平成22年度開塾オープニング講座01~今何が地方に必要か~

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾
岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾 平成22年度シリーズ

開塾オープニング講座第1部「真の地方主権」
~今何が地方に必要か~

講師
岩崎 芳太郎(「政経マネジメント塾」 塾長)(岩崎育英奨学会 副理事長)
開催日時
平成22年8月30日(月)13:30~14:30
場所
「リバティークラブ」4Fホール (鹿児島市千日町15-15 リバティーハウス4F)

岩崎芳太郎 (Yoshitaro Iwasaki)

「政経マネジメント塾」 塾長

1953年生まれ
1995年、岩崎育英奨学会副理事長
2002年、岩崎産業株式会社代表取締役社長
現在、いわさきグループ50数社のCEOとして、運輸・観光・製造など幅広く事業を展開

著書:「地方を殺すのは誰か」(PHP研究所)等

講義内容

皆さん、こんにちは。塾長の岩崎芳太郎でございます。まず、ちょっと講義のシナリオとは違うところで申し上げておきたいのですが、既に皆さんお分かりのように、この塾の目的が塾名にも出ておりますとおり、地方をどうやったら良くするかということでやっております。しかもその中でいわゆるマネジメントをきっちりできる人材を地方が育てていかないと地方は良くならないということでもやっていきますので、その辺のキーワードに関してはあえてご説明は省略させていただきます。

マネジメントとは

マネジメントというのはもともとテーラーが、科学的なアプローチをして会社経営というか工場経営を始めたところから始まっていますが、基本的には皆さんご存知のように、ピーター・ドラッカーが20世紀にマネジメントという言葉をこれだけ社会の中で重要な言葉にしました。
「20世紀の最大の発明はマネジメントである」という言葉もあるぐらい、今はもうマネジメントという言葉だけではなくて、それの意味するものが人間社会にとって重要なことだというふうに思われているところも、あえて説明申し上げませんし、プラス、マネジメントが対象とするものは何かということに関して言えば、一般的には組織ということになるわけですが、和英辞書で引きますと最初に「organization」と出てきます。その次に「system」と出てきます。どちらかというと今の世の中は「organization」を対象としたマネジメントという話よりは、対象とするものは「system」というものをいかにマネージしていくかという意味でのマネジメント論が多い。この辺のキーワードは組織という言葉を日本語で使ったときには、どちらかというと「system」を対象としているということでご理解をいただければと思います。

それと塾名にも出ておりますけれども、政経マネジメントということですので、ピーター・ドラッカーは別に株式会社だけをマネジメントの対象としておらず、政治とか経済、それ以外も対象にしており、NPOであれ社会であれという意味においては、この国のマネジメントが不在である、もしくは劣悪であるから今の日本の衰退があるというような意味での対象として、政治や経済をマネージするということで今から話を進めていきたいと思います。ですので、ここはもう言わずもがなのところでご理解して聞いて下さい。

1.政治をマネジメントする~日本のウィークポイント~
野球とベースボール

それでは早速内容に入っていきたいと思います。野村監督が野球とベースボールは違うと言ったことはもう殆どの方がご存知だと思うのですが、皆さんどう思いますか?カレーライスとライスカレーは一緒ですか。人によってはカレーとライスが別々に出てくるのがカレーライスで、ライスカレーはご飯の上にカレーが乗ったものだということを、もっともらしいく言う人もいます。わたしも明らかに別々に出てくる食べ物と一緒に乗ったものは、どう呼ぶのかは別にして同じカテゴリーの食べ物ではあっても別々な食べ物かなと思っています。次にカレーライスの英語名はご存知ですよね。カレー・アンド・ライス。では、ライスカレーの英語名はライス・アンド・カレーですかね。やはり多分カレー・アンド・ライスだと思うのです。

