平成22年度第1回:南洲翁遺訓から読み解く「リーダーと論語」

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾
岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾 平成22年度シリーズ

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第1回:南洲翁遺訓から読み解く「リーダーと論語」

講師
青柳 浩明(安岡活学塾 幹事・常任講師)
開催日時
平成22年8月30日(月)16:15~17:15
場所
「リバティークラブ」4Fホール (鹿児島市千日町15-15 リバティーハウス4F)

青柳浩明 (Hiroaki Aoyagi)

岩崎育英奨学会 事務長
岩崎学生寮 舎監

1966年生まれ
1989年、明治大学卒業後、某損保グループ会社入社。2006年執行役員就任
2010年、現職

社会人になると同時に大田観川氏に師事。本格的に「論語」「易経」を学び、ビジネス現場で実践し続けている。安岡活学塾・常任講師。三州倶楽部会員。

著書:「リーダーを支える『論語』入門」(中経出版)

講義内容

最初にちょっと確認させていただきたいのですが、『論語』という本を、意味はわからなくてもいいので、一回は読んだことありますでしょうか。私の母が屋久島出身なのですけれども、鹿児島においては、やはり『南州翁遺訓』も重要ですが、そのベースであった『論語』について、名前は聞いたことあるっていう方でも、今日のお話を聞いていただければ、興味がわくと思いますので、ぜひ一緒に学んでいきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

私も、『論語』の講義は各所でやっているのですけれども、きょうは「リーダーと論語」との講義ということで、上から見ても下から見ても同じ組み合わせ、ここに言葉というのが入ると、今立場上私は講師として皆さんにお話をしていきますけれども、私が伝えたことを皆さんも理解していただくというのが、この講義の「講」という字でございます。このように、いろいろな言葉であるとか、漢字の本来の意味――原義と言います、本義とも言います――について、きょうは相当集中してお伝えしていきたいと思います。きょうは、たくさん教えをお伝えします。
ただし、勘違いしないでいただきたいのは、全部をやってみようと思う必要は全くありません。『論語』は、そういう生半可なものではありません。一つをまず始めてみる。まずはそれが大切ですので、どうぞそこを誤解されないようにお聞きいただければと思います。何か一つ心に止まってものを意識していただければと思います。

1.はじめに

最初に、序章として、はじめにというのを触れます。先ほど「知行合一」という言葉が出ました。知り得たことと行いを一致させていく。先ほど朱子学というのもございましたが、これはこうなります。先行、先知、後行。先に知って、理論とか物事の本質を極めた上で行動を始めようという考えです。ただし、今いろいろと私たちの周りでは、時代の流れとか、変化の流れが非常に早いです。ですので、やはり知ったことと行動を一致させて、常に行動から始めていくというのが非常に大切なことです。『論語』でも、言葉の前にまず行動をというのがあります。ただ、それはむやみやたらに行動するという意味ではありません。行動をすることが大切だというのがあります。

それでは、『論語』とはいうのをお話ししまして、あとは骨子になりますが、修己、治人、主権というふうに、順番にお話しして参ります。まず私たちは、誰しもが自分というものを持っております。同じように、周りには己を持った人たちがいます。この人に対するアプローチのことを「治人」と言います。この「治」というのは、この字のとおりでして、昔政治家等は、いかに川の氾濫を治めるかというのが大切でした。ですので、川の近くに物見やぐらを建てていました。台ですね。川の台ということで、俯瞰をして人を治めていく、状況を押さえていくというのが、この「治」という意味です。この修己治人をやりまして、その後で、同じような組織とか国家との相対関係での主権というのを最後に述べたいと思います。まず、ベースは、己、自分というところです。

はじめに

序章、はじめにということで、「西郷南州翁は・・・」と書いています。知行合一につきましては、先ほど申し上げました。この学問の源泉はということで、『論語』というものがございます。『論語』を当時はこういう物で見ておりました。漢字ばっかりで、読む気をそぐような状態であったのが昔の『論語』でして、今はこうではなくて、平仮名で送ってあったり、現代訳が付いてあるというのが普通です。また、武士の人たちは、着物を着ておりましたので、袖珍本と言いまして、袖に入れておく本として、当時の寺子屋等では、これを素読していました。「子いわく何とか」という風に。

その『論語』におきましてということで、人として目指したい理想像として、「君子」というのと、「小人」というのが出て参ります。これはキーワードとして覚えておいてください。決してこの「小人」というのが、絶対的に否定される存在ではありません。ただ、徳を持った人、代表的な日本人としては間違いなく西郷さんなのですけれども、この徳というのは才に勝つものだよというのを言っております。

