平成26年度特別講座:東京編~地方から世界を変える~

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾

平成26年度講座内容

【特別講座:東京編】幕末の改革者 山田方谷に学ぶ改革成功の鍵
~地方から世界を変える~

講師
野島 透氏 (山田方谷六代孫)
場所
富士ソフトアキバプラザ 2Fアキバシアター(千代田区神田練塀町3)
放送予定日時
平成27年1月24日(土) 6:00~ 7:00歌謡ポップスチャンネル
12:30~13:30 ホームドラマチャンネル
※以降随時放送

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野島 透(のじま とおる)

山田方谷六代孫

昭和36年(1961)生まれ。山田方谷研究家。東大卒業後、大蔵省(現財務省)に入省。大阪国税局査察部長、関東財務局総務部長、財務省大臣官房文書課室長、内閣府参事官、財務省大臣官房会計課長、九州財務局長等を歴任。現在UR都市機構に理事として出向。山田方谷翁の六代孫であり山田済斎(二松学舎専門学校初代校長)は野島氏の曾祖父にあたる。

講座内容

野島:
 山田方谷について1から10までお話しさせていただきます。なぜ今、山田方谷なのでしょうか。今現在の日本は、幕末と同じような状況になっています。東京一極集中になっているなかで、経済も社会システムも閉塞感が出てきており、地域の活性化も当然やらなければなりません。そのためには、大きな理念、方谷は大志と言っていますが、大きな志や夢を持つことが必要ではないか、ということを訴えたいのです。大志を持つことの重要性を全国に広めていく必要があるのではないでしょうか。また教育こそが国の基本であり、方谷は教育に力を入れました。教育を通じて日本を活性化し、日本から世界を変えていければ、と思っている次第です。では、山田方谷はどのような人物であるのか。生まれは岡山県の高梁市です。

 弟など家族を養っていかなければなりません。むかし、おしんというドラマがありましたが、日中は田植えや稲刈りをしたり、夜は菜種油を作ったり、男おしんとして苦労に苦労を重ねていました。そのようななかで勉学に励み、備中松山藩の藩主に認められ、有終館という藩校で学ぶことを許されました。その後、江戸まで遊学し、江戸の中心的な佐藤一斎先生の塾で勉強することができました。

 方谷が入塾する前には、幕末に影響を及ぼした佐久間象山がいたのですが、それにもかかわらず方谷が塾頭になり、当時はその二人が二傑としている状況でした。その後、方谷は地元の岡山に戻りましたが、学問に優れていましたので、備中松山藩の藩主の息子の教育係長もやっていました。その人物が板倉勝静さんです。

 備中松山藩は5万石といわれておりましたが、実際は2万石しかなく、借金の嵐でした。東海道の参勤交代のときには、東海道の籠かけですら「備中松山藩の籠はかぐな」と言うぐらい貧しい状況だったのです。そのような状況のなかで、方谷は板倉勝静から財政と藩政を改革してくれ、と言われました。しかし当時は、世襲制で藩の役人の上層部は武士階級であり、農民の出身の方谷は悩んだのですが、意を決し、その責を受け止めたようです。どのような改革をしたかについては、後ほど触れさせていただきます。

 藩主の命を受けた方谷の七大改革が成功し、また板倉勝静の家柄も良かったので、勝静は15代将軍の徳川慶喜の筆頭老中となり、黒船の来航以降、幕末のいちばん厳しい時期の財政・外交を担当していました。最近の研究では、板倉勝静は15代将軍の筆頭老中、今でいう総理大臣だったということもあり、大政奉還の建白書も起草したのではないか、という説も出ています。その後、明治維新となり、大久保利通や木戸孝允から手腕を買われ、明治政府で大蔵大臣として働かないか、と言われたのですが、「忠臣は二君に仕えず」ということで、教育に専念して明治政府には出仕しませんでした。

 もしそのとき方谷が、明治政府に出仕していれば、もう少し名前も売れていたかもしれませんが、方谷自身はそのようなことを望まなかったのでしょう。その代わり教育に専念して、国宝になった岡山県の閑谷学校などを再興し、そのなかから大正天皇の教育長となった三島中洲や河合継之助などが出ています。

