日本全体が蜂の巣をつつくように大混乱になってしまうと、せっかくの維新が崩壊してしまうかもしれないわけです。そこで薩摩、長州を中心として繰り返し会議が開かれていきましたけれども、結果としてなかなか決断ができませんでした。そこで西郷は、ここでこの廃藩置県を実行しなければ、もう日本の将来はない。もしこの廃藩置県に反対する藩が出た場合は、自分がこの御親兵を引き連れていってその藩を叩き潰す。西郷のこの発言によって新政府内の躊躇する雰囲気は一変します。あの大久保も最後まで廃藩置県に対して躊躇していましたが、西郷のこの決意を聞いて、このまま座して新政府の死を待つよりも、むしろ打って出たほうがいいということで賛成に回りました。

西郷のこの英断によって日本は近代日本に突き進むことが可能になりましたけれども、

一方で西郷の中には、自分によって封建制が崩壊し、そして武士の拠り所である藩がなくなったことによって武士をこれからどうしていくのか、西郷には革命家としての西郷と、そして政治家あるいは軍人としての西郷、多くの葛藤が彼の中にあったかと思いますけれども、将来の日本を考えてこの廃藩置県を断行したというふうに考えています。

西郷がいなければ近代日本はスタートできなかったと言うことができます。

 

<西郷内閣>

廃藩置県が終了した直後に、岩倉使節団が欧米に向けて出発をします。この岩倉使節団の中には岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった、そういった明治の重鎮たちがここから約2年間、日本を留守にしてしまいます。

岩倉使節団が出発した後の日本の政府は、西郷内閣と言われる時代に入っていきます。三条実美がトップにいましたけれども、事実上は参議である西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、この3人が中心になっており、そして事実上のトップにいたのが西郷隆盛でした。

実はこの2年間の西郷内閣というのは、非常に大きな成果をあげた2年間でありました。

例えば西郷内閣が行ったものとしては、地租改正があり、徴兵令があり、あるいは学制がありといったような形で、その後の近代日本、あるいは現代のわれわれにもつながるようなことを西郷内閣はたくさん実行しています。私たちが今使っている暦も、西郷の時に太陽暦に替わっています。

大久保が目指していた近代日本というのは、天皇の専制化のもとに官僚国家を作ろうとしていました。しかしこの西郷内閣の時にはそれまでの鬱積した雰囲気が一変されて、非常に自由で改進的な空気が満ち溢れてきました。そういう中でこの新しいたくさんの改革が実行されていったわけです。

さらにもう一つ言うと、西郷は戊辰戦争で戦った旧幕府の人間たちをどんどん復権させていきました。例えば勝海舟であり、榎本武揚であり、大久保忠寛であり、そういった人たちは新政府の要人として活躍していくことになりました。木戸や大久保は旧幕府の人間を許すのは早いと言っていたわけですけれども、彼らが岩倉使節団でいなくなった直後に、西郷はそういった旧幕臣を復権させて、そして政治に関わらせるオールジャパン的な発想を持ってこの西郷内閣を高めていったわけです。

この西郷内閣というのは、あまり評価されていませんけれども、私は非常に評価すべき時代であったというふうに思います。この2年間によって日本の新しい方向性が見えた可能性もあったわけです。

実は西郷と一緒に西郷内閣を支えていた大隈重信ですが、大隈がこの西郷内閣の息吹というか、考え方を引き継いでいくことになります。西欧的な、すごいスピードの西欧化ではなくて、もう少しゆっくりとした、アジア的な、日本的な良さも残しながら近代化していく。

西郷が明治6年政変で敗れ、また大隈が明治14年政変で敗れたことによって、この西郷の非常に、日本を近代化するけれども拙速ではなく、そして日本の良さも残しながら進めていくという近代化路線、これが頓挫してしまうことになりました。この西郷内閣ということをもっともっと私たちは理解し、そして評価すべきであると思います。

 

<明治6年政変>

西郷内閣が内政改革に邁進している時に外交問題もいくつか持ちあがってきました。その中でも朝鮮問題というのが非常に大きな課題として西郷内閣に降りかかってきました。

朝鮮問題をどうするかというのは幕末以来の大きな課題でありましたが、西郷内閣の時代に朝鮮が在留日本人に対して暴行を働く、あるいは日本の開国の要求に応えない、こういったことに関して板垣退助は、出兵して朝鮮を開国し、そして在留邦人を救うべきだという考え方に変わってまいりました。

そんな中で西郷は、いきなり朝鮮に出兵するのではなくて、まずは話し合いによって解決すべきではないか、そしてそれを踏まえた上で次の段階に行くべきではないかということを西郷は主張することになります。

ここがいかにも西郷らしいところで、板垣のようにいきなり武力をもって最初から相手を叩くということではなくて、まずは一応話し合いに持ち込むと、そしてそれでうまくいかなかった場合にその次のタイミングとして武力を用いるんだと、これは西郷が幕末以来培ってきた戦略ではありますが、非常に慎重であり、かつ大胆な戦略であったというふうに考えます。