木を思い浮かべていただき、幹の部分が徳だと思ってください。葉っぱが才です。才能、技能、スキル等は後からいくらでも付けられますが、この幹が細ければ倒れていきます。花を思い浮かべてください。これは数日たちますと、重さに耐えかねて、しおれて、倒れていきます。それが、才が徳に勝っている状態のものです。つまり、どっしりとした安定感があって、状況の変化等に耐えられる木の状態、これが徳と才の関係だと思ってください。今申し上げましたように、絶対的に否定されるものではありません。才、技術とかがなければ、技術発展はありませんでした。それは間違いないことです。南州翁も学んだ『菜根譚』という本にこういう、有名な言葉があります。「徳は事業の基なり」。徳がすべてのベースになってくるということです。あくまでもベースですので、それだけではだめだということです。その上に技術とか、研究とかは必要になってきますが、まずベースは徳であるということがここに書いてあります。本講義は、南州翁の言行録である『南州翁遺訓』を通してというふうに、今日は徳というものを学んでいきたいと思います。

1.第一章 論語とは
言行録

では、簡単に『論語』と孔子について特徴ということで、『論語』に関してはいろんな解説本があります。ただ、政経マネジメント塾の第1回目ということで、特徴的に挙げております。まず言行録であること。これは釈尊、お釈迦さんですね。イエスとか、ソクラテスとかと同じで、この方々は世界四大聖人と呼ばれる方ですが、自分で書かれた物は存在しておりません。特に釈尊のところですと、「不立文字」というのが禅宗として伝わっていますが、言葉では言い表せないというのがあります。大体こちらも、言行録は、弟子たちが書いていったものです。紀元前500年。その直後に、秦の始皇帝が出て参ります。多分受験勉強でも習いました焚書(ふんしょ)坑儒というのがありました。その後、今度は漢が出てきます。ここで中国の国教として、国学として制定されていく。ほぼ、300年ぐらいのときに『論語』というのが初めての日本に伝わった漢字の本として日本に渡ってきました。『論語』のほかに、『千字文』とか『千字教』という2つの本が渡ってきました。そこから日本の歴史といいますか、聖徳太子が「和を以て貴しとなす」というようなものは、ここがスタートになってきます。紀元前500年前のものです。

述べて作らず

「述べて作らず。信じて古を好む。・・・」とあります。「述べて作らず」というのは、先輩方、先達たちの教えを伝えてはいくけれども、私はあえて自分の持論とかを創作はしませんという宣言です。これは、この紀元前500年の前に、中国というのは、夏とか殷という国の時代がありました。数千年の歴史、いろいろな言い伝えとか、伝承とか、教えというものを学問としてまとめたのが孔子という人物です。それが「述べて作らず」という意味になります。日本風に言うと、日本の昔話とか、地域に伝わっている伝承話をまとめ上げたと思っていただければよいと思います。それを実践したのが孔子となります。後で触れますので、今のうちに言っておきますと、この「古」という字ですが、これ、口というふうに思う方がいるかもしれませんが、これは人の頭を意味していまして、ここは冠とか髪飾りがあるものだと思ってください。ですので、人の教えとか、昔から伝わって来ているものとかいうのを意味するのが、この「古」という字になります。
あと、「我は生まれながらにして之を知る者に非ず」。之というのは、道ということです。道徳の道という字です。生き方とかと思っていただければよいと思います。之を知る者に非ず。古を好み、先輩たち、昔から伝わって来ている教えを非常に好んで勉強したというふうに書いてあります。この「敏」という字ですが、この「敏」というのは、通常皆さんですと、動きが速いとか、機敏であるとか、敏しょう性があるとかいうふうにしか使うことがないと思いますが、本義は、頭をフル回転させるということです。このへんのほうの「毎」というのは、草が絶え間なく生え続けるということを意味しています。つくりは動詞になっていますので、葉っぱが絶えず生え続けるということから、頭をフル回転させるというのが本来の意味です。頭をフル回転させれば、次のアクションはどう取るべきかとか、仕事においても、遊びにおいても、行動アクションが取れるようになりますので、そのさまを見て、敏しょうとか、機敏というふうになります。あくまでも頭がフル回転した上での敏となります。

エンプロイアビリティ向上

エンプロイアビリティー向上。まさか『論語』の話で、こういう片仮名が出て来るとは思わなかったかもしれませんが、エンプロイアビリティーは、雇用能力ということです。『論語』は単なる道徳物ではありません。当時、春秋戦国時代、先ほど紀元前500年と言いましたが、それは春秋戦国時代と言いまして、歴史で勉強されたかもしれないのですが、たくさん国がありました。どこかの国に仕官する、そのための勉強でした。仕官した後は、即戦力として行動してもらわなくては困りますので、人格形成というのも必死に行われたわけです。まだ新人だからいいよねというのは許されないわけです。もう人をコントロールしていくわけですから。下手を打つと、ほかの国に侵略されるわけです。ですので、人格形成も大切だということになります。

