平成24年度第2回講座:論語が教える人材育成(後編)

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾
岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾 平成24年度シリーズ

【第2回講座】論語が教える人材育成(後編)

講師
安岡 定子氏(安岡活学塾専任講師)
青柳 浩明(安岡活学塾専任講師・岩崎育英文化財団 岩崎学生寮・事務長)
放送予定日時
平成24年11月 9日(金) 26:00~26:30他 ※以降随時放送

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安岡 定子

安岡活学塾 専任講師

二松学舎大学文学部中国文学科卒業。
現在、「銀座寺子屋こども論語塾」他、全国各地で定例講座を行なっており、
幼い子どもたちやその保護者たちに『論語』を講義して話題を集めている。
著書:『親子で楽しむこども論語塾1・2・3』(明治書院)等

青柳 浩明

安岡活学塾 専任講師
岩崎育英文化財団 岩崎学生寮事務長

1966年東京都生まれ 明治大学卒業
幼少時から論語、漢籍を学び、ビジネス現場で実践や指導をおこなう。
著書:「論語説法」(講談社)、「ビジネス訳論語」(PHP研究所)等

講義内容

青柳:
安岡先生、前回は孔子の考える理想の人物像として、君子・仁者についてお聞きしました。そして孔子の考える人材育成についてもお伺いしました。後編の今回は前回の続きとして、人材として教わる側の心構えをお願いしたいと思います。

3.「教わる側の心構え」

1)反復
2)過ちをしてしまったとき
3)あきらめない

安岡:
前回は一つ目として反復についてお話をいたしました。今回は二つ目の心構えとして間違いを犯したとき、失敗を犯したときについて学んでいきたいと思います。人は何もない平常の時には、その時にこそ学ばなければならないと思います。

青柳:
準備しておくということですよね。

安岡:
そうですね、でもなかなかそれができないのが人間ですので何かあった時、あるいはそれによって間違えてしまったとき、そういう時こそ、あるいはそういう時に学んでおきたいと思いますので、間違えた時、失敗してしまったときにどうしたらいいかということをお話したいと思います。

「教わる側の心構え」
2)過ちをしてしまったとき

~過ちをしてしまった時の 孔子の言葉~
孔子曰く、生まれながらにして之を知る者は上なり。学びて之を知る者は、次なり。困みて之を学ぶ者は、又其の次なり。困みて学ばざる者は、民之を下と爲す。

安岡:
厳しい言葉ような気がいたしますが、4つに分けられているわけですね。そうすると生まれながらにして知っている、あるいは学ぶ事をきちっと身に着けている人は一番上に来るわけですね。学んで身に着けていく、また次にくる。何かあった時にようやく気付いて、学ばなければいけないと気づいた人が3番目にくるということですね。ですからせめてそのくらいはできたらいいかなって。本当は/平素からできるのが理想ですけれども、人間は何か困った事とか本当にこれを知りたいとわいた時じゃないとなかなか、学ぶ事はしないと思う。でももしそうであったら、困った時にはやらなければならないと思った時には、学びましょう。そういう意味だと思いますよ。

青柳:
今のご説明からすると、トラブルとか何か困ったことが起きた時に私たちは得てして、自分を苦しめて早く逃げたいと思いますけど、そうじゃなくて考えようによってはこの時が学びのチャンスなんだと。

安岡:
そうかもしれないですね。ですからそこで例えば、ミスをした場合に考えた時に正直になれないとか、どうにかうまくごまかしてやり過ごしてしまいがちですけども、それをしてはいけないということですよね。

孔子曰く、生まれながらにして之を知る者は上なり。学びて之を知る者は、次なり。困みて之を学ぶ者は、又其の次なり。困みて学ばざる者は、民之を下と爲す。

安岡:
過ちについてはとても有名な言葉があります。

子曰く、過ちて改めざる、是を過と謂う。

たぶんご存知だと思いますけど、これ、お子さんにもとても人気がありまして、単純明快ですよね。失敗したらその時にきちんとやり直すことが大切で、そのままにすることの方が大きな過ちだという意味。これも難しいですね。