そして西郷は西郷内閣の時に、自らが朝鮮に渡って使者の役割を果たすことを決めていくわけですけれども、そこに岩倉使節団が帰ってくることになります。

よく言われるのが、この明治6年政変というのは岩倉使節団が欧米を見てきたことによって、その欧米に追いつくためには戦争をしている場合ではない、まず内地優先で、日本の殖産興業を図るべきだという意見、そして西郷の、いやそうではなくて朝鮮に攻めていくべきであると、この内地優先派と外征派の戦いというふうに長いこと言われてきていますが、実際には実は、西郷内閣対岩倉使節団というふうに見るのが正しい構図ではないかと考えております。

大久保は2年、そして国費で100万円以上かけて欧米を視察してきましたけれども、実際にはほとんど成果をあげることができず、条約改正交渉もスタートすることができませんでした。そして大久保たちが考えていた近代化路線、つまり天皇専制による官僚主義的な国家形成、これが西郷内閣によって、非常に自由で進取に満ちた新しい、非常に民権派重視の雰囲気に変わってきていたことに驚かされます。

大久保は自分の居場所がないと感じるようになり、なんとかこの西郷内閣を潰してしまわなければいけないというふうに感じるようになります。

西郷が征韓論者であったかどうかということもよく言われるところですが、当時の日本人であれば、ロシアの南下という大きな課題を前にして、やはり朝鮮というものを、その防波堤にすべく朝鮮と友好関係になる、あるいはそれ以上に自分たちの領土にしてロシアに備えるというのは当たり前の考え方です。西郷もまず自分が使者として行ったとしても、その後自分が犠牲になってでも朝鮮を領有しようという考え方を持っていたことは間違いありませんでした。

この征韓論争、明治6年政変ですが、西郷一派が負けてしまい、西郷内閣が負けてしまい、西郷内閣を構成したメンバーは全員が下野するということになりました。

ここで西郷が目指していた自由でそして民権に重視した、庶民を重視したような近代日本路線がいったん頓挫し、また大久保が目指す厳格な官僚主義による、早く欧米に追いつき追い越せというような、そういう近代化路線の方向に戻ることになりました。

西郷は下野して鹿児島に戻り、そしていよいよ西南戦争に向かって突き進むことになります。

 

<私学校>

明治6年政変後、西郷が下野いたしましたが、明治政府は大久保利通政権が完全に成立しました。

大久保と西郷というのは幼馴染であり、そして幕末、そして明治維新と常に一緒に行動を共にし、江戸幕府を倒し、明治国家を作り上げたそういう盟友でありました。その二人がこの明治6年政変を巡って大激突をしてしまい、そして破裂してしまったわけですが、西郷は鹿児島に戻るにあたって、わざわざ大久保邸を訪ねて大久保に別れの挨拶をしています。

西郷は終始、この後も基本的には大久保に対して恨みを持っていたわけではなくて、大久保に対しては、この後明治政府を任せた、大久保がいるから大丈夫だということで、大久保に対しては常に変わらないような盟友的な感覚を持っていたと言えます。

一方で大久保のほうは西郷に対して距離をこの後も取るような形になっていきます。おそらく大久保にも非常にバツの悪さもあったかもしれませんが、大久保は自分が目指している近代国家を作るために、西郷という、盟友である西郷という存在を彼の中で消し去る努力をしていたのではないかというふうに考えています。

下野した西郷ですが、西郷を慕ってたくさんの若者たちが軍人や警察官などをやめて西郷の下に集まってくることになりました。そういった血気盛んな若者たちを統制するために、西郷は明治7年には私学校という学校を造ることになりました。

私学校はいくつかの組織に分かれていますが、銃隊学校であり、砲隊学校であり、そういった軍事操練を中心とする学校もありましたが、士官を作るような賞典学校、あるいは農業を進めるような農学校も造っています。章典学校の学生の中では成績優秀者をヨーロッパに留学するような、そういった制度もあり、実際に留学をさせています。西郷は封建制に戻るということではなくて、未来志向を持ちながらこの私学校を運営していたことがよく分かるかと思います。

この私学校の教育方針ですが、これは幕末以前から薩摩藩で行われていた「郷中教育」のシステムをかなり取り入れているというふうに考えております。

この郷中教育というのは、通り一遍の、上から知識を詰め込むようなそういう教育ではなくて、自らが問題を発見し、そしてそれを検討し、その解決方法をディスカッションしながら見つけていくような、そういう教育システムです。今で言うところのケーススタディであり、あるいはアクティブラーニング、こういったものの走りがこの私学校の教育の中には見られるということになります。

この教育システムに共鳴した人間として福沢諭吉を取り上げることができます。福沢は幕末期に慶應義塾を立ち上げていますが、福沢の目指していた、福沢の人材教育のスローガンである「独立自尊」、これがまさにこの私学校の教育方針に合致するところでした。つまり自らが考えて、そして自らがその問題を解決していく。これがまさに慶應義塾の教育方針でしたが、これがこの私学校の中に生かされていたことになります。

