平成26年度第3回:~②グローバルで通用する教養の実際~

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾

平成26年度講座内容

【第3回】リベラルアーツ概論(後編) これからの教養の考え方
~②グローバルで通用する教養の実際~

講師
川上 真史氏 (ビジネス・ブレークスルー大学大学院教授)
場所
岩崎育英文化財団岩崎学生寮 (東京都世田谷区北烏山7-12-20)
放送予定日時
平成27年5月9日(土) 6:00~7:00 ホームドラマチャンネル
平成27年5月9日(土) 12:30~13:30 歌謡ポップスチャンネル

※以降随時放送

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川上 真史 (かわかみしんじ)

ビジネス・ブレークスルー大学教授
明治大学大学院 兼任講師
株式会社タイムズコア 代表取締役

京都大学教育学部教育心理学科卒業、産業能率大学総合研究所研究員、ヘイコンサルティンググループコンサルタント、タワーズワトソンディレクターを経て現職。2005年4月よりビジネス・ブレークスルー大学院大学専任教授、ボンド大学非常勤准教授。2013年4月より明治大学大学院グローバルビジネス研究科兼任講師。数多くの企業の人材マネジメント戦略、人事制度改革のコンサルティングに従事する。

講義内容

川名:
こんにちは。本日はリベラルアーツ概論後編ということで、引き続き川上先生にお話を伺っていきたいと思います。川上先生、よろしくお願いいたします。

川上:
よろしくお願いいたします。前編のところで、創造性につなげる教養、リベラルアーツが大事であるというお話をさせていただいたと思います。そこで、これをご説明しました。思考、感情、直観、感覚という4つの判断軸をフル稼働させられれば創造性につながります。かつ、それぞれ2つずつ組み合わせて4つの領域があり、それぞれ教養領域があるということを申し上げました。あのときに、攻めの教養、守りの教養というお話をしたと思います。攻めの教養はどちらかというと、この右側のほうです。守りの教養はこの左側のほうです。これはなぜかと言いますと、守りの教養になる領域はダイバーシティが関与するというお話をしました。国によって、民族によって、人種によって、いろいろな違いが起こってくるという部分があるということなのですが、なぜ、ダイバーシティになるかというと、直観が入るからです。直観というのは、多分に無意識的な要素もありますし、社会によって共通して持っている無意識などもあります。ですから、そういう社会の中で一緒にいる人たちは直観的に必ずこう思うのですが、別のところに行くと、直観的には違ったことを感じるなど、そういうことでズレが起こるのです。ところが攻めの教養のほうは感覚的判断が入ります。感覚というのは適当に判断することではなく、正確に観察することでしたね。ですから、正確な観察があり、事実というものを見極めるということがあるので、割と共通しているということなのです。

グローバルなどで動いていくときに、少しこの攻めと守りということも考えていただいた上で4つの教養領域、こういったところを身に付けていっていただけると大変ありがたいです。ですので、今回はそれぞれどんな教養であって、どういうふうなかたちで身に付けていくと創造性に繋がるのか、あるいはグローバルやダイバーシティの中で信頼関係を作り上げることができるのかというところを申し上げていきたいと思います。

川名:
はい。

川上:
まずは分かりやすいほうで攻めのほうからまいりたいと思いますが、科学的な教養です。これの基本はデータを集め、そのデータを統計的に解析することによって、自分の意見や思いを入れずに何が起こっているかを見ていくと申し上げました。本格的に心理学の世界では、多変量解析というかなりややこしいものを使っていきますが、教養領域としてのお話ですので、簡単なことで申し上げます。

川名:
はい。

川上:
以下の3つを常に意識して物を見ていただけると分かりやすいと思います。まず、データ数です。Nという記号を使いますが、どれぐらいデータを集めたのかという話です。それからグループ間の差異の度合い。それは本当に差があると言えるのか、たまたま偶然そういう差になっていただけではないのか。例えば、男性と女性でどちらの平均身長が高いのかということを考えるときに、たまたま女性はバレーボールの選手ばかりが集まっていて、男性は競馬の騎手ばかり集まっていたとなると、女性のほうが高いとなってしまうこともあります。本当に統計的に見て差があるということ。これを有意差(P)があると言います。もう一つは、一方が高まればもう一方も高まるという、その関係の強さがあるのか。これは相関というものです。PやRなどいろいろ記号は使います。この3つを常に意識しながら物を見ていく、考えていく。これをやっていると科学的な視点が身に付いてきます。

川名:
このデータ数Nというのは、もちろん数も大事ですが、どういった手法で、そのNのサンプルを集めてきたかということを説明することも大事ですよね。

川上:
おっしゃるとおりです。大事ですね。ですから、本格的な科学になると、その説明がつくだけの絶対量のデータを集めるのです。心理学では、パーソナリティーテストがあります。その設問数×100が最低です。要は50問の診断テストを作ろうとすると、5,000のデータを集めてこないと、そのテストは最低限ものを言えません。商品化する場合は1,000倍または1万件のデータを集めると言われています。おっしゃるとおり、データが偏ると、やはり意味がないということで数を多く集められない場合はサンプルとして偏らないで集めていくことが大切です。この3つを常に意識しています。ですので、心理学はまさにこれをやりますので、心理学専門の人間は面倒くさいと思われます。全部、これを考えるのです。例えば、英語などでもよく言われますが、何歳ぐらいからやっておかないとネイティブの発音ができないとよく言われます。

川名:
はい。

川上:
それはデータ数を何件くらい集めましたか、その年齢までやった人と、それ以降でやった人との間で有意差はどれぐらいありましたか、このP値はどれぐらいでしたか、棄権率0.5%ぐらいだったら許します、と。早くやればやるほど英語の発音がよくなっているというのは、相関は認められているのですかと、すぐ聞くので面倒くさいです。