 方谷は、心構えと理念がしっかりしていました。少し難しい字ですが、「至誠惻怛(しせいそくだつ)」と読みます。つまり、誠を尽くし、真心といたみ悲しむ心で政策を行っていかなければならない、というようなことを説いています。次に、これは佐藤一斎塾にいた31~32歳頃に書いた、といわれる理財論の有名な言葉です。「事の外に立って事の内に屈せず」。そして、理財論の下には「義を明らかにして、利を計らず」とあります。そのような心構えで改革をしていこう、ということです。

 理財論の上を、少し読ませていただきます。「総じて善く天下の事を制する者は、事の外に立って事の内に屈しないものだ。しかるに当今の理財の当事者は悉く財の内に屈している。ただ理財の末端に走り、金銭の増減にのみこだわっている。これは財の内に屈しているものである。」「そこで、当代の名君と賢臣とが思いをここにめぐらして、超然として財の外に立ち、財の内に屈せず、金銭の出納収支はこれを係りの役人に委任し、ただその大綱を掌握管理するにとどめる。そして財の外に識見を立て、道義を明らかにして人心を正し、習俗の浮華を除き風気を敦厚にし、賄賂を禁じて官吏を清廉にし、民生に努めて民物を豊かにし、正道を尊重して文教を振興し、士気を振い武備を張るならば、政道はここに整備し政令はここに明確になる。かくて経国の大道は治まらざる事なく、理財の方途もまた従って通じる。」

 改革など何かの物事をしようとするときは、どうしてもそのことに注意がいってしまい、大局的な視点がなくなってしまうでしょう。自分の関心のあることだけをやると「事のうちに屈して」なかなか改革がうまくいかない。大局的な観点や大きな道義を明らかにすることが重要である。つまり、「事の外に立つべきだ」ということです。

 理財論の下です。「義と利との区別をつけるのが重要なことです。政道を整備して政令を明確にするのは義のことです。飢餓と死亡とを免れんとするのは利のことです。君子は義を明らかにして利を計らないものです。」「義と利との区別が一たび明らかになれば、守るべき道が定まります。」「利は義の和と言います。政道が整備し政令が明確になるならば、飢餓と死亡とは免れないことはありません。」義とは、人間として正しい道、人間として取るべき道、という感じです。それをやっていれば後から利益は付いてくる。方谷は、義理先行説を唱えており、まずは義を明らかにすべきであろうと。

 例えば、全日空の大橋会長は、航空会社としての正しい義とは何であろうか、と問い、儲けることよりもお客をきちんと目的地まで正しく早く運ぶことが航空会社の義であろう、と考えました。それを一番大きな目標として、たくさんある労働組合を説得し、収益を改善していきました。また、ある医療メーカーでは、儲けることではなく、いろいろな方に喜んで医療を受けてもらうことを義として立てることで、収益を改善していきました。そのような例がいくつか出ています。

 10年ぐらい前にも義の重要性をお話させて頂きました。その頃は、私の後輩のホリエモンが元気なときで、儲けることの方が重要ではないかという感じでしたが、今になって思えば、やはり義がなければ利益を上げても、利をうまく使えないようです。「義を明らかにして利を計らず」。これは方谷の弟子で大正天皇の教育長だった三島中洲を通じて、渋沢栄一に伝わりました。渋沢栄一は、義を論語、そして利を算盤として、「論語と算盤」という形で分かりやすくしてくれました。「論語と算盤」も論語の上に算盤がある、そういう趣旨なのでしょう。

 方谷の改革は、藩主や藩の偉い人たちのためではなく、今で言えば、政府や官僚のためでもなく、「士民撫育(しみんぶいく)」、士は武士、民は農民、つまり国民のためでした。領民を富ませることが活力を生み、国を富ませるのです。江戸時代の幕府の改革は、どちらかと言えば、幕府側の立場、幕府や藩の収益を改善するというものでした。そのあたりが根本的な違いです。藩財政についての上申書では、士民撫育の考え方を述べています。「藩国の御天職は、恐れながら御家中の諸士並びに百姓、町人共を御撫育遊ばされ候にこれ有る御事と存じ奉り候。其の御撫育の方は限りなき事に御座候とも、まず差当り御急務と申すべきは(=最初にやるべきことは)、御家中は御借上げ米を御戻し下され候これ有。(=税金をもっと安くするべきである。)百姓は課役を減じ、難渋村を御取り立て下され、町人は金銭融通付け、交易を盛んに成し下され候儀と存じ奉り候。(=困っている農民の税金を下げ、払えない者の税金を免除し、町人には金融の便宜をはかること。藩内の物を売るために貿易を盛んにすること。)」上申書はこのようなもので、すべては国民のためでした。