では、次に聞きたいのですけれども、ドライカレーがありますよね。カレー粉でご飯を炒めたものです。あれもカレーライスですか?といった場合に、ドライカレーは英語名でカレー・アンド・ライスだとちょっとおかしくありませんか。似たような話でいくと、オムレツという西洋から来た食べ物がありますけれども、それを日本風にアレンジしたオムライスというものがありますね。あれは西洋料理じゃないのはご存知だと思いますけれども、あれの英語名はオムレツ・アンド・ライスですかね。ちなみに辞書を引いたら、「omelet
containing fried rice」と載っています。

次に行きたいと思います。ラーメンを広辞苑で引きますと、最後に中華そばと出ています。あと和英辞典で引きますと、ラーメンは「chinese noodle」と出ています。ラーメンは「chinese
noodle」なのですかね。「蹴球」これはこのまま訳すとフットボールですよね。われわれはフットボールというと、だいたい幾つぐらいのスポーツをイメージしますか。サッカー・ラグビー・アメリカンフットボール・・・。ちなみにアメリカでフットボールというと、当然アメリカンフットボールのことをいいます。オーストラリアでフットボールというと、実は3種類あり、われわれがラグビーと呼んでいるものを、ユニオンフットボールといいます。それからオーストラリアで始められたアメリカンフットボールみたいでプロテクターを着けないちょっと過激なものは、オージールールというのですが。あと、わたしも詳細は知りませんが、イギリスで始まったちょっと違うものはこれをプロフットボールと呼び、サッカーはサッカーだと。では、フランスではフットボールといったら、あそこは意外とラグビーも盛んなところですから、ワールドカップで優勝したことありますし、ラグビーですかねサッカーですかね。ちなみにフランスサッカー協会のことは確かフランスフットボール・アソシエーションとか呼びまして、「サッカー、サッカー」と言っているわりには世界の競技団体はFIFAといいますから、あれにはサッカーって入っていませんね。

民主主義とデモクラシー

何の話を始めたかというと、皆さんは今の感覚で民主主義とデモクラシーというのは同じものだと思いますか。一応この国の政治体制というのは民主主義ということになっていますけれども、この国で行われていることはデモクラシーなのでしょうか。あとちょっと深入りした話でいきますと、民主政治と民主制というのは百科事典と広辞苑で引いてみますと、同じことなのか違うことなのかよく分からないのですが、「民主政治とは民主主義に基づいて行われる政治」と書いてあります。民主制というのは「民衆の意思に従って政治が行われる政治体制」というふうに書いてありまして、わたしも今民主主義とデモクラシーが一緒なのか、民主政治と民主制は一緒なのかというところが、皆さんにこうだって言えるほど勉強もしておりませんし、そこはこうだっていう話をするために今日こうやって時間を持っているわけではないのですが、この何となく雰囲気だけの話がすっきりしないというところが、逆に言えばとても大切なことだと思うのです。

ちなみに民主制というところの幾つかの用語の中に、君主制というのがあるのです。それから貴族制というのがありまして、民主制というのは「democratic(デモクラティック)~」というのですけれども、君主制というのは「monarchy(モナキー)」といいまして、貴族制というのは「Aristocracy(アリストクラシー)」というのです。こういう政治の形態を辞書で引いてみますと、「国体」と呼ぶらしいです。国体とは主権統治の所在のあり方に関して政治を分類する呼び方なのです。

ちょっと飛びますけれども、似たような話で政体というのがあります。政体というのは日本語の辞書で調べますと、「主権の運用の仕方」というふうに書いてありまして、国体というのは主権や統治権の所在のあり方で政治をカテゴライズすることです。政体とは主権の運用の仕方、例えば専制政治とか立憲政治とか、そういうことを呼ぶらしいのです。ところがもう少しよく調べていきますと、国体と政体というのをこういうふうに分けているのは、どうも日本だけらしい。政治の統治権がどこに所属してどういう政治をするかということをアリストテレスやソクラテス、カント、最近でいくとルソーやロックなどいろいろな人が出てきて、「今の民主主義とは何ぞや」みたいな議論があるわけです。