基本概念

基本概念。よく論語のことを宗教じゃないかと勘違いされている方がいらっしゃいますが、全く異なります。論語の名文の中に、「天について語らず」というのがあります。あと「鬼神」と言いまして、要は目に見えないものとかに頼らないというのが『論語』の基本的な考えです。あくまでも頼れるのは自分、自分の努力で人をコントロールしてということになります。こちら、基本概念を2つ書きましたが、一般的には、まず最初の克己復礼(こっきふくれい)と読みます。これは後で出て来ますので、そこで触れたいと思います。これをもう少し分かりやすく言うと、「修己治人」という言い方に変わります。それをもっと現代風に言い換えると、「倫理道徳と政治」という言い方になります。これを横文字で言うと、セルフコントロールとか、リーダーシップとか、マネジメントという言い方になってきます。ただ、『論語』を読んだことがない方にとっては、今まで『論語』というのは、さも何か礼儀作法の本で、道徳論で、古臭くてというイメージあったかもしれませんが、基本的な構成はこういうふうになっています。この2つの軸で構成されているのです。本日後で触れますが、「修己治人」ということで、『南州翁遺訓』をベースにして、それを触れていきたいと思います。

その下に、孔子はお人よし、韓非子は、韓非子って聞いたことありますかね?秦における法治国家の基礎になった方です。こういうような極論を持たれる方もいらっしゃいます、孟子は性善説で、荀子は性悪説だとか。ただ、孔子自体は中庸というスタンスを取っておりまして、基本的に性善説とか性悪説という考えは持っていません。これはあくまでもその後の弟子たちがつくった概念です。孔子という人物は、現代風に言えば、このシチュエーショナル・リーダーシップというのは、つまり、状況に応じて振る舞いを変えるというものです。その自分が所属している組織が不安定な状況であれば、強烈なリーダーシップを取る必要があります。ただ、そこの組織のメンバーが成熟してきた場合には、そうする必要はないので、緩やかなコントロールをしておけば十分回ると。そういうふうに変えていくというのが、このシチュエーショナル・リーダーシップというものですが、孔子は、これを実践していた方です。実際に『論語』だけ読んでいますと、ものすごくこう、仁とか、礼とかで、人に優しくてと思われるのが普通だと思います。ただ、実際孔子は、地方長官――今の日本で言うと知事みたいな感じですかね?知事と警察長官が一緒になったような存在ですか――のときは、処分は厳正にやっていました。決して見逃しません。ですので、すぐ、要は厳正な処分というのは死刑ですね、それを普通にやっていた方です。そうしないと国は治まらない、示しが付かないという場合があります。でも、それだけでは駄目だ、徳による政治が必要だというふうになっていくわけです。だから、決して偏っている方ではありませんということです。

最後、2つ、「春秋に義戦無し」という、これもことわざといいますか、成語があるんですが、義戦が無い。義というのは正しいこと、よろしきこと、状況に応じて正しい振る舞いをするというのが義でございます。どうも仁義とか言うと、あまり表現がよくないのですが、何か違う世界の人たちが使っているような言葉みたいに思うかもしれませんが、本来の義というのは、最も美しい振る舞いのことです。そのとき、そのとき、正しいことをしていくと。ただ、その正しい戦いなんて、春秋時代にはなかったということです。もうみんなで裏切りとか、策略、謀略の時代でした。ですので、国が成立して、滅んで、分割してというのが春秋時代という時代です。ですので、このときにお人よしだけの道徳家では、とても国を治められなかったということになります。

日本・日本人のDNA

私、きのう、鹿児島空港から市内に入って参りまして、そのとき、バスで看板を見ましたら、志學館大学というのがありました。あれも『論語』の言葉です。「十五にして学に志す」というところから取られているものです。こちら熟語、せっかくなのでお伝えしていくと、「道徳」というのは、「道に志し、徳に依り」という言葉から生まれている言葉です。あと、「啓発」っていうのは、両方とも心を開くという意味です。何か悩ましいことがあって、自分の心が閉ざされているものを開いていくという意味です。ですので、本来的には、自己啓発というのを皆さん、会社で使われることがあるかもしれませんが、実際自己啓発とは、本義に立ち返って考えると、とても難しいことです。自分で自分の閉ざされた心を開くというのがまずできませんから。今使われている啓発という意味は、教育をする、自分で自主的に勉強するっていうのが啓発ですが、もともとの意味は、心を開くという、その人の持っているパワーを引き出していくというのが「啓発」です。

続きまして、「遠慮」という言葉もあります。これは「遠きを慮り」という意味になります。今で言いますと、リスクマネジメントということです。将来1カ月後とか、1年後の状況をかんがみて、今どう振る舞うべきかをチョイスしないと、後で必ずつまずくというのが、遠慮という意味です。あと、内に省みるとか、礼儀とか、損益、義務、敬遠。