だから、家内が「うちの子どももそろそろ英会話をやらせたほうがいいのでは」というと、すぐそういうことを言うので、しょっちゅうけんかになってしまいます。そういうことはあるのですが、これは全てにおいて科学的な視点で見ているからということではなく、科学というものはそういうものなのです。そうすると、こういうことが言えるわけです。よく血液型による性格診断が言われるではないですか。

川名:
はい。

川上:
血液型はパーソナリティに影響を与えているのか。例えばB型はどうで、A型はどうでとよく言われます。川名さんは何型ですか。

川名:
私はO型です。

川上:
O型ですか。私はA型なのですが、では、本当にA型で一般的に言われているようにA型は神経質で細かくて、O型は大らかでということがあるのか。A型の人とO型の人を絶対量のN数集めたとき、明確にそういう神経質傾向に関して有意差が出ているのでしょうか。そういうことに常に疑問を持ちながら物を見ていきましょう、考えていきましょうと。私はその調査研究で有意差は見たことがありません。

川名:
あとは、そういうふうに言われているから何となくそういうふうに行動してしまうという、引っ張られるという部分もあるとは思います。

川上:
ええ。行動以前に、そう見てしまうのです。自分を認知してしまうのです。例えば、私はA型で、そういうところがあって、そういう神経質なことをやったとします。「ああ、やはり自分はA型だから」と、そこだけ認知するのです。適当にいい加減にやっているところは無視してしまっているのです。それで、当たっているというふうに見てしまいがちということで、そこでもう一歩、有意差が本当にあるのかどうか見てみましょうと。川名さんは血液型による性格診断は信じていませんか。

川名:
あまり信じていません。

川上:
「あまり」という言葉は、私は全く信じていません。あと、よくこういうことが言われませんか。若い人ほど精神的に弱いと。では、それは本当に相関を取ってみたのでしょうか。年齢の若さと精神的な強さ、弱さというものに相関関係がちゃんとあったのかというところを見ていきます。また、夢を持って努力すると成功すると、これはスポーツ選手が講演すると必ず言います。うちの子どもが小学校のときに3回ぐらい別の人から聞いたと言っていました。では、本当に夢を持って努力して成功するのでしょうか。あなたはそうだったかもしれないですが、それはN数1ではないですか。どれだけN数を取って、夢を持って成功したという人がいるのか、その数を見ていきましょうと。これなどもよく思いますが、経営者の方で成功した人が本を書いたりしています。あれはN数1なのです。あなたはそうやって成功したかもしれませんが、他の人はどうなのかという視点で読むと、この人はこうだったのだという視点で本も見ていくと、ちょっと科学的な視点が出てきます。

あと、朝ご飯を食べると元気になると、いつも言われるではないですか。

川名:
はい。

川上:
私は朝ご飯を食べないほうなので、これが大嫌いなのですが、相関の3つの意味というものがあります。相関関係はAが高いとBも高くなるという傾向なのですが、これは仮説的に3つ考えられます。どれかは分かりません。Aが原因になってBが結果。逆にBが原因でAが結果。AとBを両方とも結果として引き起こす共通する原因がどこかに存在していて、AとBは直接関係ない。相関関係が高いというのは、どれかなのです。これはどれなのかは分かりません。朝ご飯を食べている人であればあるほど元気の度合いは高い、健康度合いは高いという2つの間に相関関係があったとしても、朝ご飯を食べることが原因となって健康になる、元気になるということが結果で出ているのか、原因は元気な人なので、朝ご飯を食べやすいという結果があるのか。それとも、朝ご飯を食べたくなることと元気であることに共通する原因、例えば血圧の問題など、そういうものが別途あるのか。そういうことを考えていくことで、面倒くさいと思うのですが、こういうことが科学的な見方、考え方の基本になります。

川名:
その相関関係まではデータで簡単に出せると思うのですが、原因がどちらにあるかということは判断がすごく難しいところだと思います。

川上:
ええ。そこはいわゆる多変量解析ということになるわけです。主因子分析やいろいろなものがあります。因子分析やクラスター分析など、多変量解析というものをやると因果なども見えてくるものがありますので、興味があったら、そこまで勉強していただければと思います。いずれにしても、そこまでいかなくても、物事をこういう視点で見ていくということがちょっと身に付くと、いろいろな場面で騙されない、間違ったことを信じない、そういうことができるようになります。かつ、グローバルに動いていくときも、こういうことで話をしていくといいです。例えば、今の日本の若い人はこうなだという話を間違ってしてしまうよりは、データで取ると、今、日本はこういうふうな傾向があるというと、向こうも素直に信じられます。

科学的な視点を高めるということで、できるだけデータをたくさん見ていくということが基本です。何かこういうことが起こっているのではないかと思ったら、今はありがたいです、インターネットなどで調べるとデータはいくらでも出てきます。ああいったところで確認していくと、自分の思ったとおりだったとか、ちょっと違っていたとか、そういうことが判断できて、面白いです。より多くのパラダイムの理解ということを書いてあるのですが、パラダイムというのは、日本の中で甘く使われていると思います。パラダイムの転換という言葉を言いますが、パラダイムは実は転換しないものなのです。この考え方は絶対的に間違いがなく、この考えをベースにここから論理をスタートさせれば、すべて間違いないというもの。これをもってパラダイムと言います。

万有引力の法則は物理学で以前はパラダイムでした。今は相対性理論やクオークのところなど、近代宇宙物理学になるとビッグバン理論があったのですが、今はそこにインフレーション理論など、どんどん転換していくというよりは、より本当の深い真実が見えてきます。それをパラダイムにしていくということで、パラダイムが深まっていくとか、あるいは今までのパラダイムが間違っていて新たに変わったというのが正しいと思います。そういう考えじゃないとパラダイムとは言いません。ですので、そういったパラダイム、いろいろなことを理解しておくと話が分かりやすくなります。

科学的な判断も間違わなくなります。例えば、先ほどのビッグバン理論や近代宇宙物理学などでも、別にパラダイム的なところまで行くかどうかは分からないのですが、よく宇宙人が来ているという人もいるではないですか。来ているかもしれませんが、どこからどう来ているのかということを考えるときに、では宇宙の状態はどうなっているのかということを考えると分かりやすいのです。いろいろな判断がつくのです。例えば、地球がある太陽系から一番近い恒星系はどれぐらいの距離がありますか。

