平成22年度特別講座:鹿児島大学編

岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾
岩崎育英奨学会 政経マネジメント塾 平成21年度シリーズ

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特別講座:鹿児島大学編

講師
岩崎 芳太郎 (「政経マネジメント塾」 塾長) [岩崎育英奨学会 副理事長]
開催日時
平成22年10月26日(火)10:30~12:00
場所
鹿児島大学法文学部 (鹿児島市郡元1-21-30)

岩崎 芳太郎(Yoshitaro Iwasaki)

「政経マネジメント塾」 塾長

1953年生まれ
1995年、岩崎育英奨学会副理事長
2002年、岩崎産業株式会社代表取締役社長
現在、いわさきグループ50数社のCEOとして、運輸・観光・製造など幅広く事業を展開

著書:「地方を殺すのは誰か」(PHP研究所)等

講義内容

皆さん、おはようございます。いまご紹介いただきました、岩崎でございます。私は、鹿児島大学教育学部付属幼稚園、小学校、中学校を出ました。工学部のところに私のおじいちゃんの胸像もありまして、そういう意味では、鹿大を出ておりませんけど、いろいろな意味で鹿大に近い関係にありますので、きょうここで75分間お話をさせていただくのを非常にうれしく思っております。

たぶんここにいま講義を聞きに来られている学生の皆さんの一番の関心事は、やはりあと1年、2年して大学を卒業したあとに、どこに就職するのかでしょう。いま日本経済は厳しいですから、採用してくれる会社も非常に少ないという意味では、いまから皆さんがよほど戦略的に就職活動をしていかなければいけません。そのような危機感を持たれた方が来て、就職のために役に立ちたいという気持ちが強いでしょう。それに対して私としては、1人1人に役に立つことを少しでも伝えてあげられればと思います。

いまから私が申し上げることを理解してもらえると思いますけど、そういう皆さん1人1人が大人の自覚、社会人としての自覚を持ち、さらに、いい会社に就職したい、就職浪人をしたくないという、個人的な動機のなかで、自分の一生というものを考えて、自分の生き方をしっかり持っていくということ大切です。

そして、最終的にはわが岩崎グループが事業理念のなかで謳っております、地域社会との共存共栄、また、地域を発展させることによって、岩崎グループという企業が反映を続けていきたいという考え方に合致します。もちろん県外に就職する方も多いでしょうけど、県内に残った人は、そういうしっかりした自覚を持って自分の人生を頑張っていけば、それが最終的には地域のためになります。また、県外に出た人も間接的に鹿児島のためになり、最終的には日本のためになるということになるのではないかと思います。少し大げさな言い方から始めましたけど、そういうつもりでお話ししますので、そういうつもりで聞いてください。

ですから、とりあえず皆さんとしては就職のためにお話を聞くということですけど、私は就職をしたあと、社会人となってどうやって生きていったらいいのか、どういうふうに物を考えていったらいいのかというようなことを、皆さんに少しでも理解していただくためにお話ししたいと思います。

いまからお話するなかで一部触れますけど、いまの企業は、偏差値型人間、秀才型人間、横並び型人間というようなイメージの人材は大概の企業は求めておりません。なぜなら、日本という国が、従来の偏差値型、秀才型、横並び型の人間を学歴主義で採用して、その会社はグローバルコンペティションのなかで生き残れるということにはないからです。

では、どういう人材を求めているかというと、いま申し上げたように、社会人として1人の人間として、生きる目的、もしくは、1人の人間として個性、個が確立しているかということに関して、「やはりこの人は立派だな」「この人材だったら、個性を発揮してやっていってくれるだろな」という見方で採ります。ひと昔前でしたら、いい大学、Aの数ということで採りました。また、面接試験の質問も極めてマニュアル的な質問があり、マニュアル的な回答で、自動的にそれなりにレベルの合った学校と成績の人が、レベルの合った企業に就職していきました。しかし、このような時代は完全に終わっと思ってください。

公務員は、まだ企業ほど厳しい状況にはなっておりません。しかし、新聞でご覧になるように、すでにいろいろな意味で、公的セクターだけが非常にまだ厳しい日本のなかで甘えた環境におかれているという意味においては、公務員の人もいまからは例外ではないと思います。公務員志向の方も、まず1人1人個がどうなるかを真剣に考えて、就職まで卒業までの残された時間で、平たく言えば己を磨いてください。そうすれば、よりよき結果が得られると思います。