「敬遠」という言葉は、先ほど申し上げた、天とか、神とか、そういうものは信じないという語源の言葉でございます。「敬して遠ざく」という語源になります。天とか神様は、見えないけど、きっといるだろうと。それは敬うけれども、遠ざくというのは、それに頼り切らない、あくまでも自分に立ち返って、自分が行動するっていうのが、この「敬遠」という字でございます。ですから、今せいぜい使うのは野球ぐらいですかね?野球の敬遠というのは、つまり、4番打者とかに対して敬って、普通に投げたらホームラン打たれるからとかいうことで遠ざけるわけです。だから、あながち間違いではありません。
あと「戦略」と「不惑」。「不惑」というのは40歳のことです。あと「為政」。為政者というふうに、あと者を付けると為政者ということで、政治家のことになります。あと「朴訥(ぼくとつ)」というのがあります。あと四字熟語、温故知新、用舎行蔵、道聴塗説、巧言令色等とございます。ちょっとこれは、こういうものがあるのだなと。多分皆さん勉強されたことあると思いますので、ちょっと飛ばします。あと故事成語、組織団体名でも使われているものです。

構成~お父さんの日記~

『論語』というものはどういうものかということで、これは例えて言いますと、お父さんの日記を読むようなものだと思ってください。仮に例えば講談社とか岩波文庫の『論語』とかを買います。皆さん読み始めます。そうすると、まず陥るのが、同じ教えがたくさん出てくるとか、あとは、何か言っていることが違うのじゃないかという、要はあることに関して、こっちではイエスと言っておいて、こちらではノーと言ったりというふうに出てきます。これが『論語』の特徴です。なぜならば、孔子というのは、その教える弟子に対して、弟子の特徴とか、強みに応じて教え方を変えていました。せっかちな人間には、お父さんとお兄さんに相談決してから動けと言います。消極的な弟子に対しては、何をぼやぼやしているのだと、すぐ動けと言います。お父さんの日記ってこちらに書きましたけれども、つまり、例えば私たちがお父さん、お母さんの日記でもいいのですが、お母さんとか、お父さんの人生観とか、ビジネス観とか、家族観とか、恋愛観を知ろうと思って日記を読み始めたとします。そのときに、2005年の8月を見ればビジネス観ばっかり、ビジネスに対する考え方が書いてあるかというと、そんなことはありません。一通り全部読んでいかないと、トータルではわかりません。それが『論語』の悩ましいところで、つまり、テーマごとに編集がされていないというのが『論語』の特徴です。それはメリットもありまして、どこから開いても学べるというのがあります。ですので、例に書きましたが、「仁」という言葉、これは2人の人間が和気あいあいと触れ合うというのを意味している言葉になります。二というのは、つくりのほうの二は、2人ということです。思いやりとか、優しさっていうのを表す字になります。これは59章句出てきます。それを全部読んでいかないと、基本的に仁というのは何かというのがなかなかわからないというのが、この悩ましいところです。

第二章 修己~自分との関わり~
過ち

では、早速27条ということで、「過ち」というふうに書いてあるところです。原文をごらんください。「過ちを改めるに、①自ら過ったとさえ思ひ付かば、夫れにて善し、其事をば棄てて顧みず」、線を引いていただきたいのですが、「②③直ちに一歩踏出す可し」というところです。私も、いろいろな偉人の方の本というのを読むのですけれども、やはり西郷さんのすごさはここにあると思います。つべこべ言わずに行動を始めろということです。

まず①のところから見ていきたいと思います。「子曰く、巳んぬるかな」。子曰く、これ、現代風に読んでいきます。孔子さんが言いました。参ったな、「我いまだよくその過ちを見て」、自分が犯してしまった過ちを知りながら反省しない。自分に深く反省するという人を、私は見たことがないよと言っています。「内に自ら訟むる」ですね。これは訴訟の「訟」という字になりますが、原因を追及するという意味になります。

続きまして、②「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」。間違ったらすぐ直しなさいと言っています、はばかっていてはだめだと。

③「子貢曰く」、子貢は、『論語』をもし読まれる方は、ご存知だと思いますが、今風に言うとビル・ゲイツのような方です。頭は切れるし、投機、何かビジネスをやったら必ず当てたという。億万長者になりまして、当時の中国の歴史本で『史記』というのがございます。司馬遷が書いた本なのですが、そこの歴史本は、皆様が普通に読まれる歴史のストーリーもあれば、列伝というのがありまして、例えば刺客列伝といいますと、このシリーズの中に暗殺者のことばかりを書いた本です。この中に『貨殖列伝』、当時のミリオネアについて書いている本があります。そこに、この子貢という弟子は出てきます。そのぐらい大金持ちでした。言葉が巧みであったという方です。その人が言いました。立派な人の間違いというのは、日食とか月食のように、誰から見ても明らかなものだと。つまり、政治家とか、トップのミスというのは、みんながもうはっきりわかると。間違えると、みんなそれをじっと見ると。ポイントは、「更むるや」というのはつまり改善することです。自覚して改善をすると、今度はみんな仰ぎ見るようになるというのを言っています。

皆さんの中で、例えばそれぞれのチームのリーダーであるとか、部門のリーダーの方もいらっしゃると思いますけれども、そのときに部下の人たちがみんな見ている。どちらに転んでもということです。あの人、一応間違えたけれども、誤ったけれども、なんかきちんとやっている、きちんと改めているというふうに感じることもあると思います、そういう人が周りにいれば。それを当時の日食とか月食に例えて言っている文章です。