日本人と言葉

そういうアングロサクソン流のちゃんと体系的にアプローチしたものでいくと、どうも国体とか政体というのは基本的に統治権の所在をもって分かれているので、国体と政体というのをあえて分けているのは、どうも日本だけのような気がします。これも和英辞書を引きますと、国体というのは「constitution(コンステチューション)」で載っています。政体もいろいろな単語が書いてあるのですが、これも辞書によっては「constitution」と書いてあります。「constitution」という英語で、何人かの方は重要な日本語が出てくる筈なのです。憲法を英訳すると「constitution」と出てきます。

わたしは何が申し上げたかったかというと、例えば憲法が大切だと言いますよね。それから我が国は民主主義の国だとか、やれ政治のあり方がどうだとか言いますけれども、政治を1つとったときにも、我が国の国体のあり方はどうなのか。政体と国体が一緒なのかは別にしてその権力の運用の仕方はどうなのか。それが憲法でどう定義されているのかみたいなことに関して、そういうレベルでわたしは政治家なり、もしくはマスコミなり、行政の人たちなり、そして、われわれがものを考えたことはあるのかなと。わたしは小さい時から結構理屈っぽいと、屁理屈ばっかり言うなと言われて育ちましたので、結構こういうことに関しては極めて厳格にものを知らないといけないほうなのです。こういうくだらないことをずっと何かあれば辞書を引いて調べるほうなので、こういうことを申し上げているのですけれども、意外と日本人は言葉についていい加減。もっと厳格に言えば、言葉はあるけど概念がない。もしくは原義というか定義に関して結構いい加減に使っているということをすごく思っています。それが逆に言えば今の日本の国の1番ウイークポイントであり、結果的には中国にも抜かれてしまい、国内的にもどういうふうに国の仕組みを変えていいのかさえも本当の議論ができない根っ子にあるのではないかなというふうに考えています。

2.グローバルスタンダードとは?
アングロサクソンスタンダード

皆さんこの10年「グローバルスタンダード」とよく言われますけど、本当にグローバルスタンダードというものがあるとお思いですか。いろいろな異論があるのですが、わたしは究極的にはグローバルスタンダードというのは「アングロサクソンスタンダード」、プラス若干の「ジューイッシュスタンダード」のモデイフィケーションが入っているというふうに解釈しています。その場合に、われわれ日本が100年ちょっと遡ったときに、過去に日本独特に日本の国というシステムをグローバルスタンダードに変えてきた1番大きいものは明治維新です。この時点で、アングロサクソンの政治体制がいわゆる国にとって1番いいことだということで導入されたうえに、内憂外患という中で常にローカルスタンダードが国のためにあえてそれを取り入れてきたという意味では、日本ではグローバルスタンダードというよりはアングロサクソンスタンダードを取り入れらてれてきた。

そのときに作られたのが政治でいえば立憲君主制ということで、大日本国帝国憲法という1つのコンステチューション。さっき述べたようにコンステチューションというのは憲法のことでもあり、それは政体・国体というものと同義語であり、そのときに国のデザインをアングロサクソンスタンダードでリデザインしたということです。次に戦争に負けて立憲君主制ではなくなり、大日本国帝国憲法に変わって日本国憲法が持ち込まれましたが、アメリカ軍に、マッカーサーによってリエンジニアリングされたのが日本国憲法であり、そのときの日本の国体とか政体、即ち統治権、権力のあり方をデザインして憲法ができたわけです。