さらに申し上げれば、人生には何回もの転機があり、また、終身雇用制が完全に日本の社会においては崩壊しつつあります。ですから、卒業と就職に関して十分な満足いく結果が得られなかったり、新卒で企業に入れなかったからといって、それがあなた方の人生を決めるわけでもありません。先ほど申し上げたように、第一義的には就職のために、私がいまからお話することに賛同すれば、それなりに己を磨いてください。ただし、就職に失敗したとしても、そういうつもりで、そこからずっとやっていけば、そういう人間の方が最後は他人から成功したように見られ、それ以上に、自分自身で満足いく人生を送れたというふうに思うのではないでしょうか。少なくとも私は56年間生きてきて、そういうふうに思う次第です。

前置きが長くなりましたけど、正直に言いますと、皆さんにお話をするために、私は10時間ぐらい勉強しました。すべてお話をすれば20時間ぐらいかかりますので、いまからなるべく多くを皆さんにお伝えしたいと思いますけど、たぶん尻切れとんぼになると思いますので、まず、最低限皆さんに伝えたいことを先に申し上げます。

1.すべての日本人にとって“恩書”としての意味を持つ「学問のすすめ」

レジメ資料5の2枚目を見てください。線が引いてございますけど、これは『学問のすゝめ』という福沢諭吉の本のなかに書いてあることです。福沢諭吉は1万円札に載っていて、先ほども先生からご紹介がありましたように、慶応義塾大学を作った人です。この人が自分の子どもたちに教えたことが、ここに書いてあります。あえて読みます。『なるたけ人のせわにならぬよう(中略)じぶんにてできることは、じぶんにてするがよし。これを西洋のことばにて、インヂペンデントという。インヂペンデントとは、独立ともうすことなり。どくりつとは、ひとりだちして、他人の世話にならぬことなり』ということです。

いまからいろいろなことをお話しますけど、なかにはそういう考え方は賛同できないとか、よく分からなかったとかもありますので、分かったところ、自分の考え方に合ったところだけを自分に取りこんでいただければいいです。最低でも先ほど申し上げたように、大学2年生、3年生として就職を意識しながら、すなわち大学を卒業したとき、社会人になっていったときに、どうやって生計を立てていくのか、どんな生き方をしていくのか、それを最初に規定するのが、どの会社に就職するのか、どんな仕事を始めるかということです。

そういうことを抜きにして、それ以前にあなた方が大学を出て社会人になるということは、ここに書いてあるように、インディペンデント、独立するということだと分かっていただければいいです。逆に言えば、卒業、インディペンデントまでに、あなた方は何をすればいいのかということです。また、ほんの一部ですけど、ここに書いてあるように、インディペンデントとは、独り立ちして他人の世話にならないためには、何をしていけばいいのかということを自分なりに考えてやっていくことです。

かなり時間が過ぎたので、先ほど申し上げたように、たぶん多くの部分がお話しできないで終わるのですけど、次は2段構えで申し上げます。

いまから三つのことを申し上げますが、全部進まなかったときのために、この三つのことは頭のどこかに置いておいていただければ、あなた方の役に立つと確信しております。まず1番目です。『人はパンのみに生きるにあらず』。これはイエス・キリストがキリスト教を布教するために言った言葉ですけど、イエス・キリストは、人はパンのみに生きるにあらず、信仰を持たないとダメですよということを言って、その信仰はキリスト教でということで、布教に使ったわけですけど、これは世の中の心理だと思います。これで二つのことがいえます。人はパンがないと生きていけない。もう一つは、いま申し上げたように、人はパンがあって、ただ、それを食べて動物のように生きているだけでも人といえるのでしょうか。いわゆる人であるためには、パン以外の何かを必要とし、パン以外の何かがないと、人といえないのではないですかということだと思います。これを宗教家、イエス・キリストは、足りないもの、パン以外の何かは宗教ですと言ったわけです。

レジメの1番目を見てください。あえてこれだけの人数で時間がありますので、お聞きしませんが、あなたは何のために生きていますか。現在、二十歳ぐらいだと思いますが、小さいときは、そういう意識はないわけです。物心がついてから、それなりに個人差はあるのですが、いろいろな悩みがあり、恋愛もあり、進学の悩みもあり、いろいろなことを考えていても、きょう現在、この質問に完璧に答えられる人は、このなかにほとんどいません。それで普通だと思います。