④「子曰く、過ちて改めざる、是を過ちと謂う。」というのもあります。これはもう、このままご理解いただけるかと思います。つまり、過ちを認めて改善を図れば、それはいいきっかけになったのだから、過ちと言わないということです。つまり、二度やらなかったらいいという考え方でもあります。つまり、1回目は自分に気付きを与えるために起こったことなのだ、2回目は起こすまいというふうに行動していくことです。そうしなかったら過ちが完成してしまう、これを過ちと言うという言い方になります。つまり、仕事とかにおいて、失敗、失敗の連続で、途中でやめれば失敗で完成しますが、最後、99回失敗しても、最後の1回成功すれば、成功で終わりますよね?それと同じ意味だと思っていただければと思います。

⑤「子夏曰く、小人の過つや、必ず文る。」この「文る」というのは、これ、「かざる」と読みます。縄文式土器の縄文の文という意味です。網目で模様を付けて、いろんな状況を、模様を付けることから、それがだんだん象形文字となって、文字の「文」という字として使われるようになったと。飾り付けること。心の小さい人というのは、何か間違えたり失敗すると、必ず言い訳を始めますと言っています。
南州翁の、「夫れにて善し、其事をば棄てて顧みず。」これは、免責とか免除になったというふうに理解しないでいただきたいと思います。当然ながら、その前のところに、「自ら過ったとさへ思ひ付かば」というところには、『論語』でいいますと、「自ら訴むる」つまり自省とか、改めるっていうフェーズが入って、改めて、認識をして改めたのだったら、もうすぐ行動しようよと。いつまでもぐちぐち後悔しても仕方ないと、それは茶わんを割ったときと同じようなものだというふうな文章になります。また、過ちは天から与えられた機会であり、これは、いろんな啓蒙(けいもう)書とか読みますと、こういう解釈になってきます。皆さんも経験とか、ありませんか?小さいミスを見過ごしたばっかりに、大きくなっていったケースとか。小さいうちに積んでおいたので、済んだケースとか。過ちも同じで、最初このぐらいはいいだろうと。例えば電車の中で、年輩の方に優先席というのがあります。昔はあのステッカーもありませんでした、それが当たり前でしたので。ただ、今ステッカー張らないとやらない人が多いので、ステッカーを張ります。でも、ステッカーが張ってあるところに空いていたので座りました。ただ、そこで今度は携帯を開きましたという、一回始めてしまうと、だんだんそれが当たり前になってきます。ですので、何か自分で、やっちゃったなと思ったら、そこでピタッと止めていく。そうすれば、それは過ちじゃないということが、この教えになります。西郷さんも、それは重要だというふうに認識をされて、27条として取り上げているというところになります。

敬天愛人

「敬天愛人」です。もう「敬天愛人」という言葉は誰しもご存じの言葉だと思いますが、ここの文章は、もうありとあらゆる教えが詰まっているものです。『論語』のほうも早速行きたいと思います。敬天愛人をということで、①「用を節して人を愛す」というのがあります。「事を敬して信」。事業をどんどん広げるのではなくて、縮小均衡を図るという意味ではなくて、無駄なものは削減をして、信用を守っていこうと、約束を守っていこうと、これを「事を敬して信」。「用を節して」というのは、節約をして、租税、税金を、つまり、国とか地方自治体等が何かいろんな箱物を作っていけば、税金というのは当然使われていきます。そうするのではなくて、節約をして、そうすると租税、節約をすれば税金を多く取らなくて済むので、それがつまり万民を愛することになるのだという言葉があります。「民を使うに時を以てす」。当時は、職業軍人というのが少なくて、農民が、戦争になると駆り出されていました。ですから、当時の戦争というのは冬場に行われるのが普通でした。それは日本も同じです。一番農作業で忙しいときに駆り出されると、その国が疲弊するわけです。穀物が取れませんので。というのが、ここの文章で分かります。「時を以てす」というのは、農閑期を選べと言っています。
②「樊遅(はんち)、知を問う」。知っているというのはどういうことですかというのを質問しています。これは、政治をやる方が、知とは何ですかと聞いています。その「民の義を務め」というのは、民衆は民衆で、正しいことをしっかりやっていく。そして、「鬼神を敬して之を遠ざく。」鬼というのは、何かマイナスのイメージがあるかもしれませんが、祖先のことです、先祖。ですから、私、親戚がこちら、鹿児島市内におりまして、鹿児島では毎月ぐらいお墓参りに行く方が多いと聞いています。そういう行為です。もう東京ではそういう行為はなかなか、もう廃れてしまって、せいぜいお盆のときだけとか、お彼岸のときだけになっています。その鬼というのは先祖、神というのが天だと思ってください。何か偉大なものは、敬うけれども遠ざけておく、それが本当に知っているということだよと、それが知識人の行うことなのだということです。頼りきるなということですね。ここの中に、「義務」という言葉と「敬遠」という熟語が両方出てきます。