そういう意味でずっと来ますと、多分最初からラーメンはないわけです。カレーライスもない。でもそうやって、これは食文化の世界ですからそんな大げさなことではないのですが、野球だってスポーツの世界だって全部持ち込まれたものなのです。でもそれはもともとその国というか外国でやっていたものと、われわれが持ち込んだものは同一ではないのですが、名前だけ一人歩きしている状態です。これは日本人の強みであるかもしれませんが、アングロサクソンスタンダードというのは意外とこういうプリンシプルというか主義とか原理原則を大切にする民俗ですから、昔々平安時代や奈良時代に漢字を持ち込んで平仮名に変えるとか片仮名に変えるなど日本流にするという多様な文化を甘受するという日本の特性が、特にこういう政治のシステムとか経済のシステムにおいては、原義やさっき言ったように定義を、もしくは概念自体も間違って、ただ言葉の中にイージーに取り入れてしまっているという現状が本当にいいことなのかという問題点を非常にずっと感じ続けていますので、ちょっとこのお話からさせていただきました。

3.地方主権
主権とは

今日の題の「地方主権」という話でいきますと、主権って何だと思いますか。それから次に日本国憲法においては、社会科のときに習った主権在民。「主権は国民にある」と憲法に書いてあるわけですが、なぜ国民にあるのでしょうか。いわゆる主権在民の反対は、一般的にこの民主主義とかこういう憲法で他の絶対権力者を縛って民衆の権利を確保するというやり方であり、それ自体がいわゆるアングロサクソンが市民革命やフランス革命など、もしくはアメリカの独立戦争で勝ち取ってきたやり方なのです。

では、なぜそうなのかというと、この逆の反対勢力の人たちの論理は王権神授説。基本的には民主主義というのはキリスト教の社会契約説から始まり、その中でロックとかホッブスが言ったような自然人、自然権というものから始まったのです。その中で自由と平等がどうやって保障されるべきかとずっと積み上げていき、今民主主義が出ているわけですけれども、その反対側にあるのが、いわゆる神から支配権を与えられた王様であり、絶対王制の裏付けとなる論理なのです。では、われわれは市民革命も起していませんし、ましてやフランス革命みたいな流血革命も起していませんので、なぜ主権在民なのか本当に日本国民が全部説明できるかなと思うわけです。

なぜそこが大切かというと、今一般的な言われ方として、日本が行き詰まっている中で幾つかの解決策の中の重要なキーワードに「地方分権」という言葉があります。わたしは地方分権という言葉を昔からまやかしの言葉と思って全く支持していないのですが、それはなぜかというと、私は地方主権論者なのです。自民党は地方分権だったのですが、民主党に変わりまして、一応地方主権という言葉に言葉自体は変わりましたけれども、日本人の原義とか定義、もしくは概念自体が曖昧な中でただ言葉遊びをしているだけという中では、全員とは言わないまでも民主党の国会議員が言っている地域主権だって、わたしから見れば自民党の言っていた地方分権とは何も変わらないレベルだというふうに思っています。

話を元に戻しますと、今からこの地方主権の話と地方がどうあるべきかというお話しに行くので、そのためにはまず主権ということをきっちり話さなければならないのです。日本というのはさっき言った国体とか憲法とか最も国の根幹の辺りの部分においてアングロサクソンスタンダードという、これは多分アングロサクソンが考えたシステムの中で非常に優れた民主主義というシステムだと思いますが、原点はもちろんギリシャにあるわけです。でも、それも本当にちゃんとした使い方とか、弱点とか、利点とかの本質を知らないで、ただ持ち込んで使っても必ずしもそれが最大の効果を表すわけではないので、今から別に流血をした革命を起す必要もないのですが、やっぱりそういうところから日本人はもう1回マッカーサーに与えられた民主主義ではなく、本当の意味で学んでいかなければいけないのです。また、その中で今ハンデイーを負っている地方においては、何を学んでいかなければいけないかというときに、まず主権論議というところから始めるべきではないかということで、だいぶここに時間を取らしていただきました。