青柳:
難しいですよね。

安岡:
とっても難しいですね。正直になるという事と自分に誠実であるという事は、それができるという事はすなわち人に対して誠実だということだと思います。間違えたのに改めないというのは自分の気分が嫌ですけども、やはりそこにかかわってくる人に対して誠実ではないということですよね。ですから気を付けたいと思います。

青柳:
今の教えは、見方によりましては、1回目の過ちは仕方ないとそこで学んで繰り返し同じような過ちをしなければ人間だからいいじゃないかと、そういう風に聞こえますが。

安岡:
そうですね、たぶん孔子の考えはおっしゃる通りで人間の感情の中には人を羨んだりねたんだり、貧しいのを嫌だと思う、そういう気持ちがあって当たり前、認めていますので。間違いに関してもそうですよね。間違いをしない人なんていなくて間違えた時にどうするかがその人の本質を表す、孔子はたぶんそういう考え方なのです。

青柳:
どんなに難してもそれを少なくとも意識しておくというのが大事なんですかね。

安岡:
そうですね、できるかできなかは分からないけども、心がけるということはとても大切だと思います。

顔回(顔淵)・・・謙虚で真面目な孔子最愛の弟子
顔回(顔淵)を称した言葉・・・「過ちを再びせず」

青柳:
それで言いますと、前編でお話いただいた顔回という弟子、顔回を称した言葉に「過ちを再びせず」という同じ過ちを2回はしなかったという、それをもって称されているということは、どれだけ繰り返さないことが難しいかということです。

安岡:
そうですね、そういう言葉が残っているということはそれができることがいかにすごいことかということに逆になりますよね。

青柳:
凝りもなく繰り返してしまう、でもそこを意識して。改善につなげていくことが大事だということですね。

安岡:
もうひとつあきらめないというテーマがあります。

「教わる側の大切な心構え」
3)あきらめない

安岡:
弟子の中にはいろんな弟子がいて、積極的になんでもできる弟子とちょっと消極的で弱気になってしまう弟子といろいろなんですね、弟子が先生に弱音を吐いたときの言葉ありまして。冉求(ぜんきゅう)という弟子が出てまいります。

冉求・・・政治家の才能に立てていた一方、優柔不断な性格

冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は中道にして廢す。
今女は画れり。

「画れり」・・・ 自分で自分の能力の限界を決めてしまっている

安岡:
最後は画(かぎ)れりという言葉で終わっているんですがやはり、向学心に燃えて先生のところに入門してくるわけですよね。そうすると孔子は、みんな受け止めて入門させて弟子としてずっと教育していく、そうすると尊敬する先生の所に入門して近くで先生のものを学んでいくそれはとってもうれしいんだけども、いよいよ私は力が足りないのでついていけそうもありません。と弱音を吐く。そうすると先生が、本当にそれほどまで、やったかい?という気持ちがあって本当に駄目な人は、精魂つきはてて途中で倒れていると。君は自分で限界を決めて駄目だと言っているじゃないか、もう少しがんばってごらん、そういう言葉なんですけども日常でもよく見られる場面。もうダメだと思った時に導いてくれる人がいたり、言葉を思い出すだけでも励みになる。

青柳:
自分であきらめない、というのは本当に大事なことで、西洋の言葉にどなたが言ったか忘れましたけれども、駄目だと言っている人はまだ大丈夫という

安岡:
そうですね、私も聞いたことあります。

青柳:
たぶんこのルーツはこの教えにあるのでしょうか。あきらめたら終わってしまう。

安岡:
そうかもしれないですね。ですからあきらめたら終わってしまうということを、ちょっと心に留めておくと、あきらめないでもうちょっとやってみようという気持ちになれるかもしれません。