ただ、あなたは何のために生きていますかという質問に答えられるように心がけて生きるということは、ぼくは非常に大切なことではないかと思います。ちなみに、ぼくがこの質問をされたら、死んだときに、棺桶の中でおれの人生は実に満足いくものだったと思えるように生きているときょうのぼくは答えます。あなた方もそういう意味において、例えば、25歳のときは25歳の答えを、30のときは30の答えを見つけるために、毎日、1年1年を一生懸命生きるということが大切なのではないかと思います。

これが、先ほどパン以外の何かであり、それは宗教であってもいいですし、なくてもいいです。哲学的なものであってもいいです。例えば、私は音楽のなかので、楽器の演奏を一生したい。もしくは、プロレスラーだったら、プロレスラーというプロの職業に。あるいは、看護師、医者など使命感を持った生き方をしたい。何でもいいと思います。それが求道的であってもいいでしょう。求道的というものにはいろいろなものがあるのですけど、例えば、お茶の先生、能の先生、柔道の先生などがあります。もしくは、普通の会社員であっても、なにがしかの道徳的、もしくは、なにがしかの哲学的、あるいは、信念といいますか、自分は平平凡凡でもいいから、真面目で誠実な一生を送って家族を大切にして生きたい。何でもいいのだと思います。人はパンのみに生きるにあらず。これは、やはり大切なことだと思います。

次に、先ほどもご紹介しました、福沢諭吉の『学問のすゝめ』です。『天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず。人の下に人をつくらず』。これは、有名な文章ですから、皆さん、ご存じだと思います。ひょっとしたら、ここまでで福沢諭吉は『学問のすゝめ』で人間は平等だということを書いていると思われる人がいるかもしれませんけど、実は違います。

問題はこのあとです。レジメを見てください。簡単にやります。原文の方の5行目ぐらいです。『されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり』うんぬんと書いてあります。それから、下から4行目です。『ことわざに云く、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり。人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者貧人となり下人となるなり』。

『学問のすゝめ』で福沢諭吉がいっているのは、次のようなことです。もともと天は人間を平等に作ったけれど、現実の世界は貧しい人、豊かな人がいます。尊い人、卑しい人がいます。なぜこんなに差が出るのでしょうか。それは、学問、学ぶということをした人としなかった人で、こんなに差が出るのですということをいっています。サラッと流しますと、学ぶことを常に怠らないで、皆さん頑張ってくださいということです。もともとみんな平等に作られていて、差が出るのは学んだか学ばないかということに尽きるのではないのでしょうか。

3番目です。資料3を見てください。『天はみずから助くる者を助く』。これもキリスト教的なことわざです。これは、資料4に書いてありますけども、サミュエル・スマイルズが1858年に書いた『Self-Help(自助)』という題名のもので、亡くなられましたが、竹内均東京大学教授が、『自助論』ということで訳した本の一部です。これを明治4年に中村正直が、『西国立志編』で最初に訳しております。実は、この『学問のすゝめ』が明治5年、正確にいうと明治4年12月に初稿が出ていて、中村正直の『西国立志編』が明治4年に出ていて、この二つの本が当時100万部以上売れたそうです。当時の日本の人口はよく知りませんけど、1億2,000万の半分ぐらいではなかったかと思います。

江戸時代が終わって明治維新があり、明治開花のなかで西洋に負けない近代国家になろうとして、新しく日本が取り入れた社会システムのなかで、福沢諭吉先生の書いた『学問のすゝめ』、それから、スマイルズの『Self-Help』を訳した『西国立志編』が100万部も出たということは、当時の日本人はこういうものを非常に読んで、近代国家のなかであるべき個人、個というものはどうなければいけないのか、どうやって生きていかなければいけないのか、非常に真摯な姿勢で臨んでいたということがうかがいしれるわけです。

『天はみずから助くる者を助く』は、先ほどの福沢諭吉が2人の息子に言った言葉と通ずるものがありますが、この本には、自助、他人の世話になることなく独立するためには、まず経済的に自分で何とかやっていかなければいけない、また、自助心がないところには独立もないというようなことが書いてあります、以上が、パン以外の何かの話です。それから、学問、学ぶことを怠らないこと、また、自助、まず自分で何とか生活していく、食っていくということをなくしては独立もないということをお話しました。

話が飛びますけど、福沢先生がこの『学問のすゝめ』のなかで言っている言葉で、いまよく言われるのが、独立自尊という言葉です。あえて言えば、自尊は、先ほど言った自分のパン以外の何ものか、自分固有の個性、もしくは、自分の持っている価値観、それに対する己の誇りのことです。言いかえれば、人間は己のよりよき自尊を保つために生きていると言っていいのだと思います。