では、今日の修己、治人、主権のうちのキーワードになっています、修己の基の「克己」です。よかったら線を引いておいていただければ、「己に克ちて礼復むを仁と為す」というのです。自分のさまざまな欲望等を抑えてなめらかにして、人との関係応対を正しく振る舞っていく、それが仁だと言っています。「復む」っていうのは、復唱とか、復習とか言います。もう一度やっていく、つまり、繰り返しやっていくという意味を持っています。「己に克ちて」という、「克」という字は、頑張って踏ん張って、逆境とか厳しい状況を乗り越えていく。こうしたい、ああしたいというのはあるかもしれないけれど、正しいのはこうだよなと思ったら、自分を抑える、頑張って。それは楽しいこととか、楽なこととか、私たちは幾らでもやりたいというふうに思うのが普通だと思います。ただ、それを、これをこれ以上やっちゃだめだよなとかいうのをぐっと抑えるというのが、この「克」という字になります。踏ん張っているという字になります。「己に克ちて礼復む」というふうにずっと続いて参ります。この「礼に非ざれば視ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ」、ここは視聴覚室の「視」と「聴」というのが出ます。これが、見聞という意味と全くレベルが違います。自分の意思が入ってきます。自分の興味本意で、礼儀に反するようなこと、つまり、社会通念上ルールに反したようなことを視るようなことをしてはだめだと。ましてや、それを何か、興味本意で聞くようなこともするなと、自分の意識を持つなというのが、この「視」と「聴」になります。ぼんやり見えたとか、何か聞こえてきたというのは見聞の聞くというほうです。
続きまして、④子路という弟子が言いました。君子っていうのはどういう方ですかと言いましたら、自分を修める。この「修」という字は、人の背中に細い水を流して、その水がこうなめらかに背骨に沿って流れていくさまを表しています。つまり、でこぼこしていなくて、なめらかな状態というのを、「己を修める」というのは、自分が、何か角が立っているとか、よく人も、あの人、丸くなったねという表現しますよね、それと同じだと思ってください。「修める」というのは、自分を修めることができて、それで、あと人を敬す、周りを敬すということです。よく『論語』とか、ほかの、例えばキリスト教にしても、人を愛するという言葉がありますけれども、この「敬す」というのは、人間と動物を決定的に差を付けている概念の一つです。もう一つは何かといいますと、「恥」になります。恥というのは、一般的に聞きますと、何かマイナスのイメージがあるかもしれませんが、大体における人間の原動力になっているはずです。あの人より低いのは嫌だとか、順番が遅いのは嫌だとか、恥ずかしいというやつです。今の日本ほど恥ずかしいという字がクローズアップされている時代はないかと思います。ゴールデンウィークのとき、新聞各紙で「恥を知れ」という言葉が出ていました。何で恥を知れと国民が言っているかというのはもうお任せしますが、ある方が、言っていることとやっていることが違ったということに対して恥を知れとなります。この敬する、敬うというのと、恥というのは、動物にはできません。人間にしかできません。愛することは、動物でも子供を愛せますが、人に与えられた特権中の特権が、この人を敬うということと、者を敬うというのと、恥ずかしいと思うことになります。恥というのは、ある意味自分の欲望のセルフコントロールになります。恥ずかしい、こうなると、後で何かばれたりしたら恥ずかしいよな、それでもいいのです。この「敬す」というのがあります。そうすると、今度子路というのがまた言って、それだけですかと言います。そうすると、孔子さんが、自分を修めることができて、それでようやく周りの人を安心させることができるのだよと言います。そうすると、またしつこく子路というのが、え?やっぱりそれだけなのですかと、もっと深い教えを教えてくださいという思いがあります。それだけですかと。そうすると、いわく己を修めて、もって百姓(ひゃくせい)というのは、民のことです。自分を修めることができて、ようやく周りの人を安心させることができるのだ。このことは、尭舜というのは、伝説上の名君子といいますか、これ以上の、統治する方ですごい方はいないと言われていた2人になりますが、尭と言う人と舜と言う人、その人たちですら、これを散々悩んだよ、これ、簡単なことだと思うなと言っています。ですので、西郷さんも、「克己復礼」というのを言っているぐらい、本当に難しいことです。ここの語源が、この「子路、君子を問う」というところです。

5番、「四を絶つ」。孔子さんというのは、4つを絶たれました。先ほど言いました欲望というところと思ってください。「事前事後」というのは、何か物事が起きる前と起こった後というふうに読み分けてください。事前というのは、「意」というのは、もうここに書いてあるとおりですね。「意」と「必」というのを止めた。何か物事が起こって、何か自分が責められている状況においても、いや、絶対こうやるべきなのです、それでもって言い張る「固」。私はそうは言われても、正しいですってやるのが「我」というやつです。「意」、「必」、「固」、「我」というのをとことんこだわるということををやってはいかんぞと。「己に克つの極功は」、自分に克つための一番大切なことは、この4つを絶つことだよというふうに、西郷さんは言っています。そういうものになります。
「人にして遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり」というのがあります。これは先ほど言いました「遠慮」という言葉の語源でございます。