青柳:
誰もあなたができないとは、決めてないと。

安岡:
そうですね、もうちょっと頑張ってみようと声をかけてもらえたら嬉しいですものね。

安岡:
最後はあきらめてしまいそうな弟子の話をしましたが、そんな人に対して励ましの言葉もありますので、また一つご紹介したいと思います。

子曰く、法語の言は能く從うこと無からんや。之を改むるを貴しと爲す。   (子罕)

というのがあるんですね。やはり、よき言葉は、人の心に響くわけですから、助けとなるわけですね。今私たちが論語を読むというのは、古典に触れている。良き言葉を残してくれて、その良き言葉に触れるから助けられるということですよね。

安岡:
ですから、良き言葉であるとか、良き人物に触れるというのはとても大切で、それがまた励みになっていくということになっていくと思うんですけど。間違いを改める、それも大切であるということもわかってはいるけれども、良き言葉として残してくれていて、それを読むことで私たちはそこから学んでいくことができます。

青柳:
私たちは、よくアドバイスをもらった時にその瞬間はアドバイスにそって改善していこうと思うんですけど、次の日に、忘れているとか、なかなか難しいものがありますね。

安岡:
そうですね。でもそれが、もしとっても小さな事でも、日常の中の事で間違いに気づいて改められた時には、とてもうれしいですし、たぶんそれの小さいことの積み重ねで人はいい方向にいくのではないかと。

青柳:
小さなことでもとりあえず一歩踏み出すということに孔子は価値を見出して、そういう行為は尊いものなんだねと、そういう風に言っているんですかね。

安岡:
そうですね、それは、学ぶものとしてもそうですけど、後輩であるとか仲間を見た時に、くじけた人を見た時にその言葉をちょっと知っていれば、励ましの言葉をかけてあげられる、そういう立場が変わればまたその言葉の活かし方が違ってくるのではないかと思いますけど。

教える側が注意すべきこと

青柳:
どこの組織においても人材育成というのは本当に苦労するもの、ただ教える側、人材を育てていくために、教える側はどういうことに留意していけばいいのか、それを論語から学んで行きたいと思います。

安岡:
いろいろな言葉が思い浮かぶのですが、教えるというのは相手があってのことで、それもいろいろな方がいらっしゃるわけですよね、そこのある程度心構えというか、一本筋の通った態度で接するというのがとても大切だと思うんですけど、論語の中の言葉ですが、

子曰わく、憤せずんば啓せず。?せずんば発せず。 (述而)

安岡:
人が本当に何かを学びたいと思った時には知りたい気持ちが体の中に満たされて、爆発しそうになるようになったら、私は導き、彼を開いてあげるよと。

青柳:
それが「憤」という字。

安岡:
そうですね。そうすると「啓」というのは開くという字ですけれども、開き導いてあげるということになりますよね。

子曰わく、憤せずんば啓せず。?せずんば発せず。 (述而)

安岡:
もうひとつは、よく小さいお子さんで、私は想像するんですけども、いっぱい伝えたいことがある、例えば、パパとママでもいいです。きょうこんなことがあったとか、話したいことがいっぱいあるんだけども、気持ちが先行して言葉がついてこない。

青柳:
えっとね、えっとね、ていうあれですね。

安岡:
そうそう、そうですね。言いたいことがある、情熱はここまで来ているだけども、それをうまく表現する言葉が気持ちが先行してもどかしくて、そういう状態になった時に僕は引っ張り出してあげるよというのが今の言葉なんですけども。そうすると相手が満ちて今ちょっとつついたらぽんと弾けそうな時に、
一言あるいは教えを与えてあげるというのがたぶん一番いいタイミングなのではないかと。

青柳:
教えるタイミングが非常に重要だということですね。

安岡:
そうですね、学校の授業でもそうだと思うんですね。同じ授業を聞いていても40人いて、気持ちがこっちに向いている子は、そこで通じ合うものがある。でもどんなにいい授業をしても、どんなにいい話をしても、相手が聞く体制になってなかったらその話はそこに入っていかないということになります。特に実社会においては、仕事の場面でも、仕事の前の段階で現場で教育していくというのは特にどのタイミングで、何を語りかけていったらいいか、一番その人にいいのかというのは、やはり指導する側が見ていてあげるというのが大切になります。