それに対して、どうなければいけないかというと、独立していない人間は自尊を保てません。自尊独立の反対が依存だとすれば、どちらかというと、あなた方はいままで親に依存してきたわけです。でも、幸いにして、あなた方が依存しても親は愛情を持って育ててくれましたが、第三者に依存した場合は、その見返りとして隷属というものを強いられる可能性があります。つまり、嫌なこともしなければならず、自尊を保つことができません。
従って、自尊を保ちよりよき生き方をするためには、1人1人がまず独立をしないといけない。その意味では、個の確立と独立というのは、セットの考え方になります。ただし、経済的に親に依存しているならば、これは独立とはいえないわけですから、やはり自助していかなければいけないわけです。

先ほど申し上げたように、親はあなた方に隷属は望みません。もちろん子どものあなた方が間違った考え方を取ったときは、そうじゃないよと言ったでしょう。当時のあなた方からすると、親から隷属を強いられたように思ったでしょうけど、それは、あなた方のために言ってくれたのであって、いまとなっては隷属ではなかったわけです。他人から独立せず誰かに依存している人間が、その見返りに要求されるものは、必ずやあなた方はなにがしかの自尊を損なうものだということです。その意味では、基本的には、自尊と独立と自助がやはりあなた方の人生をよりよくするために、一番重要なことだとぼくは思います。ですから、こうやっていまあなた方にお話をしているわけです。

いろいろなお話をしたいのですけど、とりあえず万が一尻切れとんぼになった場合は、そこまでは覚えておいてください。だいぶたちましたけど、本題に戻します。

2. 企業が環境に適応するために求める人材

日本は、いま世界的に見て、どのへんの位置にいると思いますか。人それぞれですけど、いまの日本はG8先進国首脳会議の8人の1人として出ていますが、たぶん私は二流国だと思います。中国にも抜かれました。韓国にも抜かれました。それが客観的な見方だと思っております。

ここに出ている皆さんは、就職に対して、ある種間接的に影響が出ているという意味では、いま日本が衰退しつつあり、これから、どんどん世界のなかで落ちていくということに関しては、少しは危機感を持っている方もいるかと思います。しかし、全体的に見ますと、もしかしたら、日本人のほとんどの人間が危機感を持っていないのではないかと思います。日本人としての皆さんに一番欠けているものは、危機感ではないかと思います。

経済界のなかで環境にどうやって適応していくかということが、経営の一番重要なポイントですが、その難しさを表す、煮えカエルというお話があります。知っている方もいると思います。カエルを熱湯に入れると、熱いから飛び出るのだそうです。実験したことがないので、うそか本当か知りません。ところが、水の中にカエルを入れて少しずつ温度を上げていくと、最後に煮えて死んでしまうそうです。

このお話は何を言っているかというと、カエルがわれわれ、環境は水としましょう。水の温度が少しずつ変わるというのは、環境の変化が分からないですよね。それに関しては実に鈍いです。結果的には、自分が死にいたるまでの大きな環境変化が起こっても、気づかないまま死んでしまいます。

ところが、最初に言ったように、ギャップがある環境だったらそれはすぐ分かるので、カエルは飛んで出るということになるわけです。

いま日本はグローバルスタンダードの名のもとに、大きなパラダイムシフトのときにあり、皆さんが思っている以上に、これからの10年はさらに環境が変わっていきます。先ほど申し上げたように、各企業はその環境にどう適応するのかということに関して、経営の根幹として対処しています。世界がどう変わっていくのか、そのなかで日本がどう変わっていくのか、その日本のなかでわが社が生き残るためには、どう変わらなければいけないのかということである。いまの大概の企業は、もしくは、生き残っていくであろう企業は、その企業自体が環境に適応するために、環境の変化を予見して、自分がどう変わっていかなければいけないのかということを自覚し実行できる人間を求めているわけです。

鹿児島大学で言うのも変ですけれど、日本の教育制度、及び、教育の内容に関しましては、ある時期から完全に制度疲労をきたしております。そういう目線でいけば、皆さんは、どちらかというと欠陥商品です。でも、別に失望する必要はありません。高校までは、あなた方は個人ではできなかったわけですから、それでしょうがないでしょう。でも、いまからが勝負だと思ってください。ですから、最初に申し上げたように、自分を、個を確立して、福沢先生が言うように、絶え間なく学んで、人に隷属して自尊心を失わないようにして、卒業したら何とか食ってく努力をするということが大切なのです。あなた方は、赤信号をみんなで渡っていい時代が終わったなかで、欠陥商品なのです。どこが欠陥かと言うと、まず偏差値教育、それから横並び教育ということを施されてきました。それは皆さんのせいではないし、それはしょうがないことです。