第三章 治人~組織内の人々との関わり~
根幹と枝葉

それでは、続きまして、「治人」に参りたいと思います。もう①一個だけ説明しておきますと、子路という人が言いました。孔子さん、もしあなたが政治をやる場合、何を先にしますかと言います。そうすると、「名」、まずスローガンとか、ポリシーというのを定めますと言います。そうすると、子路という弟子が、何でそんな回りくどいことをするのですかと、さっさと行動しましょうよと言います。そうすると、子いわく、「いや野なるかな」ということで、何て野蛮なことを言っているのだと、わからないなら黙っておきなさい、ちゃんと聞きなさいと言って、この説明が始まります。スローガン、ポリシーをちゃんと定めれば、その後、いろいろと政策とか、事業方針とかを伝えたときに、みんなが納得しやすくなる。納得すれば、みんな実行が伴ってきますので、その政権とか、社内政治というのが安定することというのが出ます。そうすると、社内が治まっているので教育が始められます。「礼」と言う。「礼」というのは教育という意味です。教育、つまり恥、これはしてはだめだとか、これやってよいとかいうのがわかってくると、刑罰、つまりどういうことをしたら怒られるか、罰せられるかというのをみんな学んでいきますと言っています。裁判とか、処分、処罰と思ってもらえばいいです。刑罰というのが定まってくる。そうすると、みんな手足、いやもう手とか足をどこに出せばいいのだろうというふうに不安がることがなくなっていくというのが、この文章の流れになります。非常にロジックが珍しく事細かに書かれている『論語』の一文です。ここから「名を正す」という、「名(めい)を正す」とも言いますが、そういう言葉が出て来ています。最初に方針とかをきちんと、企業でいいますと、経営理念等を伝えるのが大切だということになります。

バランス~文質彬彬~

では、続きまして、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」。参考までに言っておきますと、「いにしえの言葉をお書きになられました」とビジネス訳に書いておりますが、これはおそらく『論語』ではなくて、『孟子』というものになります。孟子とは、孔子の100年後に生まれた方になります。で、こういうふうなことを書いていますということで、ここで、『論語』で私が引き上げましたのが「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」というやつです。これは生きる上でも非常に重要な言葉ですので、きょう、ぜひ覚えていただきたいなというのは、これになります。要は内面も外見もそれぞれ重要なのだ、表裏一体なのだというのが「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」ということです。子いわく、孔子は言いました。中身が外側に勝つと、それは野になる。イメージとしては、飲み会等の席で、ちょっとイメージしてください、和室があって、飲み会の席で、片ひざ立てて人としゃべっている。でも、中身はあるのです。哲学も持っています。それはやぼったいねというふうに見えますと。一方、「文質に勝てば」というのは、正座しています、きっちりしています、応答もしっかりしていますが、中身がないっていうやつです。哲学を持っていないな、この人はというのが、これが「史」という意味になります。それは両方ともバランスを取ってこそ、初めて君子、立派な人になっていけるのだということです。特に「質」というほうは時間がかかります。ここから資質とかっていうのを言いますよね。自分の中身、この「質」というのは、おのが2つ並んでいると思います。これ、パンの1斤、2斤というやつの斤が並んで、2つ同じぐらいの財、貝殻があるので、同じような値打ちがあるっていうのが、この「質」となります。中身が充実しているというのを言います。「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」、同じようなところで、文は名を、「質のごとし」という文章がございます。これは何を言っているかといいますと、「虎豹の?は」ってございますが、虎とか豹の皮、毛皮です。それをなめしてしまったら犬の皮と一緒じゃないかと言っています。つまり、外側とか表面は軽んじていいのだよとか言うと、そんなことはないということです。やっぱりきれいな毛並みというのも大切になると。ですから、両方必要だというものになります。

第四章 主権~他組織との関わり~
自らを知ることから

主権のところです。「自らを知ることから。」ここはもう『論語』のところだけ説明したいと思います。①「諸れを己に求む。」この文章も、名文中の名文と言われるものです。自分を振り返れということです。「諸れ」というのは、道であったり、物事の原因とか、あと物事を進めるときの推進力とかというのは、あなたが動かなくてどうするの?というやつです。あなたが自分に原因とか求めて改善していかなくてどうするの?周りのせいにして、何か変わるの?というやつです。孔子という方は非常に合理的な実践家でしたので、ちゃんと物事が変化するように、状況が好転するようにするためにはということでいろんな教えをやっていますが、その代表が、この一つです。周りがどうのこうの言ったって、周りは変わるわけないので、自分が変わるしかないではないかというのが、この文章でございます。
②「異端を攻むるは」、これは流行でも、当時、そのときはやっている何か考え方とか、やり方を最優先してもだめだ、むだになるだけだというのが、この言葉です。やはり、皆さんそれぞれが、いろいろな考え方で、いろいろな行動をするべきだというふうに言っていますが、そのとおりだと思います。ここの言葉のとおりだと思います。それぞれどこの企業がうまくいっているからといって、それをまねしたり、隣の人が何かうまいやり方をやっているからといって、自分がまねしても、なかなかうまくいきません。やはり自分ならではのとか、その組織ならではのというのがあります。