地方分権のまやかし

地方分権という言葉を英単語で引きますと「Decentralization of power」ということで、主権とは統治権のことなのです。統治権とは権力ということで、「Sovereignty」と英語で言うのですが、基本的には支配する力ということです。主権在民とは国民が国民を支配している状態を言うわけですが、「devolution
of authority」というのを地方分権というところに書いてあった和英辞書があるそうでして、ここにわたしがなぜ日本の地方分権を支持しないかの理由があるのです。

即ち「devolution」というのは移転・委任・委譲ということでして、「authority」という英単語も基本的には主権というところに載ってくるのですが、ただ、どちらかというと、この「authority」という英単語は権限とか職権というほうの権力でして、政治でいう主権とか権力というか、国民主権のパワーに該当するよりは少し弱い概念なのです。これ自体が、霞ヶ関の人たちに、もしくは一部霞ヶ関の人たちに洗脳されている永田町の人たちが考えている日本再生の切り札としての地方分権自体に、中央の持っている何がしかの権力を一部委譲するという本音が見え隠れするということなのです。

わたしは本当の意味で地方主権実現のためには、憲法改正をしないとできないと思うのです。憲法は92条から96条ぐらいまでに地方自治のことが書いてあります。地方自治というのはちょっと小難しく憲法を読んでみますと、国民主権でその主権は前文のところで、国民の代表に信託されており、国民の代表が権力を行使するわけです。国民の権力を行使すると、その権力を行使した結果の福利の享受は国民がするということなのですが、日本国憲法を皆さん1回読まれるといいですよ。殆ど主語・述語・対象語みたいなものがよくわからない文章でして、この1番の肝心なところが権力、すなわち統治権は国民1人1人が持っているけれども誰かに信託しており、その信託された人が国民の権力を行使しているのです。その国民の代表というのが国会議員なのでしょうか。ただし、一般的にはその権力を行使して世の中を良くして国民を幸福にするのは行政という作業の中でなされるということでは、わたしもよく分からないのです。

ローカルガバメント

もう1つ面白いのは、日本国憲法は突然訳の分からない単語が出てくるわけです。例えば「内閣は」で始まる条文がありまして、その前に内閣の項目があるかと思うとずっと読んでみても載っていない。さっき言った92条にいきなり「地方公共団体の・・・」と載っているのです。わたしは個人的に「地方公共団体」という英語はないと思うのです。英語があるかないかは構わないというふうに言われる方もいると思うのですが、憲法を作って絶対王制みたいなところから一市民が権利を守って自由と平等と幸福を享受するというこの政治システム自体を考えたのはアングロサクソンであり、その中で、彼らは1番重要な部分にやっぱり自治という概念があるわけです。「自治」というときに、どうしても多分彼らが使う言葉、特にアメリカとかイギリスの人たちが使う言葉は明らかでローカルガバメントという以外には、わたしは一応アメリカに3年住んでいますから多分大概の人よりは英語に詳しいという意味では、「地方公共団体」という英語は絶対にないと思うのです。

でも日本国憲法というのは少なくともアメリカ軍によって原案が起草された時に、その原案書に多分僕はローカルガバメントって書いてあったと思うのですが、それが地方公共団体という言葉にすり替えられている。それとさっきわれわれにある主権が誰かに信託されている、その信託されているのは少なくともローカルガバメントではないのです。内閣とかそういう言葉が国民の代表という話でいくと国会なのか内閣なのか、ここが訳の分からないところなのですけれども、少なくとも中央政府に信託されているという意味では、基本的に自治というのはこの国のいわゆる国体というか政治のストラクチャーを決める重要な憲法の中には定義もされていないのです。だから多分それを知っている霞ヶ関や一部の永田町の人たちは、憲法改正のときにどうでもいいような国民が国を愛すとか何とかいうのは入れたがるわけです。重要なところの本当の意味で、主権在民であるならば、まずわたしは鹿児島の人間ですから鹿児島に住んでいればわたしの主権は第一義的には、本来は鹿児島にあるローカルガバメントの為政者に信託したいわけです。いきなり国というところに信託するよりは。