レジメの2番目を見てください。みにくいアヒルの子という童話を知っていますよね。みにくいアヒルの子は白鳥の子で、結局、最初タマゴからかえったら、1人だけみにくいからいじめられました。

最後は白鳥になり、白鳥は一般的には見た目がアヒルよりは美しいからと、おしまいということになりました。あの童話をどう解釈するかです。

ここで、いわゆる白鳥の子どもはみにくければ、みにくくないアヒルの子となります。皆さんは、たぶんずっとみにくくないアヒルの子できたわけです。白鳥の子どもと違って、みにくいアヒルの子は、落ちこぼれと呼ばれて、時にはいじめられて、時にはグループから離脱していったということで、白鳥のひながアヒルの子よりみにくいという客観的な事実をいっているわけではありません。

二つの意味があります。一つ目は、1人だけ違った人間は、やはりのけ者にされる、いじめられるという話です。二つ目は、白鳥のひながアヒルのひなより客観的にみにくいという事実はないにもかかわらず、白鳥のひなをみにくいアヒルの子といっています。これはたまたま美しいという価値観でそれを表現していますけど、正しいかという価値観に置き換えたときは、1人だけ違えばその人が間違っているということになります。ただ子どもに分かりやすいから、きれい、汚いという価値観に置き換えられていますけど、これはあくまでも違ったものの価値観を残りの大勢の価値観が否定するということを表現しているのだと、大人は読まなければなりません。

その意味では、繰り返しになりますが、日本の教育は、そうやって皆さんを育ててきました。皆さんだけではありません。逆に言えば、個性というもの、違わないことを強要し、一定の幅に入ることを強要してきました。

また、先ほど申し上げたように、秀才であることを要求してきました。秀才というのは、難しい話ははしょりますけど、お勉強ができるという一つの価値基準のなかで、人よりお勉強ができる人をいうわけです。お勉強ができるかできないかというのを計る方法は、テストをするということです。運動ができるかどうかは、ペーパーテストでは分かりませんので、体力テストで50mを走らせたりします。つまり、基本的には、秀才とはペーパーテストで高い点を取る能力が優れているということで、往々にして秀才は頭がいいといいます。もちろん頭がいいという定義もいろいろありますが、統計学的には頭のいい人の多くがテストの点も高い、いい点が取れるというのも客観的な事実です。ただし、その人が勉強をちゃんとすれば、ですが。

もう一つの欠陥を申し上げます。皆さんは大学受験をするとき、もしくは、高校受験をするときに、どんなことを習ったか覚えていますか。例えば、ぼくのころは共通一次などもありませんでしたので、よく知りませんけど、例えば、共通一次の高い点の取り方というものがあります。皆さんは、少なくともこういうふうに習ってテストを受けたのではないでしょうか。できる問題からやれ。例えば、100点は取らなくていいから、できない問題、難しい問題があれば飛ばせ。時間が残れば、できた問題の答え合わせをしろ。それを足して目標の点が取れれば、あえてできない問題なんか間違ってもするな。これが本当の意味で、テストの点、受けた人の能力なのでしょうか。頭のいい、お勉強ができるのが何なのか知りませんけど、ただ、ペーパーテストの点が本当に何かを正確に表現していると思いますか。このようにしてここまで来たなかで、皆さんは、致命的な欠陥を持ってしまったのです。

その欠陥は、いま日本の国を動かしている霞が関にいる人たちもそうです。大学でいけば、東京大学や京都大学を出て、かつ、その東京大学でも成績優秀で公務員試験に受かった連中です。すべてペーパーテストで点が高かった連中です。言い換えれば、彼らがいま日本をマネジメントしているのですけど、その連中は最悪の欠陥を持っています。どういう欠陥か。できない問題はしない、できる問題だけやる。いまの日本に正解のある問題があると思いますか。過去の前例や過去のやり方の踏襲で、日本がよりよき方向にいくと思いますか。

先ほど申し上げたように、世界が大きくパラダイムが変わっていて、いままでのやり方では通用しないときに、日本人のほとんどの人間が、優秀=能力があると思っているのではないでしょうか。