川名:
はい。

川上:
2光年ぐらいです。では、1光年はどれぐらいの距離か。光の速さですから、秒速30万キロで光の粒子は動いています。となると、1光年は大体、10兆キロぐらいでしょうか。となると、20兆キロの距離をどうやって来るのでしょうか。今現在、生物が住んでいるかもしれない惑星を持った恒星系は発見されています。6.5光年先です。65兆キロ先。どうやってくるのかということを聞くと、大体の方は言うのです。ワープとか、そういう技術があると。では、ワープとは、どうやっているのでしょうか。ご存じですか。

川名:
いいえ、ちょっと存じ上げません。

川上:
超重力を発生させるのです。重力が超重力、例えば太陽などもかなりの重力を持っています。引力を持っています。そういうものが存在すると空間は歪みます。これはもう実証されています。でも、太陽ぐらいでも、本当に微妙に歪む程度なのです。となると、そこを何カ月ぐらいで来られるぐらいに空間を歪めようと思ったら、太陽系どころか銀河系ぐらいもぶっ飛ぶくらいの重力になっているのではないかということで、そのワープをやったら地球は吹っ飛んでいますと。どうやっているのでしょうと。やはり、そういうことからいろいろ考えていくと、宇宙に知的生命体はどこかに存在しているかもしれませんが、それが来ているかどうかという話は、また別物ではないかと、いろいろな切り分けができます。銀河系も実は直径10万光年なのです。われわれの銀河系が、です。その銀河系の中に大体1,000億から2,000億の恒星系があり、そこから先を考えると、そういった銀河が宇宙全体でいくとまた1,000億ぐらいあると。逆に、どこかに何かはいるでしょうという考えにもなったりします。パラダイムはいろいろなものを理解していると面白い判断がいろいろできるようになり、より正確になります。

川名:
より多くのパラダイムを自分の中に持っておくことによって、無駄な議論が一切排除されると。

川上:
それはもう完全に排除されていきます。ですから、今みたいなところはやはり無駄な議論という感じがします。素直に宇宙全体の中で知的生命体がいるところを見つけたいという話なら、すっと行くのですが。

川名:
はい。

川上:
無駄な議論はやはり省けてくるということは間違いないです。感情や思いを排除した判断を練習していきましょうということも基本です。今、宇宙論を語っていると私は感情が入りました。宇宙人が来ているという人は嫌いなのかもしれません。

科学というものはそういうことで、いろいろなデータを見たり、いろいろなパラダイム、今は本当に分かりやすい本や、ちょっとネットで調べてみるとそういうことが書かれていたりするので、そういうものをいろいろ見ていると、いろいろな人と無駄な議論にならないところはできてきます。本格的に科学をやって実験をするなど、そんなことをやる必要は全然ありません。

川名:
パラダイムというのは万人が分かるデータに基づいて証明されたものでしかないと。

川上:
そうです。

川名:
その気持ちを忘れてはならないということですね。

川上:
ええ、そこは大切です。あとは、続いて芸術ですが、芸術的判断は日本人にはちょっと苦手な人が多いということを前半のほうで申し上げました。やはり感覚器による観察力の開発。これがあると、いろいろなことを正確にとらえられるようになります。ですから、単純な話、パワーポイントを作るときでも、こことここがちょっと歪んでいて、見ていて少し不愉快になるのではないかとか、単純なところでも、そういうことが分かってくると意味があります。自然な感情表出ということができると、それはそれで相手から見て、何か信頼できます。自己開示してくれる人は相手にとっても安心感がありますね。

川名:
はい。

川上:
自分はこう感じますと、きちんと言ってくれる。外国の方から見ると、どう思っているかが見えないということがあります。日本人はあまり感情表出がないので信用できないところがあると見る人もそこそこいるようです。私の家内から聞いただけなのですが。自己の感情の率直な伝達や、他者感情の受容ということで、より信頼関係はできます。あとは、芸術は、何よりも触れてみると面白いというところもあります。いずれにしても、素直な感情を出せるということ。もっと言ってしまうと、人間には普通はこういうとき、こんな感情が自然に出るというものがあります。

前回、無意識的な感情と言いましたが、割と人類共通の感情というものがあります。例えば、悲惨な事故が起こって多くの方が亡くなられたという現場を見ていた方にインタビューすることがあります。そのインタビューをされたとき、ニコニコしながらしゃべっていると、どう考えても違和感があります。自分はこんなすごい事故を見たということで、何かうれしいというような雰囲気や感情が出ている人はやはり信頼できる人ではありません。そういう自然な感情が出せるということ。プラス、今度は人によって、個人個人でいろいろなものについて、過去の体験や経験によって出てくる感情はやはり違います。その違った感情を受け入れられる。この両方が感情的な判断を高めていくとできるようになっていきます。ですので、一番下に書いてありますが、何よりも触れてみると楽しくて面白いということ、楽しいと思う芸術に触れていくと、ポジティブ感情のいろいろなものを自分で出せるようになります。そこの自由度合いを高めていくというほうが、よりよいリベラルアーツになっていくのではないかと思います。

その芸術的な判断を阻害する要因として、正解主義、これも何回も言っています。こう感じないといけないという正解から入ってしまうということ。やはり、ここのところは阻害しています。それから羞恥心。これはよくあるのですが、私も経験ありますが、特にヨーロッパの人などはそうです。仕事でヨーロッパに行き、現地の人と昼間はビジネスの話をして、その後、夜に、「美術館が近くにあるので、うちの美術を見たことなかったら、ちょっと見にいきましょうか」ということで連れていかれたりするわけです。そうすると、日本人の多くは、「これ、どう思いますか」と聞かれたときに答えられない人が多いのです。