また今いろいろなふうに論議されている地方分権という中で、日本がこれだけ昏迷し、何とかブレークスルーしなければいけないときに、もっと身近なところからいろいろなことや仕組みを変えていかなければならない。その中で、地方公共団体による裏付けのない本質から外れた自治に何かオーソリテイーを委譲するのではなくて、本来的にパワーというか統治権自体を一部地方に戻すということが本質ではないのかなというふうに考えるところであります。いろいろ言いたいことがあるのですけど、政治の話はちょっとここで一仕切りさせていただきます。

4.市場原理主義
市場原理主義の弊害

次に若干経済のお話しをさせていただきます。両方ともわれわれがマネジメントしていかなくてはいけない重要な対象ですから。この10年間われわれはグローバルスタンダードに基づいて日本の仕組みを変えろと要求されています。それはどちらかというともう皆さんご存知のように、アングロサクソンスタンダード+ジューイッシュスタンダードみたいなところです。その中で1番分かりやすい議論でいくと、新自由主義経済に日本は変えなさい、市場原理主義に変えなさいみたいなところが民営化・規制緩和の話なのですけれども、市場原理主義というのは皆さんお解かりのとおり、いわゆるアダム・スミスが市場というものは最終的には神の見えざる手(インビジブルハンド)が働いてその市場というものに人間が余計なことをしなければ、最終的には社会の資源の最適配分ができるのですよということで始まっているわけです。皆さんは本当に市場というものを人間が恣意に下手にコントロールするよりは、最終的に市場が社会の資源の最適適正を作るというふうに思いますか。賛同されますか。

例えばわたしは経済学部でして、また高校のときは世界史とか政治・経済とか習うわけです。少なくとも市場経済の問題点は最終的には独占とか寡占ということになるのですが、それは社会の弊害が大きいからであり、市場経済を重視する国においても、独占禁止法というものを作り、公正取引委員会を設置しています。それでいくとアメリカというのは過去にIBMの分割話も出ましたし、AT&Tは分割されましたし、それ以上に一昔前でいくとロックフェラーの作った巨大な油の会社はエクソンとかそういうところに、ソファイオとかソーカルとかみんな分割されました。やはりインビジブルハンドというのは数十年のタームでは効きますけど、独占の弊害というものは社会のためにならないというふうになっているわけです。何でそういう高校生にも教える原則が忘れられて、この国は何でもかんでも市場原理主義を導入することによってこの国が良くなるのかと思うのかというのが、わたしは個人的によく分からない。

Whyの重要性

またもう1つちょっと申し上げたいのですが、プライマリーバランス(財政均衡)の議論が盛んで、この間も菅さんが唐突に消費税を上げるみたいな話になりましたけれども、その議論の中で子どもや孫たちに借金を残したら大変だという話になります。でもわたしは素朴に思うのですが、借金をしているのは国で、でもそれが何でわたしの子どもや孫の話につながるのか。つながるのかもしれませんけれども、それを説明してくれる人は今までいましたか。例えば国家財政でいけば、実に政治家というのは勉強が足りないと思うのですが、この間菅さんなどがギリシャの事例を出して財政赤字の問題点を指摘して消費税導入を正当化するロジックを唐突に始めました。日本の借金というのはわたしも正確には知りませんが、やはりGDPの2倍だとか何だとか異常な額なのでしょう。ではそういうギリシャと同じように国家財政が破綻している国の通貨がなぜ85円になるのですか。もちろんこの国の国債は殆ど日本人が買っているからだとか、財政破綻論者からすると日本人が買っていてもこうだからまずいのだと言いますし、反対側の人もいろいろ言っていますけれども。