ちなみに、能力を辞書で引きますと、物事を成し遂げることのできる力、ということでいけば、英語でいうと、ability、be able to、で分かりますよね。点がいいというのは、get good markです。capacityといいます。たまに皆さんは使うかどうか分かりませんが、あいつキャパがあるとか言いますよね。勉強ができるやつを、あいつキャパがあると言いますか。言わないでしょう。つまり、いまの日本の教育、もしくは、人材という能力というものの考え方は、非常に本質をはずしているといます。

繰り返しになりますけど、どうやって乗り越えていかなければいけないのかという危機意識を持っている企業、もしくは、集団、そういう人たちが、一緒にやろうぜという人間はどういう人間なのでしょうか。偏差値がいい、逆に言えば、できない問題はあとまわしにして、できる問題だけやって、ペーパーテストの点を高くする人間を仲間に入れて何の役に立ちますかということだと思うのです。

3. 日本をダメにする外来語の曖昧な概念や定義

話をガラッと変えます。ぼくはこの例えを何時間も悩んでいまして、昨日の夜、なかなか眠れなかったのですが、ふと思いつきました。

皆さんは、プリンを知っていますよね。日本でプリンを買いに行くと、だいたいみんな同じイメージがわきますよね。プリンという言葉とプリンというものの概念は、ほぼ日本人は共通ですよね。このプリンというのは、英語でいうと、puddingです。では、君たちがアメリカに行って、puddingというものを買ったときに、日本人が共通に持つ、上が茶色で黄色いプリンが出てくると思いますか。実は、出て来ません。rice puddingなどが、よく英語の教科書などに出ていますけど、あれはプリンとは程遠いものです。プリンというお菓子の定義、もしくは、概念は、日本でいうプリンとは違うものなのです。どちらかというと、もともとpuddingというものがあり、日本に入って来てプリンになったのです。日本でいうプリンは、欧米ではcustard puddingといって、puddingの1種類です。

今度は、逆の話をしましょう。ラーメンを広辞苑で引くと、中華そばと書いてあるのです。それから、和英辞書で引きますと、Chinese noodlesと書いてあります。皆さんは、そう思いますか。たぶん外国人をラーメン屋に連れて行ったときに、これは何かと言ったら、皆さんはラーメンと言うでしょう。たぶんアメリカの中華料理屋に行って、Chinese noodlesを頼んだら、ラーメンは出て来ないですね。いまの二つを前提に、少し堅い方でいくつかのことを申し上げます。

まず、democracyを知っていますよね。日本語訳は民主主義です。アメリカは、democracyの国です。アメリカの政治の仕方は、democraticな政治の仕方です。イギリスもそうです。日本は民主主義ですよね。一緒だと思いますか。

次にいきましょう。lawは、皆さん法学部ですから、分からないと変ですよね。これを辞書で引きますと、法・法律と書いてあります。lawは法ですけど、律ではないです。日本はlawとは違って、法ではなく法律がある国らしいです。

それから、憲法は、英語は何と言いますか。constitutionというのです。英和でconstitutionを引きますと、政体・国体と書いてあります。だから、日本語で言うと、憲法というとlawの1種類みたいですけど、constitutionはlawの1種類ではないのです。lawを作るまずベースになる政治体制、国対のあり方、主権者の正義等々を決めるもので、ぼくはよく分かりませんけど、私の定義でいくと、憲法学者は法学者ではなく、政治学者です。

それから、アメリカで裁判があって、無罪になった人がいるときに、この人はアメリカで無罪という言葉は何というか、ご存じですか、法律を勉強していたら分かると思いますが、無罪の反対は有罪ですよね。日本は有罪、無罪で決まります。有罪というのは、guiltyといいます。辞書で無罪を引くと、innocentで出てきますけど、アメリカでは裁判をして有罪にならなかった人は、innocentとはいいません。not guiltyといいます。

いま非常にややこしいので、何を言いたいのだろうと思った方もいるかもしれませんけど、時間がないので雰囲気だけ伝えて、はしょって言います。日本という国は、何かを外国から持ってきて、日本の社会に適応したとき、言葉を持ってきたときに、本当に概念、及び、定義を厳格にして、その概念や定義を前提として持って来ているかというと、日本はそういうことについてはいい加減にする国です。そして、持って来たが最後、その和訳が独り歩きして全く別なものになります。