川名:
それは正しい知識などを交えた上で言えないことが恥ずかしいということですか。

川上:
ええ、そういうことなのです。正解を言えなかったら恥ずかしいという気持ちが先に出てしまうのです。そこで恥ずかしいという感情が出ること自体、ちょっと違った感情が出てしまっているということになります。そういう中で、「私はこう思います」と、今みたいなポジティブな話でしたら、いくらでも感じたことを自由に言えばいいのですが、恥ずかしいと思ってしまう。周囲と同じ気持ちにならないと不安。全部、正解主義的なところが芸術的な判断を歪めてしまう、促進しないということがあります。

川名:
子どものころは、何を見せても特に羞恥心なく、自分の思ったことを伝えられます。どういったことが原因で大人になっていくにしたがって、型にはまったり、足枷を感じていくのでしょうか。

川上:
これはやはり学校の教育なのです。実は、こういう調査があります。幼稚園児でもうすぐ小学校に入る子どもたちのモラルは極度に高いのです。うちの子どもを見ていてもそうでしたが、幼稚園で、もうすぐ小学校になるというと、勉強したいとか、勉強をがんばる、いろいろなことを知りたいとか、ものすごく楽しみにしているのです。ところが、小学校に入ると、半年以内でほぼ全員の興味関心が薄れていて、モラル低下になっています。要は、その中でいろいろな興味を持ち、自分もいろいろなことを感じたいと思っていることが全部正解として、こうでなければいけない、これはこう感じるべき、これはこう考えなさいと押し付けられていくところで阻害されていくという感じがあります。ですから、逆に言ってしまうと、これは私の単なる直観ですが、真面目に勉強し続けた子のほうが、こういうものが下がっている可能性はあります。それを受け入れすぎたということでしょう。

科学的なところでのそういう話なら、別にいいと思うのですが、芸術的なところになると、ちょっと違ってくるかもしれません。ただ、芸術的なところの判断というのは、今のような感情もあるのです。豊かないろいろな感情を出していくことを高めていくというのもあるのですが、感覚的判断の向上も必要になります。これは音楽を例にとると、こういう知識ばかりをクラシック音楽で語る人が結構います。ちょっとうっとうしいと思われるのではありませんか。例えば、古典派からロマン派に変わったのは、どこからか知っていますか。これはベートーベンの交響曲5番からなのです。

川上:
だから、ベートーベンが古典派からロマン派に変えた作曲家です。だから何だという話です。自分がいろいろ知っていて、偉そうなことを言いたいだけだとしかとらえられません。でも、例えば、感覚器を鍛えていくということで、こういう視点からいろいろ考えてみると面白いのです。こんな疑問を持ったことはありますか?4分の4拍子や4分の3拍子が音楽でありますが、では、4分の4拍子はこうやって振るのでしょうか。こうやって指揮者は振っていますね。

川名:
はい。

川上:
なぜ、こうやって振るのでしょうか。4分の3拍子は三角形とかいろいろありますが、4分の4拍子が一番分かりません。なぜ、こうやって振らないといけないのか。こういうことに疑問を感じていき、それを調べてみたり考えてみたりすると、すごく面白くなります。要は芸術的なところで音楽はちゃんと意味があってやっているのです。物体の動きなのです。エネルギーの動き方です。4分の4拍子というのは、4拍目にアクセントが来ますが、1拍目はあるものが落ちているというイメージなのです。落としたとき、2拍目、3拍目はそれが弾んでいるのです。弾んだものを4拍目でまた持ち上げるのです。持ち上げて、また落とすという一つのまとまりが1小節です。演奏するときも、その動きを取るわけです。それは実際に動いているときもありますし、頭の中、心の中でその動きを感じているときもありますが、そういうことなのです。だから、1拍目が大事になるのではなく、4拍目が大事なのです。

川名:
また持ち上げて、新たなエネルギーの創造と。

川上:
ええ、そうなのです。4拍目がこう持ち上げて、ここで離したら、あとは決まってしまうわけです。だから、4分の4拍子を演奏するときには4拍目を意識しています。そういう動きがあるのです。ところが日本ではこれを習っていないので、多くの人たちが小節や4分の4拍子の動きを関係なく演奏します。

川名:
そうですね。メロディラインのほうにしか目があまり行きません。区切りの線にはそこまで意識が行かないかもしれません。

川上:
例えば、私が好きなミュージカルで「オペラ座の怪人」があるのですが、「シンク・オブ・ミー」があります。

川上:
向こうの人が歌うと、一番初めはサラ・ブライトマンがそれで有名になりましたが、パパパーン、パパパパンパンパンパパン、パーンパン、なんです。だから、今の動きを意識した、今はちょっと極端にやりましたが、そういう動きを取るのです。ところが日本人が歌うと、パパパーン、パパパパーパーパー、パパーパーパー、「さくらさくら」の歌い方なのです。小節という動きがないのです。クラシック系のメロディを今の動きなく演奏したら寝てしまいます。退屈になります。これでクラシックは面白くないと、皆思っているのです。だから、そういう動きと一致した演奏など、そういうものを自分も感じながら聞いていると、感覚器的に鍛えられてくるのです。

4分の3拍子、ワルツは実は三角形を書きません。丸を書いています。なぜかというと、ワルツというものはワルツェン、回転する、回りながら踊りますね。あれは回転運動なのです。ワルツはパンパンパン、パンパンパン、ではないのです。1拍目、2拍目が速くて、3拍目が遅いのです。パパンパン、パパンパン、パパンパン、なぜかというと、1拍目、2拍目は落ちているから速くて、3拍目はちょっとためがあるので上にあります。こういう回転運動をイメージしながら演奏するとワルツになります。こういうふうな意味があるのです。クラシック音楽とポピュラー系の音楽は何が違うがご存じですか。