では、わたしが何を申し上げたいかというと、いずれにせよ誰かこれを徹底的に解説してくれた人がいますかね。そういう中で歴然としているのは、鹿児島にも今年40何隻中国人がいっぱい乗ったクルーズ船が着きます。日本は中国にも韓国にも台湾にも、わたしは抜かれたと思っています。思っていない方もいるかもしれませんが、少なくともいろいろな数字というのはもうそれを証明しています。例えば、海国日本、世界1の造船国が今では3位です。世界中の建造量のたった5パーセントです。1番が韓国、2番が中国、2番と日本の差は歴然たるものがあります。非常にいろんな問題が起こり、何とかしなければいけない、予見的に大概の日本人がこのままいくと日本は駄目になる。その中でこの10年間日本を再生するために、やれ規制緩和だとか地方分権だとかいろんなことが言われてきましたけれども。最初に申し上げたように、やはり日本人って根っ子のところでもう少しいろんなことを厳密に考え、本質でものを考えなければいけない。ただ言葉に流されるのではなく。別な言い方をすると、一時「know
how to」の時代だと言われましたね。その次に「know how to」だけじゃ駄目だから「What」だと。それでいくと今の議論のそういうものは所詮「how
to」ではなくて「What」ですよね。何かをどうしなければいけないのか。何かということを考えると、1番重要なのは今の時代「Why」だと思いますね。なぜ日本はこんなに悪いのですか。なぜ地方分権すれば良くなるのですか。なぜ財政赤字を均衡すると良くなるのですか。なぜしなければいけないのですか。そういうところからものを考えて、だからこうしなければいけないというふうに行動している人間が今日本人に何パーセントいるのかなというふうに、わたしはいつも思ってきました。

5.今地方に何が必要か~求められる人材とあるべきマネジメントの姿~
今地方に求められる人材とは

そういう意味で、やはり岩崎育英奨学会政経マネジメント塾が今後しなければいけない使命、それはこのわたしの講演というか講義の副題である「今地方に何が必要か」ということと一緒になるわけです。つまり、マネジメントを実現することだと思います。特に地方の目線で地域のマネジメントを、地域の企業のマネジメントを、地域をなすいろいろなもののマネジメントを実現するということだと思います。さっき少しだけドラッカーのお話をしましたが、殆どの皆さんが英語のときに受験英語をされたわけですよね。そのときに結構これは絶対試験に出るよという熟語の中で、manage
to~というそのto~を書かせる問題が出るよと言われたのですが、お忘れかもしれません。このmanage to~というのは、いろんなことを何とかやり遂げるという意味なのだと、そのときに習ったと思います。マネジメントということに関しては、「人・ことが何とかやり遂げる、辛うじて何とかを表す、上手く扱う・・・」と書いてあります。英英辞書には、「The
act or skill of dealing with a people or situation in a successful way」 と書いてあります。Act(行動)、もしくはSkill(技術)。人々や状況を扱う行動や技術。わたしはこれをあえて今日申し上げたい。「in
a successful way」と書いてあるのですね。これを意訳しますと、「成功の内に何とかやり遂げなければいけない」ということです。では、成功の内にやるためには最後はこのマネジメントは誰がやるのかというと、人がやるわけです。だからわれわれは地方で、地域で、「in
a successful way」、即ち地域が良くなるという成功の結果を得るためにマネジメントをする人間をいっぱい育成していかなければ地方は良くならない。そういうことをまず1つ申し上げました。その中で、ではどういう人が求められるのか。どういうマネジメントのあり方があるべきなのかということに、ちょっとわたしなりの話をさせていただきたいと思います。