覚悟する

それでは、最後でございますが、「覚悟する」。ここは3つございます、『論語』の中では。「利を見ては義を思い」、利益とか得になるようなことがあったら、それが正しいかどうかを考えなさい。「危うきを見ては」、それが危険だからといって逃げてはだめだというところの文章になります。そのぐらいできたら聖人と言っていいかな。今でいう聖人の基の言葉ですね。

②は①と非常に似ているのですが、同じように、「危うきを見ては」という言葉があって、次に、「利を見ては」ではなくて「得るを見ては」という言葉になります。ここが、先ほど冒頭に申し上げた『論語』の不思議なところで、同じような教え、ただ、言った弟子が違う、対象となる弟子が違ったので、このように違う言葉で存在しているということです。

③、これも非常に有名な言葉なのですが、「義を見て為さざるは勇無きなり」。その場その場で正しいと思うこと、自分で心の中では正しいと思っているのだけどやれない、怒られるからとか、だれかに何か言われては嫌だなとかいうものになります。ここは例えば、やるのであれば、街を歩いていまして、ごみが落ちていたら拾おうとか、席を譲ってあげようとか、席を譲ったら、なんかあの人偽善者っぽいなという目で見られたらどうしようとか考えないで、「私はそんな老人じゃありません」とか言われるのを恐れないでやっていくというところになります。意外にその毎日の行動とか、日々のところに、たくさん道徳というのは実践していけるのだというのが『論語』の思想です。決して高尚なものではありません。日々のところで、私も悩んで、進んでおりますが、ぜひ皆様も、もしよろしければ『論語』というもの、少なくとも、きょう相当重要な言葉をお伝えしていますので、皆様の今後に役立てればいいかなと思います。ということで、私の講義を終わりたいと思います。

質疑応答

質問者:
『論語』の現代風の解釈を聞いて感心したところでございます。私は、私的なことを言いますと、昭和8年生まれでございまして、戦後の1年間旧制中学の教育を受けております。その際、旧制中学から新制中学に変わりました3年間の間に、漢文がございまして、『論語』を教わった覚えがございます。その中で、幾つか言葉を覚えておりますけれども、学而。「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや」とか、「義を見て為さざるは勇無きなり」という言葉がございます。きょうのこのマネジメント塾のテーマでございます「リーダーと論語」というテーマに関連して、ちょっと思い出したのが一つございました。それで、私の解釈がこれでいいのかどうか、ちょっと伺いたいと思います。「子曰わく、三人行えば必ず我が師あり。その善なる者を選び、之にしたがい、その不善なる者にしてこれをを改む」という『論語』の有名な一節を覚えております。その意味するところは、前段は何事も行うとすれば、その仲間には必ず師がいて、先生があり、リーダーがあると、すぐれた人からは積極的に学ぶべきであるというふうな解釈であると思います。後段は、劣る人は反省の材料にしなさいと、お互いにリーダーシップを発揮しなさいというふうな、リーダーの質を説いたように、私は解釈しております。まあ、今先生のお話を伺って、そのように解釈をしたわけでございますけれども、先生の今現代のビジネスレベルに置き換えました話を伺いますと、その『論語』はマネジメント、リーダーシップの神髄を説いたものではないかと解釈できると、そのように解釈しておりますが、そのような解釈でいいのかどうかお伺いしたいと思います。

青柳:
今ご質問いただきましたのは、「三人行けば必ず師あり」という、やはり有名な言葉でございます。つまり、学びの場というのは、私たちの周りにいくらでもあるというものです。つまり、自分がいます。仮にこういうふうに3人で何か行動を共にする。行くというのは、どこかに行くというのもありますし、行動を共にするでも結構です。そのときに、自分よりもレベルが上だなと思う人からは学べますよね、見本となります。自分よりもレベルが下って思った場合、つまり、何かこの人に対して欠点を感じた場合、弱みとか、それは、自分は果たしてどうなのかな?できているのかな?人のことを言えるような立場なのかなと学べます。これが「三人行けば必ず師あり」、周りに先生がいないよとかいうのではなくて、必ず学べるというやつです。俗っぽい言葉で言うと、反面教師という言葉がありますが、この下の人は、そういうものになります。実は「この三人行けば」というのは、私はそういうふうに考えておりまして、至るところでその学びというのが得られる、つまり、自分の物の見方さえ軸がしっかりしていれば、見本ともなるし、自分はどうかなとチェックしてくれる人ともなるというふうに、私はこれを解釈しております。企業とか組織も、やはり同じことが言えるのかなと思います。「何とか部はいつもこうだよね」とか言っている部があったとしましても、自分たちは本当にできているのかなというのは、少なくとも私が担当していた部門においては、それを励行しておりました。人の部を言う前に、自分たちのまずチェック表でも作りなさいと言って。