オリジナルとどこが違うのか、違うことが悪いのではないのです。例えば、democracyは、どういう概念でどういう定義でといったときに、いま日本は民主主義の国だといわれていますけど、本当のdemocraticな政治体制の本質の概念や定義を知らないで、ただ日本に持ち込み雰囲気で民主主義といったときに、そこで起こっている政治の体制、われわれの社会のシステムが民主主義の体制なのかどうなのかは、実にいかがわしいものです。

例えば、not guilty、推定無罪という言葉があります。法律用語や推定などを習った人もいるのではしょりますが、日本は控訴主義です。控訴主義というのは、国が刑事事件では訴追するわけですけど、少なくともその人がその罪を犯したというのは、挙証、立証しない限りは、いかに疑惑や疑義があっても、その人は無罪というよりは、not guiltyです。でも、日本という国はそういう司法制度で、推定無罪とかいうことをすべて概念やシステムとして持ちながら、そこに無罪という言葉を使ってしまっているがゆえに、一般の人は、not guiltyも疑わしいから無罪じゃない、not innocentで有罪にする。これは本来の民主主義のなかの訴追のあり方、裁判のあり方としては、実はおかしいのです。

これ以上突っ込むと難しいのですが、基本的に私が申し上げたかったことは、皆さん、英語を勉強してくださいということです。英会話を勉強しろとは言っていません。もしくは、英語に興味を持ってみてください。それを少し解説しましょう。

いま言ったように、民主主義は、和英で引いたらdemocracyと書いてあるけど、一緒でしょうか。いまグローバルスタンダードという名のもとに、世界基準のシステムに、日本では合わせて作らないといけない、社会を変えなければいけないといわれてきました。これは初めてではなく、実は少なくとも3回目です。1回目は先ほど言いました明治維新です。そのときに、封建制の江戸幕府から欧米のマネをして近代国家の体を輸入したわけです。近代国家の形、大日本国帝国憲法を作り制度を変えていきました。これも当時でいけば、欧米の諸国、イギリス、アメリカ、フランなどを植民地として持って世界を支配していたわけですから、当時のグローバルスタンダードを唯一アジアで入れたということと定義できます。

2回目は、戦争に負けたときです。このときも自分たちで入れたのではなく、自分たちで明治のときに作り上げたものを、すべてアメリカにやり直しさせられました。当時、三国同盟で、全体主義の国が民主主義の国に負けたという意味では、勝った民主主義の国である、イギリス、フランス、アメリカの制度を入れて、アメリカ主導、アメリカンスタンダードで、グローバルスタンダードを入れたわけです。

いまは3回目です。先ほど申し上げたように、もともとのオリジナルの概念や定義をいい加減に雰囲気で入れたら、おかしなことになるというのは感覚的に分かりますよね。われわれから見れば、ラーメンの例が一番分かりやすいのではないでしょうか。

われわれはラーメンというものはこんなものだと思っているけど、それをChinese noodlesだというようなことで、ラーメンというのはこんなものだよといって、ラーメンとは違う中華そばをアメリカに導入したら、やはりラーメンを前提に物を言っている人間からすると、少し変だなという話になります。ですから、日本の民主主義はカスタードプリンであり、アメリカでいうpuddingとは違うかもしれないのです。

そういう意味では、それほど大げさな話ではないと思うのです。いろいろな新しい制度、新しい言葉、すでに当たり前のように使われている言葉も、自分なりの解釈をするということが非常に大切です。特に日本は自国だけで成り立たない国という意味では、どうしても世界に合わせていかなければいけません。しかし、常にいろいろなルールや概念が外国から入って来るときに、自分なりのものの考え方ということを持っておかなければいけないと思います。

4. グローバルスタンダードへのキーワード「独立自尊」

残り時間が少なくなりましたけど、最後に、レジメの10番を見てください。独立自尊の反対語が、共生他尊です。ここで少し言葉遊びをしています。福沢先生は、独立自尊という言葉とあわせて、共生他尊ということを言っています。他尊というのは、辞書には載っておりません。福沢用語です。自尊の反対で、己を尊ぶように他人の価値観も尊重することを他尊といいます。共生というのはそのままで、いわゆる独立自尊している人間であればこそ、他人の違いを認めて相手の尊厳を尊重することができる。そのように独立をして自尊心を大切にしている人間こそ、他人の自尊心を大切にできるから、初めてそこに共生ということができるということです。
共生他尊の反対が、唯我独尊といいますけど、私はここに我という字をもう1個入れております。いまの日本人は、唯我我独尊。いまだにJapan as No.1だと思っています。それから、先ほど言ったように、教育をひっくるめて、みんな一緒であることに価値観を置いていて、違うことに価値観を置きません。でも、違うことに価値観を置けば、先ほど申し上げたように、他尊ということが出てくるわけです。
日本人というのは農耕民族ですから、自分たちの仲間で『和をもって尊すこと』で、これ自体はとても大切なことだと思いますけど、いまの時代となっては、和をもって尊すときに同じことを前提とすべきではないですよね。