 会社の経営者でも現状分析ができないところがありますが、方谷はきちんと現状分析をしています。家老や武士階級からいろいろと言われていたのですが、私塾で教えていた教え子なども使い、当時の状況を調べていました。こちら側が収入と支出です。1849年の支出は、約7万5,800両でした。当時は、アヘン戦争が1842年にあり、ペリーが1853年に来航し、日本各地に黒船が来ていました。

 支出の内訳は、江戸表・松山役所費用1万4,000両、武備一切金1万両。また異国船が来たことで、痛異国船武備臨時金5,000両を幕府に納めていました。次に収入の内訳ですが、定期収入は2万2,000両しかなく、公債依存度は71%。要するに、定期収入だけでは収入全体の約3割しか賄えなかったのです。特別収入として山林や産物に義益金を課すなどして、1万2,800両程度を得るのですが、それでも公債依存度は43%もあり、今の日本の財政よりも悪い状況でした。

 このようななかで、方谷はどのような改革をしたのか。いわゆる七大改革といわれています。それまでは、上杉鷹山の改革をはじめ、どちらかと言えば農村を主体に置き、経費節減・質素倹約というやり方でしたが、方谷は考え方を180度変えました。

 まず1つは、地方の良さ、独自性を活かしながら産業振興をしていきます。備中松山藩は、倉敷のちょうど上の山側の近くにあり、鉄が採れました。それまでは出た鉄を商人に売っていましたが、付加価値を付けた鉄製品を販売したのです。そのさい、どのような製品が売れるか、江戸の藩邸にも調べさせたのですが、江戸では火事と喧嘩が非常に盛んだということから、木が燃えてしまった後に必要となる鉄釘を作りました。また、先が3本に割れた鍬を作り、備中鍬として全国に売りさばきました。今でも大阪の方では鍬のことを備中と呼ぶようです。つまり、地域の特産品や地元から多大に出てくる産物に付加価値を付けた物を作り、交易によって大きく売り払っていくことで、まずは収入を増やしていくための政策を取りました。また運賃・流通コストを下げるために、藩がみずから運ぶための船も買いました。ちなみに「快風丸」という船で、この船は備中鍬や鉄釘だけではなく、人間も運んでいます。安中藩(備中松山藩の分家)の新島襄は快風丸で函館まで行き、その後アメリカまで行きました。

 もし、方谷の改革がなければ、新島襄は快風丸に乗れず、海外へは行けなかったかもしれません。今の同志社大学やキリスト教の布教も大きく変わっていたでしょう。まずは地域独自の特長を活かし、それに付加価値を付ける、このような政策は今にも通じているのではないでしょうか。

 次は負債整理です。負債整理をするさいは、個別にお願いするのが一般的なやり方でした。ところが、方谷は金主の加島屋などを一度に集め、備中松山藩の赤字の現状を報告したのです。そのさい、先ほどお見せした表を作り、備中松山藩はすごい赤字であることを藩主に伝え、大阪の商人に説明しようとしたところ、家老の重役が次のように言ったようです。「そのようなことをしたら備中松山藩の恥をさらすことになる。金主からお金を借りられなくなるので、そのようなことは止せ」。それに対して方谷は、このように返しました。「対面ばかりを気にするのは、小信を守るやり方です。我々がやらなければならないのは、藩の存続と国民の利益を守ることです。大信の前には、小信を捨てざるを得ません」。そのように振り切り、大阪蔵屋敷の商人に話したところ、綿密な返済計画があったこともあり、受け入れてもらうことができました。そして、猶予をしてもらっている間に、産業振興によってお金を儲けていくのです。また、当時の武士は商売をしなかったので、採れた米を大阪の蔵屋敷に渡し、商人に売ってもらっていましたが、蔵屋敷を廃止して藩に収める蔵を作りました。