川名:
そうですね。パッと出てこないです。

川上:
これも多くの方は意識していません。クラシックは先ほど申し上げたように頭にアクセントが来ます。パン、パンパンパン、パン、パンパンパン、です。ところがポピュラーでいくと、ロックなどは典型ですが後のほうにアクセントが来る傾向があるのです。例えばロックなどは3拍目です。パンパンパン、パンパンパン、パンパンパン。この違いを感じながらポピュラーとクラシックを聞いていると聞き方が全然違ってきます。ところが日本はポピュラー系を逆にクラシック系で歌ったりする人がいます。頭にアクセントを持ってきます。一番の典型は松田聖子がそうでした。「あー、私の恋はー」と。何の歌い方か分かりますか。小学唱歌なのです。「桃太郎さん、桃太郎さん」の歌い方なのです。

川名:
なるほど。

川上:
だから、こういう違いがあるというのを感じながら聞いていると、もっと耳がいろいろなことを聞き分けられるようになります。あとはおなかからお声を出して、などと抽象的なことを言うから訳が分からなくなります。おなかからは声は出ません。口から出るのはげっぷだけです。これは実は声を出すときに腹筋は一切使いません。腰の筋肉を使っているのです。

川名:
そうなのですか。知りませんでした。

川上:
私の腰の筋肉、ここを見ていてください。こうやって動きます。

川名:
はい。

川上:
すごいでしょう。

川名:
はい。

川上:
実はここを支えているのは、ここの筋肉でやっているのです。私は高校2年まで音大に行くつもりでしたので詳しいのですが、高校2年であきらめて心理学のほうに来ました。フルートが専門なのですが、フルート奏法も全く同じなのです。音を響かせようと思うと、何をやるかというと、声もそうですし、フルートの音もそうなのですが空洞を作らないと音が響きません。人間の体で空洞をつくるのは肺以外ではできません。肺を常に広げるのです。では、肺を広げるにはどうするのでしょう。ここの下にある横隔膜という、焼き肉で言いますとハラミです。あれを下げていくという動きを取ると広がり空洞ができます。でも、下げるだけですときついので、腰の筋肉、今の広げたところは横隔膜につながっているのです。広げているというのはここを収縮させているわけです。そうすると、横隔膜も一緒に下がり、息を吐きながらも肺が広がった状態を作ることができます。そういうやり方をよくやります。ですので、今は普通に話していますが、こうやって腰を広げると声が変わりますよね。

川名:
はい。

川上:
今はマイクを通して話しているのは普通の声を出していますが、講演などでマイクがないときは、こうやって腰を広げると肺が広がって声が変わり、通る声になるわけです。だから、こういう歌い方をオペラ歌手もやっています。こんなことが分かっていると、聞いていて、どれぐらい腰がしっかりしているのか意識して聞くことで感覚器はだいぶ鍛えられてきます。

川名:
聞くほうの感覚器も鍛えられますし、そういった知識を身に付けていることで自分の表現の幅も広がってきますね。

川上:
そうなのです。ですから、言語化していくということは大切なのです。

それで、今みたいなかたちでいろいろな考えを持って、疑問を持ってみていくと、感覚器は鍛えられてきます。ですので、音楽や芸術など、そういったものの教養を高めていくときに、知識ベースで広げていき、「私はモーツァルトを聞いています。カッコいいでしょう」とか、そういうほうに持っていかず、なぜ、この人たちはこうやって演奏しているのか、こういう動きは何なのだろうと、そういうところに疑問を持ち、調べていき、聞いていく、確認していくということをやったほうが、より使えるリベラルアーツになっていきます。

あと、感情のほうですが、個人によって、なぜ同じことを聞いても同じものを見ても感情が違うのかということです。こういうことが言えます。人間の感情はこうやって出てくるものなのですが、ある事象を経験したとき、その事象を経験すると情動が生まれてくるときがあります。情動。この漢字のとおり情の動きです。心が何か揺れ動いている状態です。ドキドキするとか落ち着かないとかです。生理学に詳しい方は交感神経が緊張している状態ととらえていただいて大丈夫なのですが、揺れ動きます。揺れ動いているときに、何かの誘因があると、その誘因に引っ張られ、情動が感情に変わるということが起こります。感情と情動は違うものです。どう違うかと言いますと、感情は方向性を持っています。自分の気持ちがある特定の方向に向かっていることを感情と言います。例えば、頭にきた、うれしい、かなしい、そのように自分の気持ちが特定方向に向かっているものを感情と言います。ところが情動は方向性を持ちません。ただ揺れ動いているだけということになります。その揺れ動いているときに何か誘因があると、誘因のほうに引っ張られて、感情に変わっていくということです。同じ事象を経験していても、そこで経験した誘因が人によって違いますので、それによって感情の出方に個人差が出るということです。その事象を経験して情動が生まれているときに怒られたか褒められたかで、その事象を経験したときに出てくる感情は全く違ってきます。

これは、もしも興味があったらということなのですが、「月の光」という曲があります。ドビュッシーの曲なのですが、これは癒しの曲として代表で出てきます。「月の光」を聞くと、皆、心が落ち着くということで、癒しの曲集などになると必ず代表的なものとして演奏されています。興味がありましたら、この曲をまず1回聞いてみてください。癒されます。

ところが、「月の光」というこの曲はドビュッシーが作曲していますが、ベルネーヌという詩人の詩を元に作っている曲なのです。実はベルネーヌのお母さんがドビュッシーのパトロンなのです。ベルネーヌは同性愛の人で、ランボーという男性の詩人と恋愛関係にあったのです。ところが、それがもつれてランボーをピストルで撃ってケガをさせ、逮捕されたような、極めて不安定な精神を持った人なのです。この「月の光」という詩はインターネットでいくらでも出てきますので、見てみてください。不気味なのです。恋人たちが池の周り、噴水の周りに集まって何か愛を語っているが、そんなものはまやかしであって、ただその水に月の光だけが怪しげに映るという、そういう詩なのです。

誘因として、1回その詩を読んでみてください。それから、もう一回同じ曲を聞いてみてください。怪しげに聞こえてきます。だから、そういうことで感情は同じ曲を聞いても、人によって全然違うのです。