福沢は実際には西郷に会うことができませんでしたが、常に西郷を擁護し、そして西郷を評価していました。西郷を政治家としても教育者としても福沢は評価をしておりましたが、特にこの教育“人を創る”という部分において福沢は西郷に共鳴していたのだと思います。

 

<西南戦争>

私学校を発展させた西郷ですが、その間、日本の政治は非常に大きな変動期を迎えていました。一つはまさに板垣退助が進めていた自由民権運動という大きな、武力ではない言論による政府打倒の動きがありました。

一方で武力による政府打倒の動き、つまり不平士族の反乱も各地で起こり始めていました。そういう中で西郷は、例えば江藤新平による佐賀の乱のときにも、その援助要請に対しても断るなどして、大久保政権に対して反旗を翻すということはしていません。この事実をもっても西郷が大久保憎しということで下野したわけではないということが分かるかと思います。

しかしながら鹿児島というのは近代国家を目指していく日本の中で、独立国家のような存在になっていきました。これは中央にいる大久保利通や木戸孝允にとってみると非常に危険であり、そして断じて許せない、そういう政治状況になっていたと考えられます。

そこで大久保は、むしろ西郷たちに反乱を起こさせて、そして鹿児島を潰してしまう、西郷王国を潰して日本の一部にしてしまおうというふうに考えていったわけです。

西郷は最後まで戦争をする気ではありませんでした。しかし若い血気盛んな連中が、その西郷の意を超えて新政府に対して反感を抱くようになりました。特に大きかったのは、西郷を暗殺しようとして密偵が送り込まれたという事実にありました。結局西郷もこの事実をもって“政府への尋問の筋これ有り”ということで、この暗殺計画について問い質すために立ち上がることになりました。ここで西郷の大久保に対する信頼が失せてしまったと言えるのかもしれません。

西郷は革命家であったわけですが、一方では非常に武士としての魂、旧来依然とした武士道というものを尊んでいるところがありました。大久保と違い、西郷にはそういった情実的なところ、非常にウェットなところがあって、その主筋である島津家を裏切って、そして廃藩置県を実行したことに関して大きな負い目を感じていました。藩政改革当時から島津久光からは「やり過ぎである。行き過ぎである。」ということで非常に大きな不満をぶつけられていました。

久光は西郷だけではなくて、新政府にとってみると非常に腫れ物に触るような、非常に怖い存在でありましたけれども、西郷にとっても終生、特に明治以降、久光の存在というのはストレス源になっていたというふうに考えます。征韓論争のときに彼が朝鮮に渡って殺されてもいいやという思いに駆られた一つの動機として、島津久光との葛藤があったというふうに考えております。

西南戦争は7か月にわたって繰り広げられ多くの犠牲者を出しましたが、西郷軍の敗戦によって終わりを迎えます。西南戦争によってとうとう武士の時代というものが本当に終わることになりました。西郷は廃藩置県によって武士の世の中を終わりにする革命を起こしていきましたが、その残党である武士たちを道連れにするような形で西南戦争を引き起こし、そして幕引きをしたことになるかと思います。

こうして西郷とともに武士の時代が終わり、いよいよ本格的な日本の近代化がスタートするということになりました。

 

<西郷の残したもの>

西郷によって明治以降も日本の良さ、例えば日本の武士のアイデンティティー、そういったものが日本人の中に残されていくことになったかと思います。

西郷というのは清廉潔白なそういう人柄であり、それはまさに武士道そのものでありました。西郷によって江戸時代までの武士の生き方、あるいは武士としての誇り、死に対する考え方、そういったものが現代のわれわれの中に息づいているというふうに考えても過言ではないかと思います。

また西郷がその当時実施していた教育システム、まさにこれが今になって復活してきているのではないかというふうに思われます。そういった西郷の教育者としての素晴らしさというものも改めて見直してみる必要があるかと思います。

もし西郷が生きていたら違った方向の日本の近代化を進めることができたのかもしれません。もっと大げさな言い方をすると、その後日本はこの急進的な西欧化によって先の大戦に敗戦するまで突き進んでいってしまうことになりました。そこではあまりにも日本的な、アジア的な良さをすべて失くしてしまい、猪突猛進に西欧化してしまった弊害が大きかったというふうに考えています。

西郷のような非常に大らかな、そして民権に気を配った、そういう近代化が起こったならば日本がこのような失敗をしなかったかもしれません。やはり西郷の存在というのは、江戸時代だけではなくて、明治時代を通して存在を考えるべきであり、西郷の悲劇性やあるいは断片的な一面を見るのではなくて、西郷の心情であり、あるいは西郷の考えていた将来の日本像というものをあらためて考えることによって、現代のヒントにもつながっていくことになるかと思います。