 いちばん大きなポイントは、藩札を刷新したことです。先ほど申し上げたように「備中松山藩の籠はかぐな」と言われるぐらい備中松山藩の藩札は信用力がなく、本来は十両で済むところで二十両出さなければなりませんでした。そこで藩札を刷新するのです。どうしたかというと、「旧藩札を持ってくれば新札に換える」という立て札を立て、旧藩札を集めます。そして、高梁川の河原にて朝8時から夜5時頃まで三日三晩、集めた旧藩札を燃やすというデモンストレーションを行いました。

 新札については、産業振興などで得た利益と兌換できるようにすることで、藩札の信用力は格段に高まったようです。このような話をすると、ある人は「太平洋戦争の後に行われた新円切り替えと同じではないか」とおっしゃいました。しかし、新円切り替えとは大きく違います。藩札刷新の場合は単に藩札を新しくしたのではなく、基軸通貨をとりました。本来、藩札は領内だけでしか流通しませんが、信用力のある藩札は藩を超えた他のところでも出回り、貨幣の価値が高まることで、実際の経済以上に藩の収入が大きくなりました。今の時代に当てはめれば、ドルと同じようなものです。そのように藩札の流通量が増えていくことで収入がよくなる、という政策を行っています。

 また他の改革と同じように、当然上下節約をしていますが、方谷が行った節約の大きな特徴は、上級武士については賃金カットなどで節約の幅が大きかったのですが、下級武士以下には節約をほとんど課しませんでした。

 次は民生刷新改革です。大阪の蔵屋敷を廃止したことで、採れた米を領内に置かなければなりませんが、いっぺんに置くのではなくあちらこちらに置き、飢饉や凶作など万が一のときに備え、治安維持を図りました。幕末には珍しく、備中松山藩では農民一揆が起こらなかったようです。また、賄賂の改めや目安箱の設置も行っています。

 教育改革については、寺子屋や家塾などを造りました。それまでは武士の子供しか教育を受けられなかったのですが、商人、町人、そして女子にまで教育を普及させました。そこから優秀な人たちが出ています。女子教育に力を入れたことは、エポック的なマターになるのではないかと思います。

 当時は欧米からの外圧もあり、軍政改革も行っています。武士が軍政を行うという発想を180度変え、農民兵を里正隊として組織しました。方谷が改革をしたのは、1850年から1857年頃までの間でしたが、方谷のもとへ訪れた久坂玄瑞は、農民兵を見習うべきであると高杉晋作に報告し、その後で騎兵隊が組織されたようです。

 それでは、ここから何が読み取れ、現代にどのようなヒントを与えられるでしょうか。

 前提となる理念や改革の目的を明確にし、領民や国民に分かりやすく話したことが、いちばんのポイントでしょう。それらを話したうえで、自分の置かれた立場なり、会社の現状などを正確に把握していました。そして、把握した現状を自分で持っておくだけではなく、情報交換によって透明性を高めたのです。

 また、藩だけが利益を得るのではなく、豊かさを国民に還元しました。今の時代の会社でいえば、会社の利益を社長だけではなく、従業員および顧客にも還元する。国でいえば、利益を国民にも還元する。という形につながっていくでしょう。

 今日のタイトルは、地方から世界を変えるというものですが、地域の実情に応じた政策が必要なのでしょう。日本全国で統一的な施策ではなく、例えば岡山、鹿児島、北海道など、その地域の特徴を活かした施策を作るということです。方谷は、農村などによく出かけ、茄子の値段まで知っていたというぐらい、現場主義の人でした。やはり地域の現場に基づかなければなりません。

 方谷は、大衆の面前で藩札を燃やすといった内外への宣伝、あるいは情報収集にも積極的で、江戸の火事など各地の売り筋を踏まえた製品を作りました。

 社長だけが決断をしても組織は動きません。自分の思いや改革の方向性や理念を共有してくれる人たちを増やす、つまり改革支援者の育成と人材登用が必要です。自分一人ではできません。

 改革を行うにあたり、方谷は率先垂範しました。元締役というのは賄賂が入るところでしたが、自分自身の家計は第三者に任せて明瞭にし、尚且つ給与も半分にしたそうです。そのようなわけで山田家はずっと貧乏そのものでした。そういったことで私の祖父が野島家に養子に入ったというわけなのですが。