これはもう一つ考えると、月の光はわれわれアジア人にとっては美しいもの、癒されるものと感じます。でも、文化的に西洋の文化になると、月の光は妖しいものになりませんか。

川名:
どちらかというと、例えば、狼男が出てくるとか、あとは青白くて冷たい印象もあります。

川上:
そうですね。ですから、そういう月の光という言葉を聞いただけでも、今まで得た誘因によって感情の出方が違うわけです。

川名:
そうすると、今までに自分が持っていた、これを聞いたらこういう感情が出るといった固定概念も新たな誘因をどんどん引っ張ってくることによって、イメージを変えていくことができるということでしょうか。

川上:
そうなのです。

川名:
自分のなりたい方向にイメージを変えていくということができるということですか。

川上:
できますよね。そういうことが先ほどの人の気持ち、感情を共感できるというほうに持っていけるのです。ただ、別の気持ちや感情が出ている人もいます。その人にどういうことでそう感じるのか聞いてみると、「なるほど」ということが分かってきます。それがまた誘因になって、自分も新たな別の感情が出てくるようになり、相手の気持ち、感情も理解できるようになるという相乗作用に持っていくと、やはり芸術的な教養は信頼関係やいい関係を作るところに使えるものになっていきます。ぜひ、芸術も今のような視点で、ご自分の中で教養として身に付けていただけると意味が出てくると思います。

川名:
はい。

川上:
今度は直観という守りのほうの教養ですが。直観的な判断は悪いかというと、別にそうでもないということで、いろいろ守りのほうもそういう判断ができるよう高めておいていただければと思います。例えば、こういう場合はいいのです。時間がない中での意思決定。これはもう直観です。時間内に決めないといけない、時間が最重要のポイントであるとなった場合はもう直観で決めるということになります。データを取っている時間はありません。あとは根源的な善悪の判断はむしろ直観だけでやったほうが正確になっています。これは人類共通のようです。そこに何か妙な論理を入れていくと歪んでいくようです。とは言っても、こういうことがあるのでやってもいいのではないかというふうになるようです。

あとは複雑系で重要な意思決定。複雑系というのは、選択肢が山のように無数あり、かつ、その選択肢からどれを選ぶかという判断をする判断機軸も無数にあるというマトリクスの中でどれを選ぶかとなると、直観が一番正確で、かつ幸福な意思決定になっているという研究があります。これは「幸福な」ということが大事なのですが、当然、複雑系で意思決定すると、どこかうまくいかないところや「やはり違った」と思うところも出るわけです。正解はないですから。そうなったときに、自分でこれだと思って決めたのだからとなると、割と納得がいくようです。ところが、あれだけ検討して考えたのにやはり、となると不幸になってしまうということで、それは直観が必要のようです。

これは、アメリカ辺りで意思決定論の心理学者の人たちがいろいろ調査研究をやっているのですが、スーパーコンピューターを使って、複雑系を全部計算させ、これが最大の結論である、これが一番効果的な結論であるということを全部計算させています。その計算させた結果と人間が、これなのではないかと決めたものとほぼ一致しているという結果もあるようです。意外と直感的な判断はばかにできません。

川名:
直観で下した判断を後悔しないための方法として、セイフティーネットを一緒に考えておくというのもあるのかなと思うのですが。

川上:
そういうことも必要ですね。うまくいかなかったらこうしていけばいいというものがあれば、より直観的な判断がやりやすくなるというか、意味が出てくるというか、そういうことも確かにあります。いずれにしても、科学的な判断はものすごいコスト対効果がかかります。

川名:
はい。

川上:
私もデータを集めたり、それを解析したりしますが、相当な労力がかかります。そういった中でコスト対効果を考えて、これはもう直観でいったほうがいいのではないかというケースもあり得ます。そうなると、例えば、今の時代、どの企業に就職することが最も正解か。こういうことを考えた就職活動を今は結構学生がやっているのです。私のころは、冊子のようなものをもらってきて、そこにハガキが付いていて、それを送ればよかったのですが、大体1つの冊子に100社か200社ぐらいしかないのです。その中でどれとどれにハガキを送ろうかということは割と簡単に判断ができます。でも、今は就職のサイトに入ると、大体5万社ぐらい入っています。5万社という選択肢の中から、今の世の中でどういう企業に就職することが最も安定的な社会人人生を送れるかという判断の基準もいっぱいあるではないですか。この中でどの企業に就職することが正解かなどと考えて結論を出そうと思ったら、とんでもない大作の調査研究になると思います。それをやっているうちに5年も10年も過ぎてしまいます。ですから、そういうことはある程度、直観で「何かこの会社がよさそう」というところで判断していきます。

また、これから先、自分はどういうキャリアが幸せかということも、最近キャリア論は随分変わってきています。昔はカーナビ型と言われており、こういうふうになりたいとなると、そこをゴールにインプットしたら、こうやって、ここを曲がってこう行けばいいという考えだったものが、もう、そういうかたちではうまくいきません。どちらかというと偶然性、散策型です。こうやって歩いていったら、分かれ道があったので、こちらがいいかなと思い行ってみたらこうなった、そこを使ってこうやって面白くやったというほうがいいなどです。あるいは、人間は何のために生まれてきたかということを企業内研修で科学的に検討するなんて無理です。ですので、こういったものはもうコスト対効果を考えるよりも直観でいいのではないかということです。

川名:
特に今のビジネスは業界の移り変わりや、技術もどんどんスピードが上がっていますから、正確な研究を出してからですと、もう打つ手が遅くなっている場合もすごくありますね。