いまでこそ和をもって尊しとするためには、先ほど言ったように、1人1人が違う個性を持ち、他人の違う個性を尊ぶことができ、共生できるから初めて和が保てるわけです。同質であることで和を保とうなんていうことは、結局、同質のグループの唯我独尊、唯我我独尊でしかないです。

そんな国が世界とうまくやっていけるはずもなく、スマイルズも福沢先生も独立自尊、自助のなかで、己を磨くよういっています。己を磨くというのは、能力や己の人格、品性を磨き、そういう人間の集団の国が初めて世界の他国からも尊ばれて独立することをいっているわけです。それと同じことを、いま私は、鹿児島県という地域の人材となるであろうあなた方に、鹿児島県の地域がどうやったらよくなるのかということに関して、その価値観を重視している会社のトップとしてお話ししました。

皆さんの目先の現実は就職活動ですが、就職はおしまいではなく、どちらかというと始まりです。この考え方は、先ほど申し上げたように、よりよき人生を送るためにとても大切なことだと確信しておりますので、先輩としてアドバイスを申し上げました。少し長くなりました。レジメには、質問が約30ありますけど、おもしろそうな質問には、自分なりに回答を作ってください。以上です。

質疑応答

質問者:
社長のおっしゃる学びや興味を持つという意味では、私は常々、いろいろなことから人間は学べると思っています。そのためには、何かおもしろいと感じられることがないといけないと思います。私はこの大学にまいりまして15年になるのですけども、最初に聞きたいことなのですが、一連のグループを率いられて、そういう仕事をされていて、それが好きかどうか、まず、この点についておうかがいしたいのですけど、いかがでしょうか。

岩崎:
好きかどうか、なかなか厳しい質問ですけど、好きになるようにしています。私は三代目で、嫌々というと世間から怒られますけど、しょうがなく経営者を引き継いだという見方があります。それと世の中、三代目は一番大変な時代ですから、なんで経営者をしているのかなと思っていますが、宿命論的に、ネガティブにとらえたらおもしろくありません。ですから、社員にもよく楽しめと言うのですけど、楽しむようにしています。嫌なことも嫌な仕事も、聞こえは悪いのですけど、楽しむようにしています。

質問者:
ありがとうございます。私はいま自分がやっている仕事がとても大好きで、スタンダードでありつつもオリジナルをいかしたような、そういうことをしていきたいとは思っていて、いろいろなことをやっています。例えば、人相手の仕事ですので、いろいろおもしろいことが出て来ると思います。いまのお仕事で自分なりにおもしろいと思っていらっしゃることには、具体的にどういうことがあるのでしょうか。

岩崎:
お答えになるのかどうか知らないですけど、先ほど申し上げたように、楽しもうという感覚でやっていますので、基本的には、成功体験をどうやってつなげていくかということが一つです。少し難しいことを言いますと、成功体験は時として失敗のもとになるわけです。例えば、社内でいくと、社員の期待をはずして、社員が意外な顔をする、いわゆる成功体験を続けていくと、こう言うと少し不遜ですけど、一般の人はその成功体験をただワンパターンで続けることによって、さらなる成功を続けようとします。
よく失敗の本質というのがあります。日本軍がなぜアメリカ軍に負けたか、これでいくと、真珠湾で成功したがゆえに、奇襲という成功体験を続けるという意味では、un-learning、いわゆる学習棄却とのコンビネーションが、初めて実際の成功体験を続けていきます。もう一つは失敗です。失敗も楽しみです。なぜなら、失敗したところからリカバーできたら、これも成功体験になるからです。
そういう意味では、経営はあまり楽しいことはありません。でも、そのなかで1個1個に成功体験や失敗をリカバーした喜びを感じ、しかもそこに他人が予想しない意外なアイデアをたまに繰り出して、相手を唖然とさせるのを楽しむのが私のテクニックでしょうか。