 江戸幕府には老中や寺社奉行などいろいろありましたが、それにかかる費用は、自分たちで賄わなければならず、幕府からお金は出なかったのです。幕府の高官になれば藩財政を圧迫するので、ある程度は裕福な藩でなければできませんでした。方谷は、従来の成功体験を捨て新しい政策を打ったことで、貧乏藩といわれた備中松山藩は非常に裕福になり、藩主の板倉勝静は、外交と財政を担当する筆頭老中、今でいう総理大臣になりました。方谷も板倉とともに江戸に出て、江戸幕府の顧問になったのです。安政の大獄では、井伊直弼のやり方に反対をしたことで、一時的に板倉も老中を罷免されました。

 当時、吉田松陰は犯罪者として刑罰で殺され、遺骨は野ざらしにされていたのですが、久坂玄瑞から頼まれた方谷は、遺骨を長州に戻しました。方谷がそれをしなければ、今のような松陰神社もできなかった、もしくは、今のような神社ではなかったのではないかと思います。

 桜田門外の変の後、文久の改革をやりましたが、時すでに遅しで大政奉還に結び付きました。大政奉還の建白書のそもそもの原文は、方谷が書いたのではないかと言われています。永井尚志は大名の出身なのでそこまでは書けないだろうし、薩長の浪士たちは学者の先生がいない、そして徳川慶喜自体が就いたときから大政奉還のことも考えていたのではないか、ということからもそのような説が出ています。

 「忠臣は二君に仕えず」ということで明治政府には仕えず、どちらかと言えば子弟、若者野の教育に力を入れました。岡山にある国宝の閑谷学校や、岡山各地でも明親館、知本館などの学校を再興したということです。

 方谷には約1,000名の弟子がいたのではないかといわれています。大正天皇の教育長・三島中州、川田剛、司馬遼太郎の「峠」の主人公・河井継之助、自由民権運動の中心人物だった井手茂蔵。あとは、岡山初の女学校をつくった福西志計子、東京巣鴨に家庭学校をつくった留岡幸助、日本救世軍の最高司令官・山室軍平、児童福祉の父といわれた石井十次など。当時で言えば、天皇など皇族関係から福祉まで、経済から政治まで、幅広い人材を輩出しました。

 方谷は朱子学もやっていましたが、陽明学者とも言われています。方谷の日本版陽明学はどのようなものであったか、誠意中心主義から少し紐解いて話していこうかと思います。そもそも儒学は朱子学や陽明学の原点であり、すべて儒教の四書五経にいきつきます。ご承知のように、四書としては論語・大学・中庸・孟子、五経としては、易経・詩経・書経・礼記・春秋です。これらが儒学の根本にあります。そのなかの大学は、対人の学として、天下の指導者になるべき人々の学問で、漢の武帝が儒教を国教と定めたときにまとめたものです。

 はじめには次のような件があります。「古の明徳を天下に明らかにせんと欲せし者は、先ず其の国を治めたり。其の国を治めんと欲せし者は、先ず其の家を斉えたり。 其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修めたり。其の身を修めんと欲せし者は、先ず其の心を正しくせり。其の心を正しくせんと欲せし者は、先ず其の意を誠にせり。其の意を誠にせんと欲せし者は、先ず其の知を致す、知を致すは物を格(ただ)すに在り。」

 朱子学と陽明学の根本的な違いは、格物の解釈です。朱子学では格物を「ものにいたる」と読ませ、「ものの本質に至ること」と考えています。一所懸命に学問をして昔のことを調べていくことで、初めてものの本質に至るのだ、というような解釈です。一方、陽明学では格物を「ものをただす」と読ませます。つまり、「曲がったものをまっすぐにすること」、現状がおかしければ直していく、というような解釈です。