川上:
多いですね。

川名:
かと言って、直観だけでは経営はできないということで、直観で判断しつつ、その都度軌道修正するということとセットで考えていくということになるでしょうか。

川上:
大切です。心理学を専門にやっている人間は、データを見ることに慣れているという傾向があります。ですから、膨大なデータを見て、このことなのではないかと、データからの直観のようなことをやるケースもあります。今の企業の経営もそういう視点が大事だという感じはあります。マーケティング上のデータを膨大に取り、それを見たときに、やはり経営者は「こちらではないか」という人は結構いいかもしれません。あるいは、大企業であればできるのは、スタッフがいますから、一つずつのデータによる科学的な判断はその人たちがして、その科学的な結果を経営者に上げていき、その中からこれだというものを選んでいくなどです。そういう組み合わせ型が基本かと思います。ですので、直観というものも企業の中で結構使う必要がありますし、直観的な判断も鍛えておく必要があります。

その中で、上側は直観と論理を合わせたものが推論と言いました。推論は定義づけるとこれです。既知の情報から未知を予測するということが推論の基本です。分かっていることがいくつかあって、その分かっていることの中で、でも、分からない、欠落しているところがある。そこを分かっていることから考えるとこうだという予測です。こういう力です。推論を歪めるのはやはり詭弁というものです。

まず、パラダイムでないようなことも、もっともらしいことをベースにいろいろ論理展開する人がいます。先ほど言ったように一人っ子はどうのこうのなど。それはパラダイムではないのですが、そこから論理展開したら、元々が間違っていますので全部ずれるわけです。

命題になっていないことについて原因と結果を逆転させる。命題というものは「AであればBである」。その裏側は「 BであればAである」ことも成り立っている。それが、AがAでなければBでないということも成り立ちますし、BでなければAでないということも成り立ちます。この4つを常に考えていき、原因と結果が逆転しても、すべて成り立つものが命題と言われる考えです。でも、そうではないことを逆転させたりする人が結構います。「子どものころから厳しさというものを知らない人間は弱くなる」と。こういう話がよく出るのですが、「弱さというものがその人が厳しさを経験できなかった」ということなのかもしれないのに、逆転をさせていったり。あるいは過度の一般化です。過度の一般化ということで、N数は1なのに、それをみんなに当てはめるということが結構あります。こういうものも詭弁です。「 例えばこういう例があるではないですか」、「いや、それは1つだけの例でしょう」と。とにかく、こういう詭弁は推論をやるときに絶対に使わないということが基本です。

推論のところで、典型的に教養領域は歴史だということを申し上げましたが、歴史で推論していくと、すごく面白いと思いませんか。あれは年号とそこで起こった事象と人物名だけを覚えさせられるので面白くなくなるのです。例えば、先ほど出てきましたが、明智光秀はなぜ本能寺で織田信長を討ったのか。こういうことを考えてみると面白いです。それで多くの人が納得するような推論ができると、結構そういう部分が鍛えられてきます。もしも徳川家康ではなく織田信長が将軍になっていたら、今の日本はどうなっていたのかということを考えてみても、ちょっと面白いかもしれません。元寇における教訓で今の組織マネジメントに行かせることは何かと、いろいろ推論の仕方があります。仮説・仮定に基づく推論、あるいは今のもので何か別のものに活用できるものがないかという推論、いろいろやっていくと頭の中が鍛えられてきます。

川名:
今の歴史の授業はやはり一方的に情報を与えられて、覚えていくというものが多いと思うのですが、歴史こそディスカッションの必要な授業になってくるのではないかと思います。

川上:
ディスカッションがあったほうが面白いでしょうね。こういうものをディスカッションしたいですね。私は元寇について韓国人である私の家内と1回議論したことがあります。元寇について、こう見る人たちが世界の人たちなのだと思ったのですが、実は、テレビで元寇の特集をやっていて、私は見ていたのです。うちの家内は外国人ですから元寇は当然知りません。「これは何か」というので、これは元寇だと。「何が起こっているのか」、だから、モンゴルの元という国が日本に攻めてきているところで、2回攻めてきたが2回とも台風が起こって船が沈んで、それで日本は大丈夫だったということと、相当激しい戦闘もあって、日本が外国から攻められているという時だと、攻めてきているのはモンゴル人か分かりませんが、と言いました。うちの家内に言われたのは、「日本人は歴史の中で1回外国から攻められたということがあっただけでこんな特集までやって喜んでいるのか」と。韓国はこんなことは5年から10年に1回あると言われて、「なるほど」と。

川名:
確かにおっしゃるとおりですね。

川上:
そうですよね。だから、世界の視点から、別の国の視点から歴史を見ていくと、やはりとらえ方は全く違ってくるわけです。となってきますと、次のあたりで、昭和と平成の一番大きな違いは何かと、平成生まれの子どもから聞かれると、こういうことがだんだん答えづらくなってきます。もっと言うと、こういう話になってくると、だから守りの教養になってくるわけです。実際に歴史とはいえ、それを経験した人もまだ生きています。それがお互いの今の国のそれぞれの間でも何か影響が出ているということも歴史に含まれてきます。

川名:
こういう守りの教養、特に歴史などで他国の視点、他者の視点を入れるのはすごく大事だと思いますが、日本の中だけで教育をしていくと、他国の人はこう考えていると思うということも、結局推論になってきてしまいます。

川上:
そうですね。

川名:
直接聞くことが大事なのではないかと思うのですが、その一方で、直接聞くことによって、無駄な抗争なども生まれたりするわけです。そこはどうバランスを取っていけばいいでしょうか。

川上:
ここのところは聞きたいときは聞くだけに留めるということが基本です。もう一つは、正しい、間違っているという議論に持ち込まないということです。そういうときに私がよく言うのは、好き嫌いということはよく言います。「何か、韓国のその考え方はあまり好きじゃない」と。別に日本の考えが正しいということでもないし、それが間違っているということでもないですが、好き嫌いでいくとこちらだということに、せいぜい留めていくことです。

これは、人間の基本なのですが、好きなことは正しい、嫌いなことは間違っているという論理を付けたくなるのですが、それをやらない。だから、正しい、間違っているという話ではなく、自分はこう考えるということだけに留めるということは必要になるかと思います。あとは、聞く相手を一応選んでおいたほうがいいということがあると思います。向こうも冷静にそういう話ができる相手ということから聞いていくことも必要になるかと思います。