ちょっとシナリオとは違うのですけど、アダム・スミスもフランスのトクヴィルという思想家も、民主主義、もしくは市場経済において最終的にはやっぱり人間の道徳心というものの必要性を説いているのです。そういう意味では日本人というか東洋人にとって道徳はいわゆる論語の世界なのです。やはり日本人の道徳心というのは戦後軍国主義とセットにされた形で日本の道徳教育自体を否定されてしまって、逆に言えばそれが希薄になっているが故に日本の混乱もあるのではないかとわたしは思っています。そういう意味では、やっぱりこの国に資本主義、もしくは民主主義というものが健全な形で再生する、結果的にはマネジメントが機能するためにあるべき姿というのは日本人自体に道徳心が回復することだと思うのです。その道徳心の根底になるものが、やはり日本人というのは儒教というものです。親孝行をしなさいとか、思いやりを持ちなさい、孝であり仁であり、忠であり義でありという世界だとは思うのです。これも専門家ではないのですが、儒教の中の学問というのは一般的に2つに大別されます。朱子学と陽明学。わたしは今の日本で勉強ができる人たちは殆ど朱子学だから、この国は駄目になっていると思うのです。やはり今の日本にとって陽明学。陽明学のポイントは「知行合一」、いわゆる知っていることと行動を一致させなさいというのが1つのポイントですし、「致良知」-人間生まれながらにしてより良き知を持っている-それを最大限に自分の行動の中で発揮させること自体が重要ですよというようなとこなのです。やはりマネジメントに必要なこと、もしくは地域で地域を良くするためにマネジメントをやってもらう人、そういった人に必要なポイントはやはり陽明学的な、ただ知識を頭の中に溜め込んで何もしないのではなく、動いていって変えていくということではないのかなと思います。「勉強する」、「学ぶ」という言葉は国語辞典を引くと微妙に違うのですが、「study」と「learn」を引きますと結構違うのです。それで英英辞典の「learn」の中の4番目に面白いところがあり、そこには「to
gradually change your attitude about so that you behave in a different way」と書いてあるのです。段々に貴方の行動様式を変えていくこと。「about
so that」、「about」というのは、例えば「日頃の生き方に」とかいうことなのでしょうけど、「so that you behave in a different
way」、「結果的に違う態度で違う方法を執るように」ということで、学習効果みたいなことなのだと思うのです。

「自存」「自立」「自助」「自律」

ただ、最終的にその主権の問題だとか全部絡む中で、重要なことはいろいろあるのですが、やはり地方主権、もしくは自治ということに関して1番重要なのは、「自存」「自立」「自助」、それに自分で律する「自律」なのです。そういうものが何ものかに隷属したくない、やはり己を自存するとい意識の中で、自分の自尊心を保つためには経済的にもいろいろな意味で人に頼っていてはいけないのです。やはり自分は自立しなければいけない。そのためには「自助」、やっぱり自分で何とかしていかなければいけない。自分でちゃんとより良き成果をするためには、己をある程度律していかなければいけない。民主主義的に見ても責任のない自由というのはないということになっていますし、いろんな意味でやはり地方が、そういう人間が地方を「in
a successful way」でマネージしていくということが今の地方にとって必要です。政治的に日本国憲法を変えて連邦国家とか共和国みたいに、第一義的にわれわれがわれわれの主権を、統治権を信託するのをローカルガバメントに変えるということは、今の日本では当分難しいでしょうから。もちろんそれをもし賛同していただくのであれば、それを諦める必要はないでしょう。30年かかっても50年かかっても100年かかっても、日本国憲法を変えて訳の分からない人にわれわれのパワーを信託するのではなくて、目の見えるところの為政者に信託するというふうに、この国のコンステチューションを変えるという努力も忘れてはいけないのです。とりあえずしなければいけないことは、その決まって知った枠組みの中で、われわれはすごいハンデイーを背負っているわけです。でもそのハンデイーを背負っているがゆえにより良きより強い自尊心を持ち得ますし、結果としてその自尊心の発露としてわれわれは自立しなければいけないし自助していかなければいけない。そのためには、われわれを律していかなければいけない。それだけの気持ちがあれば勉強もします、それ以上に学びます。そして、そのそういう知識や判断を、見識を持ってわれわれがマネジメントをしていけば、決して悲観的にはなる必要はないのではないかとわたくしは思う次第です。