 朱子学は宋の時代に朱子が起こし、陽明学は王陽明(1472年から1528年)が起こしました。王陽明が生まれた1472年、当時の日本では、1467年に室町幕府の応仁の乱が起こり、1534年に織田信長が生まれていますので、応仁の乱から戦国時代に至るあたりで、中国は明の時代でした。陽明学は、「心即理」・「致良知」・「知行合一」「事上磨錬」が主なポイントになってきます。朱子学は勉強して理に到達する、一方で陽明学は心の中に理があると考えます。これが「心即理」です。また「致良知」とは、善悪を判断する基準というのは人間が天から与えられたものであり、そして「知行合一」とは、知ることは必ず行うことに結びつく。朱子学では勉強して知っていることで評価されましたが、陽明学では知っていても行わないのは、本当に知ったことになりません。これが「知行合一」です。幕末の維新の方はだいたい陽明学をかじっており、物事を起こす原動力になっていたと思われます。

 次に「事上磨錬」です。朱子学では机の前に座って勉強するのですが、ある人が王陽明に、「そのような時間がないのだが、どうすればいいのか?」と訊ねたところ、「人間は毎日の生活や仕事のなかで自分を磨いていく必要がある。それでこそ、初めて成果が上がる。」と答えたそうです。これを現代風に置き換えると、経営の勘やノウハウは、本や人の話から勉強するだけでは駄目で、実際の自分の仕事や生活から体得していく必要がある、ということでしょう。陽明学では、現実の社会のなかで行動に移すことを重視したところが、朱子学との大きな違いです。

 方谷は朱子学と陽明学を学び、「致良知」・「格物」・「誠意」、この三項目を陽明学の眼目として取り上げ、「致良知」と「格物」とが柱となって「誠意」を支えている、と考えました。「良知を致すことによって誠意の本体を確認し、格物の実践によって誠意が実際のものになる」。何語をなすにも誠意を中心とするのが、方谷の心情でした。

 陽明学が日本に入ってきたのは、織田信長が活躍した時代以降でした。江戸の初期・中期では、中江藤樹、熊沢蕃山。江戸後期では、方谷と佐久間象山の先生である佐藤一斎、 吉田松陰の弟子の久坂玄瑞、高杉晋作、そして春日潜庵に影響を受けた西郷隆盛、大久保利通、さらには横井小楠に影響を受けた坂本竜馬、謀反を起こしましたが大塩平八郎などです。昭和では、安岡正篤です。平成という元号を発案し、歴代総理の指南役でした。

 陽明学を取り入れた方谷の思想は、三島中洲を通じて、渋沢栄一の「論語と算盤」、そして黒岩神奈川県知事や長崎市長なども取り入れているようですし、大企業病に罹っていた企業を再度発展させた経営者もいらっしゃいます。

 ここからは、地方から日本を変えるという論点になりますが、やはり地方が元気にならなければ、日本は元気になりません。東京一極集中は日本国にとってもマイナスでしょう。そして、地方が元気になってもらうためには、人材教育も当然のことながら、地方の特性を活かした物を作っていく。方谷がやったように、地元で採れた鉄に付加価値をつけて、売れる物を作っていく。地方の町並みを活かして観光客を呼び込む。そのようなことが必要になってくるでしょう。

 岩崎財団のような形で、全国に教育を発信していこうという試みは、非常に重要だと思います。何でもいいのですが、皆さん方の得意なもので青少年に向けた教育をしていくことが、底上げとなるでしょう。そのような機運が、全般的に地盤沈下の続いている日本が世界に発信していくための土台になっていくのではないでしょうか。

 方谷は、幕末から明治維新の初めまで、西郷隆盛が亡くなった明治10年まで生きていました。その生涯を大河ドラマにするために、地元の岡山では署名活動を行い、2年間で65万人分ぐらいが集まっているようです。方谷を描くことは、人々に勇気を与えることができるでしょう。もしできれば、みなさまのご協力をいただければ、ありがたく思います。

 「人は夢を持つことが肝心なり。されど夢を実現せんとすれば、まず自ら努力することを忘るるべからず。ただ必ず夢は叶うと信じるのみ」。方谷は、この言葉を最期に残しました。夢を持つこと、大使を抱くことが重要ですが、ただ唱えるだけではなく、それに向けて努力する。そうすれば、必ず夢は叶います。この講演会を聞かれた方、見られた方は、地方から世界を変えるという夢を抱いて努力していただければ、地方から日本、そして世界を必ず変えられると思います。よろしくお願いいたします。以上で、私の講演会を終わりたいと思います。ご清聴、ありがとうございました。