川名:
今、川上さんがおっしゃったように、一番大事なのは、相手の視点を自分と違って面白いと受け入れる気持ちですね。

川上:
そうですね。実際面白いです。自分の思い込みだけを押すのではなくて聞くと面白いです。ただ、ここまでいくとダイバーシティの中で相当しんどくなります。これは私は実際やったことがあります。太平洋戦争で戦死した近親者を持つアメリカの人と太平洋戦争について議論してみるとか、ここまでくると、相当難易度が高くなってきます。相当いろいろなことを知っておき、自分なりの考えもまとめておき、でも相手の考えも理解できるというところまで行かないと議論できないです。それで、もっとこういうことも知っていく必要があると、相手の考えなども受け入れる必要があると思いました。

次に、信条的な判断ということになりますが、これは信条とはただ自分の信条であることをしっかり理解することです。その信条に無理やり論理を入れない、他者に自分の信条を押し付けない。これが基本です。他者の信条も否定しないと。信条は信条のまま留めながら議論していくということが基本です。例えばすごく強く自分の宗教を持っている人がいたとして、その宗教を持っている人に対して、その宗教を否定するということはやっても意味がないですし、逆に自分が宗教を持っていて、それを人にも押し付けていくということをやると、信頼関係が崩れます。だから、信条については全て信条のまま留め、私はこういう信条を持っています、でも、それを押し付けませんと。あなたの信条はこうで、それも理解できますが、私はそれとは違います。この関係性を持てるかどうかです。

例えば、教養的に宗教などが基本になりますが、こういうことを調べてみてください。面白いです。キリスト教が世界の中で一番多いということで例に取ると、イエスの宗教活動期間は何年ぐらいか分かりますか。釈迦は、これは事実かどうか分かりませんが30歳で出家し80歳で亡くなるまで50年になります。モハメッドは神の声を聞き預言者になったのが40歳で亡くなるのが確か62歳だったと思いますので、22年です。イエスは何年でしょうか。

川名:
イエスはある程度、成人に近くなっていろいろ人に話をできるようになってから磔になるまでですから、相当期間が短いのではないかと思います。

川上:
2年なのです。だから、たったの2年ということがキリスト教の成り立ちに大きな影響を与えています。三位一体論は聞いたことがありますか。よく三位一体でと言います。父と子と聖霊です。聖霊とは何でしょう。父は分かります。神です。子は分かります。神が人間の形に姿を変え、この世に現れたイエスです。聖霊は何でしょう。実は、パウロという人が神学論を作り上げた人です。その人はイエスと会ったことはない、もともとキリスト教徒を迫害していた人です。その人がキリスト教徒になった後、一気にキリスト教の神学論もでき、世界宗教に広まっていくのですが、そのときに聖霊という考えが必要になって創られたようです。こういうことを調べていくとすごく面白いです。カトリックとプロテスタントの違いは分かりますか。

川名:
宗派が違うということは分かりますが、詳しくは語れません。

川上:
結婚できるとかできないとかいろいろあります。

川名:
ええ、牧師の種類が違うとか。

川上:
敬虔なクリスチャンの人なのに科学者はいます。なぜかと思います。これは実は次のところ、多神教と一神教の違いなのです。例えば、多神教と一神教の違いは神の数だと思っている方が多いのですが、違います。一神教の基本はすべての創造主が神であるということなのです。だから、全ての根源的なもの、宇宙もひっくるめて作ったのは神なので、他の神はあり得ないのです。そうなってくると、敬虔なクリスチャンの科学者がいるのか理由は簡単です。神が何を作ったかを研究しているということで矛盾はないです。

多神教の代表として、日本の神道は何かと海外の人に説明できる人は意外と少なかったりします。ですから、こういったものをちょっと知っていると、いろいろ安心感が出ます。例えば、カトリックとプロテスタントは相当ケンカしていたり、相容れないことがある中で、これをごちゃごちゃにとらえていると、地雷を踏んでしまうというケースも結構あり得ます。イスラム教の中でもそういうことがあります。自分がそういうところで関わるのであれば、ちょっと押さえておいたほうがより安心感があります。という中で、宗教などを科学で考えても意味がありません。科学的に考えて、イエスは復活があり得るのかどうかはどうでもいいのです。信条的にイエスが復活したととらえていたら、何となくかっこいいではないかと。気持ちいいではないかと。そういう世界であることを理解できると、面白くなります。ですので、信条的なところの、例えば宗教は代表の教養であると言いましたが、宗教を持ってくださいということではありません。いろいろな宗教があり、いろいろな考え方、いろいろな信条があります。その信条世界を理解することができてくると、グローバルでもうまくいきます。

ということで、グローバルで通用する教養を持つためには、こういうことをお願いします。今、自分は何で判断したかを明確に理解していくということが必要です。今は、私の単なる好き嫌いの感情ですが、私はこちらが好きとか、これは単なる直観だけど、こうしたいとか。そういうことを理解していくということです。ただし、やはり圧倒的に使える知識量の多さがあると、いろいろな判断はよりやりやすくなるのも間違いないので、知識量はなめないでいただくということもお願いいたします。ただ、便利なのが今すぐに大脳に記憶する必要はありません。ネットの中に全部入っているので、即座に調べればいいのです。それから異質性を持つ他者の受容力を向上させていく。異質を感じたときにポジティブなマインド性、「面白いよね」という先ほどのような話です。いろいろなことについて思っていけるというところができてくると、グローバルで通用するようになってくるかと思います。ぜひ、面白く興味を持っていろいろな領域の教養を身に付けていっていただき、それも知識としてだけではなく、今みたいに、いろいろ「何でだろう」というところから入っていくと、より創造性にもつながり、グローバルでも使えるものになってくるかと思います。

川名:
はい。本日はリベラルアーツ概論後編ということで、川上先生にお話を伺いました。川上先生、ありがとうございました。

川上:
ありがとうございました。