子曰わく、憤せずんば啓せず。?せずんば発せず。 (述而)

青柳:
大切ですね。ちなみに先ほどの教えは、「啓発」という言葉の出典になるんですかね。

安岡:
啓発教育という、私たちよく何気なく使ってますけど、そういう言葉の出典も論語の中にはたくさんあります。

青柳:
開いてあげるわけですね。

安岡:
そうですね、とてもいい言葉ですよね。啓とは読みますけども開くと読むと一層のその文字の意味が伝わってきて、開き導くというのは本当にその人のいいところを引っ張り出してあげるというか、それでさらに育ててあげるという。とてもいい言葉だと思います。

青柳:
そのためには憤したり、?したりする状態が理想的だよと。

安岡:
そうですね、そこはいつもみずみずしさを向上心を持つ、意欲を持つ、そういう人を育てるのが大切で、その人たちがそういう気持ちになったら、導くということになると思います。で、最後になりますが、私の好きな言葉でお子さんにも人気があるんですが、

子曰わく、性、相近きなり。習、相遠きなり。

というのがあるんですね。とても短いんですけども、前にふれましたが孔子は、人は良い資質をたくさん持って生まれてくるという話をしましたが、いいものを持って生まれてきてもその先がとても大切で、いい習慣を身に着けるとさらにそれが良く育っていくという意味。せっかくみんな私たち、この世に生まれた人はいい資質を持って生まれてくるというそういう考え方ですので、どんな人にもいいものがあるということ。その後の習慣によって人は良くなったり悪くなったり、習慣というものの要素も大きいがそのおおもとのところを見ると全員が良き資質を持って生まれてきているということですよね。そうすると、そこに目をつけて伸ばしてあげるということがとても大切で、今こういう状態だから、彼、彼女はダメということではなくて、持っている素質の中で、伸ばしてあげられるものはないかと考えられるとまた指導する側のやり方も変わってくるのではないかと思ってくる。

青柳:
今の話ですと、『習慣は第二の天性なり』という言葉があったかと思うのですが。

安岡:
人生は習慣の織物という言葉もありますよね、だから本当に人生の中で大切な要素だと思うんですけど、良き資質を見つけたら、良き習慣が身に着くように導くのも指導者のチカラかなと。大切な部分だと思います。

青柳:
確か、論語に似た教えに、「教えありて、類なし」と。

安岡:
ほとんど、同じことですね、人間は生まれた時に種類の差などはなくて、何で差がつくかと言ったら、 その後にどんな教育を受けたかどんな素敵な先生と出会ったかで人は変わっていくということですから、逆からしたら、先生たるものの、指導者の責任って、重いということですよね。

青柳:
大きいですね。

安岡:
彼は私に出会ったから こうなったんだといってもらえたらうれしいですよね。少しでもいい方に、少しでもビジネスマンとしてそれが人としても充実していけたらいい。かかわる、人材育成する方の責任は大きいと思います。

青柳:
そうですね、教える側の責任は大きい。その人の人材としての値打ちとか将来を左右するといっても過言ではないですね。

安岡:
そうですね。

青柳:
安岡先生、本日はありがとうございました。

安岡:
こちらこそ、どうもありがとうございました。とても楽しいひと時で、論語の魅力改めて感じるいい機会になりました。学ぶということとか、弟子を通してあきらめないとかいろんな角度でもう一度論語を見直すことができて、とても楽しいひと時でした。ありがとうございました。

青柳:
本当にこのような素晴らしい場所で。

安岡:
本当になかなかない機会で楽しいお話ができたので、とても心に残るひと時でした。

青柳:
ありがとうございました。